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佐藤由美子さん(服飾デザイナー&サイエンティフィック・イラストレーター)

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もくじ

服飾デザインとの出会い

幼い頃から、家族と同じように私も普通に勉強して普通に学校に行くものだと思っていました。4人兄姉妹なんですが、上の3人が普通の4年制大学に行ったので、私も行くという感じ。絵を描くのは好きでしたけど、そんな飛びぬけて変わった人生を送ろうなんて考えもしていませんでした。

でも、大学2年になり、小さなことですが少し落ち込ませられることがあり、自信ややる気がなくなっていたころ、自分の小柄な体にあう洋服がないことをきっかけに、自分に喝を入れる意味で本屋で見つけた簡単な型紙を使ったワンピースを作ってみたんです。自分でもとても気に入ったのですが、友人たちにもとても好評で、それからいくつか作るうちに、母が教えてくれた近所の先生のところで教えてもらうことになりました。

近所の教室と通信教育で基礎から勉強

その桑田先生は文化服装学院の通信教育の学習グループ指導指導員の資格を持っておられたのですが、山本耀司、高田賢三、コシノジュンコなど多くのデザイナーを育てた文化服装学院の初代デザイン科長である小池千枝先生とパリの研修旅行に行ったり、その他多くの文化の指導員の講習会にも参加しておられました。そのおかげで、私達生徒は基本はもちろん、先端を行く技術を教えてもらうことができました。通信教育では学べない、立体裁断や補正、平面パターンの開き方やクチュール仕立て、そして工業パターンやアパレル縫製ではなく、仕立屋の服、もしくは芸術的な服を教えていただいたのです。

生地は日本橋の高富という生地屋さんなどで、輸入のアルマーニのツイードなどを使ったりしてスーツなども作っていました。「自分の手で最初から作り上げるからには、最高のものにするべきだ」という考えで、生地にこだわり、補正にこだわり、作りにこだわる価値感を学びました。自分で簡単に安く適当な洋服を作るという考えとは一線を画していて、それが私にとって大きな収穫だったと思います。

実際、洋服作りはまずは納得のいく素材を使い、パターンを作り、それをトワレチェックすること、補正する目を養うことで、洗練されたスタイルになるかどうかが決まり、それから裁断・縫製です。これのどれを欠いても仕上がりに大きな差が出ます。とにかく、桑田先生のおかげで、ものすごいスピードで、洋服にはまっていきました(笑)。それまで「自然が好き」とか、「絵を描くのが好き」という「好きなこと」はありましたが、小学校の時に絵の賞をもらっても、アートの方に行く気などなかったのに。私は好きなものにはものすごい集中力で突き進んでいくところがあるんですが、まさにその好きな物を見つけた!という感じです。

それと同時に、文化服装学院の通信教育で服飾一般を受講し、9課題の提出をしながら1年半くらいかけてゆっくりとコースを修了しました。文化服装学院の通信教育の服飾は基礎からの詳細が教本になっているので、本屋に売っているイージー・パターンと違って、最終的には自分の作りたいデザインの洋服のパターンや縫製ができるようになります。卒業してからも、たびたび辞書のように使っていました。

その後、自分でデザインするからには、デザイン画もかけるようになりたいと考え、やはり通信教育のデザイン画コースを受講しました。もともと絵を描くのが好きだったので、とにかく楽しく、添削されて返ってきた先生のコメントを読むのも嬉しかったです。人の筋肉の動き、そしてそれにあわせて生地がどのようドレープするかなど、高校までの学校内以外でアートを習ったことのなかった私にはとても楽しくて、あっという間に終えてしまいました。

キャリア・チェンジのための初就職

就職活動では文学部卒の私はデザイン関係などには就職できないので、生地や服飾の輸入商社などを回りましたが、最終的には保険会社に一般職で入ることになりました。その時にキャリア・チェンジのためにお金を貯めるには一番適した就職先だと自分でも納得していたと思います。私の姉もすでに私が就職活動していた頃に、銀行に勤めつつアメリカの大学院に入学するのに資金を貯め、猛勉強していたのを見ていたことにも影響されたと思います。

