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佐川 明美さん (Open Interface North America CEO)

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ラップトップや携帯電話などのモバイル機器を結ぶ低コストなワイヤレス通信技術の世界標準規格 『Bluetooth (ブルートゥース)』。今月は、その技術をアメリカ、そして世界へ広めるオープン・インターフェース・ノース・アメリカの CEO、佐川明美さんにお話を伺いました。
※この記事は2002年3月に掲載されたものです。

佐川 明美(さがわ・あけみ)

1978年~1979年 アメリカのペンシルバニアにある公立高校へ留学

1981年~1985年 京都大学法学部

1985年~1991年3月 大和證券

1988年6月~1990年6月 スタンフォード大学MBA

1991年4月  マイクロソフト ジャパン

1991年12月 Windows Version 1.2をラウンチ

1994年8月 マイクロソフト本社へ

1997年6月 PSP社へ

1998年6月 再びマイクロソフトへ

2000年8月 マイクロソフトを退社・コンサルティング会社設立

2001年1月 オープン・インターフェース社のアメリカ支社設立
現在に至る

初めての渡米

アメリカに来られるきっかけとなったことを教えてください。

高校時代にアメリカのペンシルバニア州に1年留学をし、自分にとてもあっていると感じたことがきっかけです。人口8千人の片田舎で、もちろん日本人はゼロという環境でしたが、私は「いずれはアメリカに戻ってくる」と感じたのです。

初めてのアメリカ生活はいかがでしたか。

アメリカの生活に大きな衝撃を受けました。蛇口をひねるとお湯が出るし、セントラル・ヒーティングだし、台所にもたくさん食料がある。でも、その頃の日本人にとってアメリカは最も行きたい国だったにも関わらず、そこの人たちにとっての日本は遠い国。学校の先生にも「日本ってどこにあるんだっけ?」と言われ、とてもショックでした。

勉強の面で何か違ったことはありましたか。

ある日、ホストマザーが「自分の子供は頭がいいのに、数学ができない」と言ったことで、「そうか、アメリカには賢さにもいろいろな尺度があるのだな」と感心しました。当時の日本では「頭がいい」ということには「成績がいい」という1つの尺度しかなく、頭がいいのに数学ができないという考えは成り立ちませんでしたから。その他の面では、服のサイズがたくさんあることに感動しました。さまざまなサイズを選べるのがいいですよね(笑)。

その後、日本へ戻られたわけですが・・・

私が参加した留学プログラムでは、アメリカで学んだことを母国の発展に貢献するという規則があったことなどから、日本で大学に進学することにしました。文系で法学部に入るという私に、周りの人たちは「どうして女子大に行かないの?就職も結婚できなくなるよ」と言いましたが、この選択が後の就職活動にあれほど響くとは思わず、そのまま受験して入学しました。就職活動の時には、「最初から現実を教えておいてくれたらよかったのに!」と何度も悔やみましたよ。

女性の就職が大変だった時期ですね。

私が就職活動を始めたのは1984年。日本が女子差別撤廃条約を批准し、同時に男女雇用均等法を制定した年の前年に当たります。つまり、男性はどんな大学生活を送っていても一流銀行などにらくらくと就職できましたが、女性は事務職と決まっていました。男性と同じラインからスタートしたいと思っていた私は、女性を一般職に採用してくれるところを探しましたが、「女性でコネ無し、アパート住まい」という、その頃のいわゆる “女子学生の三重苦” を背負っていたので、就職の壁は厚かった。小さな問屋まで周りましたが、「なんでうちに」と言われたり、「京都大学の法学部?」と、門前払いを食らったりしたこともあります。そのうえ、私は高校時代の留学のために留年したことがネックになり、更に厳しい状況に置かれました。それでも、6週間かけて40社以上を周った結果、20社で面接を受け、4社に内定をもらいました。その中から選んだのは、男性と同じスタートを約束してくれた大和證券。大和證券は、翌年に制定されるであろう男女雇用均等法を見据え、試験的に女性2人の採用を検討していたのです。今ではこんなことは笑い話ですよね? ということは、日本も進歩しているということでしょう(笑)。

大和證券時代

実際に入社されて、いかがでしたか。

男性の新入社員200人に対し、女性社員2人でしたから、今から考えるととにかくつっぱっていたと思います。外回りでは「誰よりもたくさん名刺をもらうぞ」と気負い、模擬試験の点数も女性2人でトップを争っていました(笑)。 男性からすると、「どうしてそんなにがんばるの」という面もあったと思いますが、「女性は人の10倍やって、やっと男性と同じに見られる」という状況では、そうするしかなかったのです。でも、がんばっていることは認めてもらえても、女性が同期の男性と同じように出世できたかどうかは神のみぞ知る、でしょうね。

