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「日本とアメリカの掛け橋になるような仕事をしたい」ランドスケープ・アーキテクト 小林 竑一さん

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1960年の完成以来、『Japanese Garden Journal』 誌で、日本国外にある300の日本庭園の中でも10位内に入ると評されるシアトルの日本庭園。今月はその修復を手がけられた小林竑一さんにお話を伺いました。
※この記事は2002年7月に掲載されたものです。

小林 竑一 (こばやし・こういち)

大阪生まれ

1968年 京都大学農学部林学科造園学講座 卒業

1969年 技術移民でカナダへ

1972年 カリフォルニア大学バークレー校 卒業 (Master of Landscape Architecture)

1976年 シアトルへ

1981年 独立し、現在に至る

日本から技術移民としてカナダへ

造園をキャリアにされたきっかけはなんだったのでしょうか。

庭が好きで、環境が好きで、自然が好きで、そうなりました。今から約30年前のことですが、京都大学に農学部林学科造園学講座というものがありました。今では地球環境デザイン研究室という名前になっていますが、そこで造園を学びました。卒業から1年間は大学の助手として働きましたが、その翌年には当時修士号取得者や特殊な技術を持っている職人の移民を受け入れていたカナダへ移住。最初はバンクーバーで、そしてその後トロントへ行き、設計事務所で1年間働きました。

カルチャーショックや英語の問題は経験されましたか。

カルチャーショックはありませんでした。しかし、やはり最初は英語が十分ではなかったですね。でも、仕方がありません。英語を早く上達させたければ、日本人のガールフレンドを作らないこと、日本人のいないこと、日本人の奥さんを作らないこと、これを全部努力したらいいかもしれません。僕はそうしませんでしたが・・・(笑)。

カナダからアメリカへ

その後、カナダからアメリカに移られたのはどういうきっかけがあったのですか。

カナダが大変な不景気に陥り、失職しそうになったため、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に入ったのです。専攻は “Master of Landscape Architecture” (造園学修士)。卒業後、またカナダへ戻りたかったのですが、不景気が続いていて仕事が見つからず、結局オハイオ州立大学で造園学を教えることになりました。造園学には日本人学生はおらず、ほとんどがオハイオ出身者。しかし、教授陣は世界中から集まってきていたので、大学社会と言えども、閉ざされた世界ということはありませんでした。

その後、西海岸へ来られたのですね。

オハイオは4年で十分と感じ、西海岸へ戻ろうと思いました。当初はシアトル・ポートランド・サンフランシスコ・バンクーバーBC・サンディエゴの5つを選びましたが、ワシントン大学に造園学の教授のポストがあったシアトルを選ぶことになりました。1976年のことです。教鞭をとりながら、半分は民間の建築設計事務所で働いていました。その後、ベルビューの市役所での都市計画局勤務を経て、1981年に自分の事務所を開きました。

独立・シアトルの日本庭園修復・阪神大震災

独立しようと思われたきっかけは。

独立しようと思ったのは、もういろいろなことをしたので、そろそろ、という感じでした。開業してからはありとあらゆる予想外のことが起こりましたね。自分の会社ですから、仕事を取ってこないといけません。仕事をいただく前のプレゼンテーションでは自分の実績を見せ、相手にアピールします。プロジェクトによってどこに重点を置くかは異なります。また、相手の言うことをよく聞くこと。しかし、複数の人から聞くべきか、1人から聞くべきかきちんと決めておかないと、聞けば聞くほどわからなくなってしまいます(笑)。コミュニケーション技術や、人との対応の技術が重要ですね。

シアトルの日本庭園も手がけられていますが、このプロジェクトについて教えてください。

シアトルの日本庭園は1960年に完成したもので、今回私が手がけたのはその修復工事でした。向こうから連絡をしてこられたのですが、他にやる人がいないということで、私は何が何でもやろうと思いました。シアトルの日本庭園を見たのは約30年前のことですが、当時は手入れがそれほど行き届いておらず、大変な状態でしたが、今回の修復で少し改善されたと思います。最も気をつけたところはと言われると困りますが、造園は全体のバランスが大事。また、このプロジェクトは歴史的庭園の修復ですから、造園を担当している私らしさを出すものではなく、もともとの意図に沿ったものにしないといけません。そこで、「こういう庭にしたい」という内容を明記した意図書や図面を参照し、もともとの設計者2人が私を通じてこのプロジェクトに参加され、今回の修復が完了しました。しかし、この庭は原計画から見ると未完の状態。いつか完成したいと思っていますが、そのためには約500万ドルの寄付金が必要となります。現在その募金計画を作成中ですが、地元のみなさんにもぜひ応援をお願いしたいと思っています。

シアトルの日本庭園は街中にありますが、意外に静かで、別世界ですね。

昔はもっとそうでしたよ。今は車の通りが激しい Lake Washington Boulevard(レイク・ワシントン・ブルバード)からの騒音が大きな問題となっています。

小林さんのウェブサイトに “What Can Seattle Learn From Kobe” というタイトルで、1996年に発生した阪神大震災からシアトルが学べることというレポートが掲載されていますが、なぜこれを書かれたのか教えてください。