就職してからは、新宿の文化服装学院で夜間のデザイン画コースを受講しました。そこで初めて自分のテーマに従ってコレクションを作るというやり方を学んだのです。でも、「就職するための」、または「大手アパレルの合理的なコレクションのデザイン」という角度で教えられることに、かなりがっかりしました。マーケティングやマーチャンダイジングを通して統計をとったものをデザインする、もしくは海外コレクションや流行の二番煎じのようなものをわざわざ学校で習うことに漠然とした違和感を感じていたのです。

ファッションの中心、イタリアのミラノへ

ファッションと言えば、だいたいパリ・ミラノ・ロンドン・ニューヨークですよね。ニューヨークの FIT と Parsons School of Design の2校も資料とアプリケーションを取り寄せましたが、アメリカのビジネスや競争主義のもとで私はやっていけないと思い、ニューヨークは却下。ロンドンのファッションも私の好みとは違う。パリはデザイン中心。でも、ミラノは素材がそこで生産されている、物作りの国のすばらしさがある。大学時代、自分が生地そのものをすごく好きなんだということに気付いていたので、じゃあイタリアに行こうと思い立ちました。せっかくの貯金を使って行くなら、楽しいところに行きたいという思いもあって(笑)、イタリアに決めました。

2年ほど週に1回イタリア語学校に通い、また NHK イタリア語講座を独学したりしましたが、留学の準備は学校の入学・ビザ・ポートフォリオの制作以外は特にしませんでしたね。そして、1997年3月にイタリアについてからは、もう毎日が楽しくて楽しくて、こんなに楽しくていいのかと思うぐらいでした。

もちろん、留学では大変なことがいろいろありますよね。このシアトルと違って、ミラノでは銀行から何から何まで普通の生活が機能していない(笑)。でも、行きたくて行った私は、たいしたことをしていなくても、ただもう違う物を見て食べて、好きなことができるのが楽しかったんです。こつこつと貯めたお金で、自分で初めて選んで好きなことをやっているのが、すごい開放感でした。それまではレールに乗ったまま、自分のライフワークなんてものを考えることもなく、そこまでチャレンジもせず、普通に大学に行って、女の子だから文学部で、結婚して子供を産んでという考えでした。でも服飾デザインを見つけてからは、「今しかないんじゃないか」という思いが生まれたんですね。

マランゴーニ・デザイン学校での勉強

イタリアに行ってから最初の約5ヶ月は語学学校で毎日4時間、イタリア語を勉強し、3ヶ月目ごろから語学学校と両立してミラノにあるデザイン学校マランゴーニ(Istituto Marangoni:イタリア・ファッション界のパイオニアであるジュリオ・マランゴーニが1935年にミラノに設立した学校)の留学生用集中コース・デザイン科に入りました。今ではドルチェ&ガッバーナのドルチェ、そしてモスキーノなどが卒業したところとして有名な学校ですが、当時は小さな学校でしたよ。でも、イタリアのいいところは生産と直結しているところ。サンプルを作る時も縫い子さんに頼むという、本当のコレクションのようでした。

学校は面白いシステムでした。とても有名なわりに当時は小さくてアットホーム。カリキュラムは、デザイン、パターン、コレクションと分かれていましたが、どれもプライベートに近いくらいに各生徒が自分の進み方で進み、それに先生が対応していくというやり方でした。1クラスは多くて15人ぐらい。地下鉄やバスのストライキがたびたびあり、そのような時は生徒が2~3人しかいないということも。そうなると、学校というよりも何かの会にいるような、妙に親密な雰囲気になることもしばしばでした。学校のカリキュラムだけを見ると、日本の文化服装学院の方がはるかに細かく、いろいろなことをカバーしていると思います。でも、マランゴーニには、与えられた勉強ではなく、自分が何をしたいのかが分かっていれば、好きなだけ勉強できるといった雰囲気はありました。

一般的にイタリアは基礎に非常に時間をかけ、重点を置きます。基礎は簡単でやり続けることは退屈と思いがちですが、基礎を体感することが最終的には全ての方面にフレキシブルに応用が利くようになるのです。究極的には、画家・発明家・科学者・建築家だったルネサンスの巨匠レオナルドダヴィンチ。重要なコア部分を自分のものにすることでいろいろな方面に発展しても重要な真理を見極められた人物です。(ずば抜けた才能はもちろんですが・・・)それはイタリア人やイタリア料理の飾らないシンプルさ、安定感と同じ感じがします。’

