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ワシントン州は1889年11月11日に42番目の州として承認され、アメリカ初代大統領ワシントンにちなんでワシントン州と名づけられました。大統領の名前が州名になっている米国唯一の州です。
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■古代
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ワシントン州にはもともと1万1500年前にアジア方面からやってきたモンゴロイドが居住していました。彼らはネイティブ・アメリカンのルーツと言われています。州を南北に走るカスケード山脈の西側と東側では、気候や風土の違いから、さまざまなネイティブ・アメリカンの文化が育成されました。西側の主な部族には
Quileute、Quinault、Makah, Lummi、Chinook、Snohomish など、東側の主な部族には Okanogan、Spokane、Wenatchee、Yakama、Cayuse、Nez
Perce、Palouse などがあります。その後ヨーロッパ人のやってくる17世紀ごろまで、独自の文化を育みました。 |
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■大航海〜西部開拓時代
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| 16世紀、ヨーロッパの大航海時代には、多くのヨーロッパ人が新大陸を目指してやってきました。17世紀に国力が衰え始めたスペインは、復活を目指し、アメリカ北西部の探検を開始。1775年にはスペイン人の探検家らが現在の
ポイント・グレンビル近くに初めて到達し、その地をスペイン領として宣言しました。1778年、探検家キャプテン・ジェームス・クックがバンクーバー島の ヌートカ・サウンドに到達。スペインとイギリス両国が領地を主張したため、両国の関係が悪化しましたが、戦争を避けるため、両国はこの地での商業活動と植民活動を尊重しあうということで同意しました。 |

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| 1792年、イギリス人のジョージ・バンクーバーは、ヨーロッパ人として初めてワシントン海岸地域の地形を調査し、マウント・レーニエ、マウント・ベイカー、サンファン諸島、ピュージェット湾などを命名。また、同年にはボストン出身のアメリカ人で毛皮商人のロバート・グレイが探検した川を、自分の船にちなんでコロンビア・リバーと命名しました。時の大統領トーマス・ジェファーソンは、メリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークを西部へ送り込み、地形や気候などを詳しく調べさせ、2人はコロンビア・リバーを下り、1805年に太平洋岸に到達した探検の模様を詳しく報告。その結果、毛皮商人達が西部に興味を持ち始め、パシフィック・ファー社の創立者ジョン・ジェイコブ・アスターがこの地に入植した最初のアメリカ人になりましたが、1812年に勃発したアメリカとイギリスの戦争により、同社はブリティッシュ・ノースウェスト社に売却され、1821年にはイギリス政府の命令により、ハドソン・ベイ社に吸収されました。
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■ネイティブ・アメリカンの歴史
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19世紀前半にはキリスト教の布教を行う白人が、ネイティブ・アメリカンをキリスト教に改宗させる目的で入植を開始しました。1836年、マーカス・ホイットマン夫妻はワラワラの
Cayuse 族にキリスト教布教と農業を伝導するためにミッショナリーを設立しましたが、ヨーロッパ人の持ち込んだ伝染病などにより、多くのネイティブ・アメリカンが死亡してしまい、富をもたらすどころか病気をもたらした白人植民者達への怒りから、1847年、ホイットマン夫妻とその他12人の布教者達が
Cayuse 族によって殺害されるという悲劇が起こりました。 |
| さらに、19世紀中頃から多くの開拓者が西部へやってくるようになり、ネイティブ・アメリカンは居住地を脅かされるようになりました。そして、1853年にワシントン・テリトリーが設立され、首都がオリンピアとなり、1885年にはネイティブ・アメリカンの大部分が指定居住区域(リザベーション)に居住するという条約に同意させられることになりました。1855年から1859年の間には白人とネイティブ・アメリカンの間で何度か戦争が起きましたが、結局ネイティブ・アメリカンは惨敗し、リザベーションでの居住を余儀なくされたのです。 |
