「春の訪れを象徴する花」といえば、桜を思い浮かべる人が多いでしょう。シアトル地域でも、いたるところでさまざまな種類の桜が咲きますが、その中には、太平洋戦争で敵対した日本とアメリカの友好の歴史を伝える桜もあります。ここでは、シアトルの桜が持つ特別な意味と、日米の歴史と桜の関係についてまとめました。
シアトル・センター:皇室ゆかりの桜
シアトル・センターのフィッシャー・パビリオン前にある芝生の横に植えられている桜は、日本の皇室ゆかりの桜であることをご存知ですか?
この桜の歴史は、太平洋戦争終結から約15年後の1960年10月4日、日米修好通商100周年を記念して米国に招待された皇太子明仁親王殿下と美智子妃殿下(当時)がシアトルを訪れたことに始まります。
在シアトル日本国総領事館の公式サイトによると、1959年にご成婚された皇太子明仁親王殿下と美智子妃殿下の最初の海外訪問となった米国訪問は14日間に8都市を訪問する行程で、1960年9月22日に日本を出発された後、ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワシントン DC、ニューヨーク、シカゴを訪れ、10月4日午後3時30分にシアトル・タコマ国際空港に到着されました。
アメリカ北西部の歴史を記録して公開している Historylink.org は、「シアトル・タコマ国際空港に到着されたお二人は、ロッセリーニ州知事(当時)の歓迎を受けた後、シアトルのダウンタウンにあるオリンピック・ホテル(現フェアモント・オリンピック・ホテル)に向かわれた。同ホテルが面している University Street には数千人の人々が並んで出迎え、45分間にわたって行われた歓迎式典では皇太子が演説した」と紹介しています。その夜、同ホテル内のグランド・ボールルームで招待客837人が出席して晩餐会が催されました。
翌5日、ワシントン・パーク植物園に約4カ月前に開園したばかりのシアトル日本庭園で、日本と米国の国民の平和と友好を願い、皇太子が白妙の桜を、美智子妃がカバノキ(European White Birch)を植樹されました。その後、皇太子は米国沿岸警備隊の船舶でレントン市に移動されボーイング社の工場をご見学になり、美智子妃はボランティア・パークのシアトル美術館(現シアトル・アジア美術館)をご訪問されたそうです。
1975年、この桜はシアトル・センターに設置されている 『神戸の鐘』(Kobe Bell)のそばに移植されました。神戸の鐘は、1961年にシアトルと姉妹都市提携を結んだ神戸市が、翌1962年のシアトル万国博覧会で贈呈したものです。
その後、この桜が衰弱したため、2001年に後継木の栽培が始まり、無事成長した4本のうち2本はシアトル・センターに、1本は在シアトル日本国総領事公邸に、残る1本はシアトル日本庭園に植樹されました。
2010年4月5日、ワシントン大学、スワード・パーク、シアトル・センターの桜を採取して塩漬けにしたものが、スペースシャトル「ディスカバリー号」で宇宙に運ばれました。山崎宇宙飛行士、野口宇宙飛行士が無重力状態の実験房内に桜花を入れたピンポン玉サイズの水玉を浮かばせることに成功。詳しくは在シアトル日本国総領事館の公式サイトでご覧ください。
シアトル南部:シアトル桜祭のきっかけを作った桜 米国建国200周年に植樹
レイク・ワシントン沿いにあるスワード・パーク(Seward Park)のそばを通る Lake Washington Blvd にも、見事な桜並木があります。
この桜は、八重桜の代表と言われる関山(かんざん)。1976年に三木武夫首相(当時)が米国建国200周年を祝い寄贈した千本の桜の一つで、今ではシアトルの春の恒例行事となった桜祭が始まるきっかけとなりました。三木首相は学生時代に外遊した際、シアトルを訪れたことがあるそうです。
1976年は、ワシントン大学にあった極東図書館が東アジア図書館(現:タテウチ東アジア図書館)と改名され、現在のゴーウェン・ホール(Gowen Hall)に移転した年。この図書館には、日系人の歴史資料が多数保存されています。