私は日本でパターンをかなり学んで行ったので、ウェディング・ドレスなどの仕立屋でもあったパターンのインストラクターがシャープ・ペンシルではなく、鉛筆で太く何十にも線を書いているのを見てびっくり。「パターンは1ミリでも狂ってはいけない」と思っていたからです。それが日本の感覚なんです。でも、彼女のパターンは私が考えていた工業パターンとはちがい、仕立屋のパターンなのかもしれません。実際にトワレをあわせるときに、パターンの線とは異なり、慣れた手の動きで美しい曲線を自然に手で作り出し、上手にピンを止めていき、そこでパターン修正をするという、いわば立体裁断に近いものがありました。組み立てていくうちに、着たらフッとお尻が上がって見えるとか、職人の手で組み立てられたものをさらに補正されていくときの手がすばらしくて、そこからいい形になっていくんです。

そういった授業以外に、もっとデザインも学びたかったので、家でデザイン画を描いていました。日本のように与えられたことをこなすのではなくて、本当に自由な授業。好きなだけやれば好きなだけ勉強できます。あまりに自由で最初は不満でしたね。同じように不満な学生がたくさんいました。家でやってきたコレクションを先生が見てくれるのですが、「うーん、いいわね!」とか「ここをこうしたら」とか一言だけで終わってしまうんです。

でも、ある時、やればやるだけ、先生のフィードバックがもらえることに気付いたんです。自分が出せば出すほど育ててくれる。やらなければやらないで済んでしまうところを、やればやるだけ引き出してくれる。

ある日、私がパターンにこだわっていたら、「デザイナーというのは映画のディレクターのような感じで、的確な指示を出す立場なんだ」と言われました。デザイナーはイタリア語で “stilista”(スティリスタ)といいます。イタリアではスティリスタは、映画で言うと監督のような、オーケストラで言うとに指揮者のような役目ということです。 デザイナーはパターナーに指示し、トワレやサンプル・チェックができることが大切なのです。

仕立てについてもっと知りたかった私は少々残念とも言えましたが、コレクションを作り出す上で一番重要なコアを最終的には存分に教えられたということなのですね。確固とした物づくりのメンタリティーを身につけることが第一で、仕立ては、経験によって技術を磨き洗練させていくということなのだと思います。高い意識を持ち、技術と経験のある職人を目の当たりにする機会がさらに増えるのは学校を終えてからで、学校では学べなかった仕立ての技術を仕事の現場で学ぶことができたと思います。

いよいよイタリアで就職

そうしてやっているうちに、やればやるだけいいんだと気付いてとにかくやり始めたら、卒業展に出してもらうことができ、”Best of the Year” 賞ももらい、『VOGUE』 の小物制作にも参加させてもらうことができました。嬉しいことに、成績がとても良かったので、学校推薦の優秀学生として就職先に送られるリストの中の1人に入ってました。自分が探し始める前から、面接の誘いがどんどん来ていたんです。

でも、今では言うのがちょっと恥ずかしいんですが、最初に就職の面接を受けたエリート・モデル・ファッションに就職しました。フランスの本社からエリートモデルズファッションというラインとともにナオミキャンベルジーンズもミラノにデザイン事務所を移動してきていました。ジーンズ・ファッションがイタリアで盛り上がっていたんですが、私が入社した時はそこにいた優れたデザイナーさんたちが先行きを見越して別の企業に散らばるころ。でも、それを知らずに、最初の面接で就職してしまいました。それから約3ヵ月後になって「会社が引き上げるから」と言われたんです。

小さなデザイン事務所でありとあらゆることを学ぶ

でもそこにいたデザイナーたちが、1ヵ月後に小さいデザイン事務所 Studio SF を開けるから来ないかと誘ってくれたんです。既にお話しましたが、成功とか、絶対にこうしなくちゃとか、就職熱とかもなく、ただ好きなことがやりたいという私は、イタリアに残ってずっとやっていこうなんてことまで考えていませんでした。そこでとても低い時給でしたがその事務所で仕事を始めてみたら、今度はフェラガモかやミウミウから面接の誘いが来たんです。それをその事務所の人たちに話したら、昇給してくれることになり、結局、1999年1月から正式にやることになり、有名ブランドはすべて逃しました(笑)。