| ■大陸横断鉄道建設 |
| 19世紀後半には、大陸横断鉄道の建設のため、新しい入植者が急増。1880年には75,116人だった人口が、1890年には357,232人になりました。特に鉄道建設の職を求めてやってくる中国系や日系の人口が増え、1882年には議会が反中国人の法律を制定し、ワシントン州の中国系移民への差別が強まりました。
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| ■世界大戦 |
1914年から1918年までの第1次世界大戦頃から、労働運動が盛んになりました。戦後、ワシントン州の経済は落ち込み、1919年には労働組合がシアトル・ジェネラル・ストライキというストライキを決行。しかし、ワシントン州も1929年に始まった世界大恐慌により大きな影響を受け、1939年から1945年の第2次世界大戦まで立ち直る事はありませんでしたが、戦争で船や航空機の需要が高まり、ボーイング社がB-17やB-29戦闘機を製造するなど、景気回復のきっかけになりました。
1941年の真珠湾攻撃の後、この地の日系人はすべてカスケード山脈の東側などの内陸部にある強制収容所に収容されました。これらの日系人は戦後になって開放されたものの、戦前築き上げた財産や土地などをすべて失ってしまいました。
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■戦後
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| 第2次大戦後、 豊富な水資源による安い電力、ダム建設の恩恵を受けた灌漑システムなどにより、農業生産が飛躍的に成長。また、1960年代から1980年代にはシアトルを中心としたメトロポリタン・エリアが発展し、1962年にはシアトルで
『センチュリー21』 と呼ばれる万国博覧会が開催され、シアトルは一躍世界に知れ渡る都市となりました。この時に会場となったのは現在のシアトル・センターで、今ではシアトルのランドマークとなっているスペース・ニードルなども当時に建設されたものです。 |
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| 1970年代には、連邦政府の航空機産業への予算削減の影響でひどい不景気に見舞われましたが、1970年代後半には商業用航空機の需要の高まりなどから、徐々に景気は回復。1980年5月には、マウント・セント・へレナが大爆発を起こし、57人もの人々が亡くなり、何十億ドルもの被害がありましたが、1980年代後半からは航空機産業に加え、バイオテクノロジー産業・ハイテク産業・コーヒー産業などが経済の基盤を担うようになりました。その後、1990年代初頭に最盛期を迎えたドットコム企業が、1990年代半ばから後半にかけて倒産し、ドットコム・バブルが崩壊。世界的な不景気も手伝って、ワシントン州は全米でもワースト3に入るほどの高い失業率を記録し続け、巷に多くの失業者があふれることになりました。
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■21世紀
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| 2001年9月11日に起きたニューヨークの同時テロ事件で航空産業をはじめとするさまざまな産業が大きな打撃を受けました。ワシントン州の経済は2004年四半期は失業率が減少傾向にあり、今後は安定すると見られていましたが、2006年から全米でサブプライム・ローンによる金融機関の問題が拡大し始め、景気への影響が取り沙汰されるようになりました。サブプライム・ローンとは、通常なら住宅ローンの審査に通らないような人に貸付を行なうもの。結局は支払いが滞り、住宅バブルがはじける原因の1つとなりました。2008年に入ってからはアメリカ発の大規模な金融危機で、アメリカは不景気に突入したことを正式に認めました。さらに、2008年になってからは米国の大手金融機関の経営難が露見し、米政府は金融機関救済策を打ち出しましたが、シアトルに本社があった貯蓄金融機関最大手ワシントン・ミューチュアルはその間に経営破綻し、救済を受けることなく資産を差し押さえられ、銀行業務のみを
JP モルガン・チェースが買収する結果となりました。1899年にシアトルで設立された老舗銀行で米国最大規模の金融機関に成長したワシントン・ミューチュアルの破綻は、ワシントン州住民に大きな衝撃を与えました。その後、小売業の不振も続き、各方面で失業者が増えています。
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