桜のそばにある石碑は、ワシントン州の石を使ってシアトルで制作されたもので、表には三木首相による書「祝米国建国二百年祭」、裏面には説明文と、シアトル市長のウェスリー・C・アールマン氏(当時)と、内田園夫総領事(当時)の署名が彫られています。
三つの立派な灯篭は日本から運ばれたもので、ワシントン州日米協会、シアトル日系人会、春秋会(現・シアトル日本商工会)によって、1968年に寄贈されました。
この桜の植樹を記念してシアトルの日系コミュニティがスワード・パークで開催した催しが、1976年からシアトル・センターで毎年春に開催されているシアトル桜祭の始まりとなりました。
ウォーターフロント:日米交易100周年を記念する桜
シアトルのウォーターフロントのピア66の前にも桜が植えられています。
これは、日本郵船会社の三池丸が1896年8月31日に初寄港したことの100周年を祝い、1996年にシアトル市に贈られたものです。そばには、この桜の寄贈についての記念碑が設置されています。
Historylink.org によると、1895年4月からアラスカとカナダのユーコン・バレーで一攫千金を狙う人達がシアトル地域の港を経由して北上しており、1986年の夏は、そのおかげで好景気に沸いていた頃でした。
パイク・プレース・マーケット前:日本人と日系アメリカ人の歴史を伝える桜
シアトルで1907年に開業したパイク・プレース・マーケットは、米国に現存する公衆市場では最も長い歴史を誇ります。その正面入口に続く Pike Street の1st Avenue と 2nd Avenue の間に1980年代に植樹された桜の木は、かつてこの市場の出店者の75%が日本から移民して農業に従事していた人たちとその子孫の日系アメリカ人たちであったことを後世に伝え、シアトルと日本の文化的な絆を象徴するものとされてきました。残念ながら、その桜は2023年に病気が原因で伐採されましたが、同年12月に新しい8本の桜が植樹され、翌2024年に市長と在シアトル日本国総領事が出席して記念式典が行われました。
1941年12月7日に日本がハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が開戦し、その翌年に米政府が米国西海岸の日本人と日系アメリカ人を強制収容したことから、マーケットの存続が危ぶまれることになったと記録されています。詳しい歴史は下記のページでご覧ください。
ワシントン州日本文化会館:シアトルと日本の絆と歴史を伝える桜
2024年2月、シアトルと日本の絆を深め、新しい生活を築くためにシアトルに移住してきた日本人移民の歴史や希望を伝えるため、インターナショナル・ディストリクトの東端にあるワシントン州日本文化会館(JCCCW)の周囲に11本の桜が植樹されました。
式典には、シアトルのブルース・ハレル市長、在シアトル日本国総領事の伊従誠氏、ワシントン州日本文化会館理事長のカレン・ヨシトミ氏、ワシントン州日系ヘリテージ協会理事長のカート・トキタ氏、シアトル桜・日本文化フェスティバル委員会委員長の佐々木タズエ氏、シアトル日本商工会(春秋会)理事の小田切信行氏らが出席し、植樹の作業を共同で行いました。
現在の JCCCW の建物は、1902年に「国語学校(現:シアトル日本語学校)」として創立されたもので、現在はシアトル市の歴史的建造物に登録されています。戦前は日本から移民した一世とその子孫である二世や三世たちが日本語や日本文化を学ぶ場として、第二次世界大戦後の1945年から1959年は強制収容所から戻った日本人(一世はこの時点でまだ米国に帰化することは認められておらず、日本国籍のままでした)と日系アメリカ人の仮住まいとなった経緯があります。 シアトル日本語学校は、戦時中の一時閉校を乗り越え、米国本土で最も歴史の長い日本語学校となりました。
この11本の桜の植樹は、2023年12月にパイク・プレース・マーケットの前に8本の桜が改めて植樹されたことに端を発する計画の一環。ウォーターフロント・パークが完成次第、そのそばにも桜が植樹される予定です。