でも、小さいところでしたから、ロゴから何から何まで作り、それが大切な経験になったと思います。私の担当はミラノのライン、カンヌのプレタポルテのセカンド・ライン。生地はミラノの展示会で端から端までブースを覗いては面白いもののサンプルを注文したり、エージェントに足を運んでもらい、生地や付属のサンプルを注文し、生地を選びこみ、テーマを決めていきます。ボタンなどの付属品も、見ているだけで楽しい作業でした。デザイン画を起こし、平面画を描き、仕様書を作り上げ、パターナーの工場に持っていき、サンプルを作ってもらい、全てのコレクションを作り上げるというのがデザイナーの大まかな仕事です。

でも、寂しい時もありましたよ。同級生はプラダとか、大きなブランドに就職したりしていましたから。大企業だからいろいろやらせてもらえなくても、「ファッション業界で大成したい」と考えるなら、大きなブランドに行った方がよかったかもしれない。私はそんなことに興味がないとは言いながら、いつも自信がなく、こんなことをしていていいんだろうかと考えるときもありました。でも、今から考えると、この事務所での経験がなければ、その後の自分はなかったと思います。私が働いていたような小さい会社でも、D&Gやアルマーニなどが使う生地会社や縫製会社との取引を日常とするのがミラノ。生地、皮、染めなどその他のいろいろな素材が国内で生産されているイタリアでは、生産者との関係が近いのです。そういう生産と密接した形は、アメリカでは不可能ですよね。アメリカではアメリカでデザインしても、生産は海外にまかせていますから。

物作りの国とは

現在イタリアの高級ブランドといわれるところの多くは、家族経営の職人仕事に始まり、その手仕事の素晴らしさと素材の良さ、完成度の高さが世界的に評価されているのです。

ノードストロムでも販売されている、『Santoni』 という靴の会社の創業者は、今でも白衣を着て、工場の工員さんとともに仕事をしていますよ。また、ハリウッド女優がアカデミーショーなどで持つパーティーバックで知られる 『RODO』 というブランドは、創業者の息子でクリエイティブ・ディレクターのマウリツィオ・ドーリさんは物作りに関してとても熱心。「日本にもっと売れる、いや売れない」でもめていた間も、彼はどっしりと構え、編んだ籠バックを家内工業で作りはじめた当初のこと、日本で売り始めた時のこと、記念にジュエリーや羽アート職人に頼んで鳩の形のアートなパーティ・バッグを1つだけ作った時のこと、ボッテガベネタがそのあと同じような手法で売り始めたことなど熱っぽく語る様子に、「これが、皆が惹かれる物づくりの熱意だ」と感動しました。マウリツィオ・ドーリさんの息子でビジネス・ディレクターのジャンニ・ドーリさんは、「設立当初から、ロドはフィレンツェの職人とデザインのスペシャリストによって成り立ってきました。その貴重な財産と最新の生産技術の融合をはかりながら、情熱を持って美しいバッグを作り続けているのです」と語ってくれました。

出資して儲けるためにデザインしてきたんではなくて、各地に伝わる伝統技術を使い、情熱を傾けたハイスタンダードへのこだわりが今でも残っているのがイタリア。フェラガモだって、そもそもの始まりはそうでした。そんなこんなで、とてもいいイタリア人と知り合うことができたと思います。

日本に一時帰国し、再びイタリアへ

3年少しぐらいしてから、日本に3ヶ月ほど戻り、2000年に再びイタリアへ。当時交際していた今の夫と結婚を約束し、結婚の準備へ。その一年後に挙式しました。

仕事の面では、今度はいろいろな話が出てきました。以前から付き合いのあったデザイナーの勧めで、カシミヤのブランド 『フェデリコ・カシミヤ』 からお誘いが来ました。これはカシミヤの原毛を中国・モンゴルから輸入してイタリア大手紡績会社に卸している社長さんが自分のブランドを始めたもの。デザイン・オフィスはエルメスのすぐそば、サンプル生産はバレンチノなどもクライアントに持つ工場というこだわりようでした。