地震が発生した日の前日、シアトルから関西国際空港へ飛び、そこから九州へ行ったのですが、そのすぐ後で地震が起きました。九州で時差ぼけのままテレビを見ていると、「彦根で地震がありました」「京都で地震がありました」「大阪で地震がありました」と、地震の報道がどんどん入ってきたのです。しかし、最も大きな被害を受けた神戸からは発信がすぐに出なかったため、震源地がどこなのか、なかなかわかりませんでした。私は兵庫県ともさまざまな仕事をしていますし、両親や弟が神戸の西にある西ノ宮にいますから、非常に心配でしたが、ようやく大阪へ帰ったのはその1週間後でした。私は大阪で生まれ育ちましたが、医師だった父親が神戸で働いていたこともあり、神戸にはものすごく親近感があります。そのため、神戸に行かなければと思いましたが、大阪と神戸を結ぶ公共交通機関は麻痺していましたので、西ノ宮へまで行って弟の自転車を借り、神戸へ向かいました。自転車でもかなりの距離でしたが、神戸に入って、その様子に愕然としました。そして、「何かしなくては」と。兵庫県と姉妹都市関係にあるワシントン州と一緒に、「被災者のために住宅を2千戸ぐらい建てたい」と援助の提案をしましたが、兵庫県側は、それに充てる土地がないと解答してきました。ワシントン州側は木材を使って一戸建ての住宅を建てるのが得意ですが、高層ビルを建てるのが得意な日本とは、かみ合いませんでした。また、当時は何万という被災者のための住宅が必要でしたから、シアトルにいてできることはないかと調べまして、あのレポートを書きました。

日本で「神戸で起こったことは、ある意味で幸いだった」と言われているのは、神戸は住民の組織が非常に強いためです。神戸を見ながら私が感じたのは、隣近所の人と仲良くするのが大切ということ。自分の住んでいるところの周り10軒ぐらいと知りあいになっておくといいでしょう。お互いが助け合う、それしかありません。ここシアトルも住民の組織が強いところですから、震災でもある程度機能できるのではないかと思いますが、大きな地震が起きたら、クィーン・アンも、マグノリアも、キャピトルヒルも、陸の孤島になります。あのレポートでは、そういったことを踏まえ、シアトルももっと準備をしておかないといけませんよ、と言いたかったのです。とは言え、私を含め、非常食などの準備もしていない人はたくさんいるでしょうね。

日本人として日本庭園を手がけていく

今後のプロジェクトについて教えてください。

現在もシアトルや金沢、兵庫での住宅地開発に関わり、サウンド・トランジットのプロジェクトでも街路樹の配置を手がけています。しかし、私は日本人です。今後はそういった仕事はアメリカ人にまかせ、私しかできない、日本庭園関連の仕事をしていかなければと思っています。日本とアメリカの掛け橋になるような仕事をしたいのです。

その活動の1つとして、今年の9月に京都で開催される日本庭園国際シンポジウムで講演をすることになっていますが、その主催者の提案で、2004年にはシアトルでこのシンポジウムを開くことになりました。先月14日にはその運営組織の名称が “Puget Sound Japanese Garden Society” (ピュージェット・サウンド・ジャパニーズ・ガーデン・ソサエティ)に決定し、会長は私、副会長は “Seattle Japanese Garden Society”(シアトル・ジャパニーズ・ガーデン・ソサエティ)の元会長、そしてワシントン大学の Center for Urban Horticulture のディレクターや民間企業の方の人が参加しています。今はシアトルの公園管理局にも参加を求めたり、いろいろな企業団体にスポンサーの依頼をしたりしています。

また、後進の育成も大切に思っています。私も留学生だったことがありますから、留学生のために何かできないかと考えています。例えばワシントン大学には造園学に日本人が4人在籍しており、来年また2人の学生が入ってきます。1人はアーバン・デザイン、1人はランドスケープ・アーキテクトです。そういった学生も、試験などで忙しい中、時々ここへ来て話をしていきます。つまりここは寺子屋の小林塾ですね。さらに、兵庫県の貝原元知事が淡路島に建設した淡路景観園芸学校の方向性が、私が特別教授を務めているワシントン大学の Center for Urban Horticulture と関係することから、この2つを結び付け、教授の交換制度を作りました。第1号はたまたま私に決まり、先月は淡路島に滞在し、講演などを行いました。

とても活発にされていますね!

今は仕事の方が休眠状態ですよ(笑)。でも、こういった活動は今やっておかないと。

小林さんのような仕事をしたいと思う人にアドバイスをお願いします。

「いい人間になってください」
アドバイスはこの一言だけです。つまり、できるだけ敵は作らず、味方を作るよう、一生懸命に自分を磨くこと。人間、嫌われたら終わりです。私もうまいとは言えませんが(笑)。今感じていることを独立開業した時に感じていたら、人生はもっと変わっていたかもしれません。しかし、やりたいことを仕事にできて、とてもラッキーだと言われます。私自身もそう思っています。

【関連サイト】
Kobayashi and Associates, Inc.

The Japanese Garden of Seattle
University of Washington: Center for Urban Horticulture
淡路景観園芸学校

掲載:2002年7月

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