同時に、服・ジュエリー・バッグ作家の友人たちとのコラボレーションで展示販売をしたことがきっかけとなり、自分の小さなコレクションのデザイン制作をするようになりました。私はデザインのみならず制作まで、どうも自分で全部をやってみたいタイプなのです。

だんだん自分の方のことで忙しくなった私は、フェデリコカシミヤのデザインはフリーランスにしてもらい、グラフィックデザイナー2人と帽子職人の友達と4人で事務所をシェアし、自分の仕事場を持つようになりました。自分で最初から作った服はミラノのお店をメインに売ってもらいはじめました。このお店は小さいのですが、他では見つからないものがある、知る人ぞ知るお店です。イタリア国内やパリ、そしてミラノの地元デザイナーの洋服や小物を揃えていて、顧客も多くてね。そうしてこの数年に展示の場を何回か設けました。

展示の場は人に見ていただき、フィードバックがもらえる大事な機会です。発表するごとに洋服のみならず、アートや建築といった広い輪が広がり、後に洋服作りに留まらない企画の仕事をいただいてきました。また、来て最初の3年はイタリアに来たからにはイタリアの会社の中で経験することに重きをおいていましたが、日本に一時帰国した3年を区切りに、百貨店、輸入商社、リサーチなど、イタリア製品を扱う日本の会社や地方団体のお仕事もさせていただくことで、特に素晴らしいイタリアの生産や人と触れることができ、イタリアの良さをさらに実感するに至ったのです。

シアトルへ引越し

2004年3月に、夫の仕事の都合でシアトルへ。イタリアでの仕事はとても軌道に乗っていたのですが、迷わず夫婦一緒に生活する方を選びました。キャリアに対する欲が欠けているのかもしれません。

アメリカに来て、洋服や生地の質にはガッカリしましたが、私がミラノでやってきたことを、同じ方法でここでできるか、意義があるのか考えました。お付き合いをしてきた生地や付属メーカー、小さな部分にお願いしていたプリーツメーカーやタグ工場、取引先など、考えれば私はミラノで一人でやってきたと思われることが、一連の流れでいろいろな人に支えられて時間とともに育まれてきたのだと再認識しました。また、洋服を少量で手作りすることや生地を輸入することで価格が高くなる上に、アメリカの大量生産で作られた服と同じ土俵に立ってやっていかなければいけません。お客様となるシアトルの方々のことは、まったく知りませんでしたし。

ミラノで生地メーカーやショップからお客様まで、お互いに顔をあわせ現場を見て付き合うという小さなコミュニケーションを深めることによって仕事を進めてきた地元密着型の私にとって、その地域が違うということに大きな障害を感じました。また、今まではデザイン、リサーチレポートの執筆、イタリア生産に関わる仕事などを同時にいくつもしてきたことも収入源でしたが、そういった収入源が何一つなく、ここでの物づくりにある程度の投資ができるかも課題でした。

それならここでしかできないことをやろうと考えたときに、このシアトルの美しい自然に興味が湧いたのです。そして、ワシントン大学で自然を描くサイエンティフィック・イラストレーションのコースを受講したら、これに今度ははまってしまいました。何時間でも描いています。あるがままのものを観察すること、そしてそれを描いてみることは、物を深く理解するということだとわかりました。本当の意味で「知っている」のと、「知っていると自分で信じていること」の違いが絵を描きながら感じられるのです。我が家にも、花や野菜、海洋生物などの絵を描いて飾っています。自然の作った形って、どうしてこんなにきれいなんでしょう。サンゴでもアーティチョークでも、自然が作る機能性を備えた美というものは、斬新なデザインといわれるプロダクトの何よりも斬新で機能的。本当に美しいですね。

『地球の糸』 との出会い

ミラノに10年くらい滞在していた友達が岐阜県にオーダーメイドのお店を開き、岐阜県の仕事や岐阜県内のアパレルや生地屋さんなどと関係して仕事をするようになったのがきっかけで、『地球の糸』 に出会いました。

ミラノにいた時から私の憧れの職人でありデザイナーであり、コミュニティーを大切に、資源を大切にする意思を貫く人だった、岐阜県出身の友人の紹介です。実は私がまだミラノに滞在していた2003年に、岐阜の生地を使ってミラノで活動するデザイナーさんに洋服をデザイン製作してもらうという県の企画をお手伝いしたことがあり、岐阜県とは縁があったのです。

『地球の糸』は、岐阜のアパレル企業3社が、世界中のオーガニックファームからの選りすぐれた素材を元にできた生地を使って、地球に優しく肌に優しい、オリジナルブランドを作ろうということで生まれたもの。岐阜の友達がその創立メンバーの一人で、私も初回コレクションから携わらせていただくことになりました。シアトルに来てから、洋服については少し離れ、自然や環境について、そして何よりも自分の生活に重きを置いた日々を送っていたことが、逆に 『地球の糸』 のコンセプトにあっていると思っていただけたのです。

『地球の糸』 の制作メンバーは私を入れて7人。まだ一つの会社として独り立ちできていないので、それぞれが自分のアパレル企業の経営や大学教授の仕事をしながら、この企画に取り組んでいます。私は遠隔地にいるのでデザインの提案のみの担当で、制作は日本で行われています。

デザイン自体は、自然や環境に興味を持つ人が着る気取らない快適服ですが、今年販売したものは初めての製品ということで、最終的な製品に至るまで80程度のデザインを起こし、50程度のサンプルを作る仕様書を提出しました。でも、サンプルを仕上げるのはさらに大仕事で、実際に生産した型はさらにその半分にも至りませんでした。染めもバジリコやブドウ、ログウッド(マメ科の常緑低木で、心材にヘマトキシリンというものを含んでいて、黒っぽい色が出ます)と全て天然染料ですが、天然染料だけだと色落ちが激しいので、化学媒染を使うことによって色落ちを防ぎ、発色を良くしました。

まだまだデザインもパターンも、生産方法や展示場、営業先など全てにおいて勉強するところばかりですが、小ロットで特徴のある作りを入れた洋服を作ることを可能にする努力をしています。これからの秋冬コレクションには、外モンゴル、ウランバートル近郊の自然の中で育てられたカシミアヤギから採れるカシミヤ素材を使い、その自然の色を生かした洋服ができあがってきています。何をするにもコミュニケーションがとても大切。毎日のように小さなことでもメンバーとメールで話すことが日課となっています。

環境を考えた洋服作り

『地球の糸』で使っているオーガニックコットンは、最低3年間農薬を使用しない健全な大地で有機肥料・無農薬で育てられています。また、地球に優しいというだけでなく、農薬を使ってない綿花は繊維が長く健康な素材でもあるのです。そのため、何度の洗濯にも耐えうる丈夫で長持ちしたもの、そして使えば使うほど柔らかくなるのが特徴です。

地球の糸でお仕事させてもらってから初めて知ったことも多く、またどれくらい丈夫で洗濯するほど快適になるのかも試してみたいので、春夏物のテキサス産のダブルガーゼオーガニック・コットンのトップス、ジャケット、パンツも毎日のように繰り返し着ています。ダブルガーゼオーガニック・コットンは、軽くてふわふわしていて肌に触れる感じが優しく、まるで日に干したてのふかふかの布団に軽く肌が触れているような感じです。

また、オーガニックコットンとして認証許可がおりた物は、いつどこで収穫されたかが分かるトレーサビリティーを重視しています。私達の洋服は普段、どこから素材が来て、どこで作られて、どういった経緯で自分の手元に届いたかというのがほとんどわかりません。テレビで大手アメリカアパレル会社の海外における低賃金でアンフェアな労働の工場現場を見た時や、こちらに来て驚くほど安い値段で叩き売られている洋服や靴を初めて見たときは、自分が作る立場なので非常に悲しくなりました。

ファームから紡績、アパレルメーカー、私達の手元に届くまでが皆が同じ立場で良い物づくりができることはとても大切。イタリアでは百貨店の高島屋さんが注文したイタリア製品のクオリティチェックに、各シーズン20ヵ所くらいイタリア全土の縫製工場を訪ねました。きれいに陳列された服の並ぶ展示会では見られない裏方を見ましたが、最終的に言えることは、きちんとした製品はきちんとした工場から生まれていてるということ。それが製品自体に現れているのです。悪行を犯している人の人相が悪くなって、顔に表れてくるのと同じです。

地球の糸は値段の面でもサイズの面でもアメリカの大手アパレルのサービスにはとてもかなわないのですが、それでもできた服には喜びも誇りもあり、ずっと手にしたいと思える物になると信じています。昔から自然素材が大好きだったことのほかに、日本の着物、フランスのレース、イタリアのプリントなど、伝統というものが好きで、着物生地をセカンドハンドで買って洋服やバックにリメイクしたり、バッグメーカーの余ったレザーのスクラップをいただいてアクセサリーを作ったりしていました。ただ、好き、使わなければもったいないという気持ちなのですが、よく考えたら環境に優しいリサイクルと言えますね。でもシアトルは素晴らしい自然を楽しむアウトドアが多いので、機能性を考えたゴアテックスやフリースなどの良さも、感じています。やはり洋服は人の外側を覆うもの。環境や用途、気候などによって異なりますね。

これまでは洋服のデザインにしても、文学部卒の私は物を哲学的に考えるのが好きで、コンセプトに非常にだわるところがあります。そしてそれを洋服で表現したいという、エゴでやっている部分がありました。例えばいままで使ったコンセプトとして、「細胞分裂のイメージ」の服とか、「静寂」を洋服で表現したい!とか(笑)。

でも、シアトルに来てからは特に、もっと肩の力を抜いて、あるがままのものをそのまま見たり、感じ取ったりするようになりました。ここ10年間ダイヴィングをしていますが、人間が生活できない世界、海の中は驚くほどたくさんの種類の生物たちが自分の棲み分けを知りバランスを保って共存しているのを見るにつけ、人間がもっと謙虚になること、そして私にできることは小さくてもやっていきたいということを考えようになりました。それはものすごい主義ではなく、自分が自然と望むことなんです。

私は五感と第六感を大切にしています。例えばアレルギーがいっぱいある私は、生地でもさわり心地が良い、着心地が良いのはやっぱり自然の物で、食べ物でも、「オーガニックがいいんだよ」という理由でオーガニックなのではなく、食べて実際においしいからオーガニックなんですよね。心地いいから木を使う、心地いいから綿を使うということ、それが自分の健康を助け、地球の健康を助ける第一歩ではと思います。自然を搾取するのではなく自然と共存することによってそのありがたみが分かり無駄な資源を使わなくなるからです。代替エネルギーなどの開発のような目覚しいことは決してできなくても、自分にできる小さなことでも意識を持つことから始めています。

デザインも無理に曲げたものじゃなく、自然の形を利用しながら、でも着ることができる洋服をデザインしていきたいなと。秋冬で提案した、濡れた生地が水を自然と吸い上げるようなイメージを表した袖口や裾のふち染め、ジャーシーニットの切り口のまるまりをそのまま利用した服など。仕事をするからには人に満足してもらいたい。今後、この 『地球の糸』 を発展させていきたいという自分の中の希望が、自分のやる気にもつながると思います。

【関連サイト】
Instituto Marangoni
文化服装学院
非営利団体シーダー・リバー

佐藤 由美子(さとう ゆみこ)

イタリアはミラノにありフランコ・モスキーノ(Moschino)やドミニコ・ドルチェ(Dolce&Gabbana)など世界的デザイナーを輩出し、卒業生の多くが一流ブランドで働くデザイン学校マランゴーニを卒業。イタリア企業数社とのコラボレーションを経て独立、オリジナルのアパレル・ラインをヨーロッパ数カ国で発表。2004年にシアトルへ移住し、ワシントン大学でサイエンティフィック・イラストレーション課程を修了。

1994年 明治学院大学卒業
1996年 文化服装学院デザイン&パターン課程終了
1997年 イタリアへ
1998年 イタリア・ミラノのマランゴーニ・デザイン学校修了、”Best of the Year” 賞受賞
2000年~2003年 イタリア・スイスで展示販売
2004年 渡米
2006年 ワシントン大学サイエンティフィック・イラストレーション課程修了

【公式サイト】 www.yumikosato.com

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