そこで、再び渡米するチャンスができたわけですね。

その後、大和證券経済研究所に配属され、会社分析や調査の仕事を担当するようになりましたが、入社後3年目に与えられる留学制度を利用してカリフォルニアのスタンフォード大学MBAコースへ入学。しかし、カリフォルニアに着いた時は、高校時代に留学したペンシルバニアとの違いに驚きましたよ。「こんなアメリカもあるのか」と。ペンシルバニアの町は住民の75%が教会へ通い、初対面同士の挨拶の次は「どちらの教会へ?」というほどコンサバなところなのに、カリフォルニアはたくさんの人種と文化があって、「これこそ私が住みたい場所だ」と思いました。あの青い空が懐かしい・・・と言いながら、今はこのグレーなシアトルにいるのですが(笑)。

ビジネス・スクールでのことを教えてください。

いろいろなクラスを履修しましたが、中でも印象に残っているのが “View From the Top” というクラスです。ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズなど、普通なら簡単に会えないような人たちが、普通の言葉で、自分たちのビジョンを語るのです。ビル・ゲイツはその頃は30代でしたね。ボサボサの頭でやって来ましたよ。スティーブ・ジョブズは黒いジーパン。こんな若い人がやっているのか、と感銘を受けました。そして、「そういうふうに働くのもおもしろいかも。もしかしたら私にもできるかも」と思ってしまうわけです。スタンフォードが与えるイリュージョンと言いますか・・・(笑)。 そして2年後 にMBAを取得し、カリフォルニアの青い空に「5年後にはここに戻ってくるぞ!」と誓い、帰国しました。

帰国後はどのような仕事をされたのですか?

帰国後、留学で学んだことを役立たせるなら、これまでと同じ分析の仕事ではなく、会社合併や事業提携などをやらせてほしいと会社に頼んでみました。しかし、日本の会社では、人事はそれでは動かない。結局、前と同じ仕事に戻ることになり、唯一変わったのは専門業界が電機から自動車になったことぐらいでした。その上、会社にとって、留学とは学ぶというよりも遊ぶというイメージが強かったのか、「2年間遊ばせてやったんだから、働いて返せ」という雰囲気に納得できず、やはり自分のキャリアを積み始めたほうがいいのではと悩みはじめました。

その頃の会社のシステムでは留学後5年間勤務しないと留学費用を返済することになっていました。しかし、5年も待っていたら、自分は年を取ってしまう。どうせ後で辞める決心をして返済することになるのなら、早いほうがいい。そう思い、会社には温泉旅行と偽って、東京で12日間の就職活動をしました。ゲイツやジョブズの話を聞き、電機のアナリストもしたことから、コンピュータ関連会社の日本法人に勤め、次のゴールである西海岸のカリフォルニアを目指そうと考えたのです。そして、マイクロソフト・アップル・タンデムの3社からオファーをもらい、その中からワードというソフトウェアのプロダクト・マネジャーを探しているというマイクロソフト社を選択しました。帰国してから9ヶ月目のことです。

周りからの反応はどうでしたか?

その頃マイクロソフト社はほとんど知られておらず、東京支社の社員数もまだ200人ぐらいでした。私自身は、本社があるというシアトルがいったいどこにあるのかわかっていませんでした(笑)。 母親には「一部上場企業から、なぜそんな誰も知らないような会社に?」と言われました。大和證券にも、「他の証券会社に行くなら引き止めようもあるけれど、聞いたこともない会社ではどうしたらいいのか」と言われましたね。しかし、今から考えると私のあの時の選択は大当たりでしたよ(笑)!

マイクロソフトへ

ワードのプロダクト・マネジャーとは、どのような仕事ですか?

最初に担当したのは、ワード(Word)のラウンチ。本来なら9月を予定していたのに、遅れに遅れて1991年12月に入ってやっとバージョン1.2を売り出しました。でも、人が並んで買っているのを見たときはとても嬉しかったです。とは言え、まだまだDOSが主流でしたから、最初は売れず、ああでもない、こうでもない、と試行錯誤しました。翌年、ワードとエクセルのセットを 『オフィス』 として発売。とにかく、どうやって認知させるかが最も難しかったですね。例えば、『一太郎』 との比較広告も考えましたが、日本ではアメリカのようなあからさまな比較広告はご法度ということで、実現しませんでした。

そのマイクロソフトも、今では知らない人はいないほどに成長しましたが、その渦中におられた佐川さんはどのような感じでそれを見ておられましたか。

ワードをローンチしたとき、成毛(なるけ)社長(当時)が、「3年後にはマイクロソフトを業界1位にする、ソフトウェア販売もアメリカに次ぐ2位になる」と宣言したのです。そして、そのためには使えるものは何でも使え、全部使え、と。社員が一丸となった時に出るエネルギーとはすごいものです。

再びアメリカへ

日本からアメリカのマイクロソフトへ異動した経緯を教えてください。

Windows 95は英語版の発売から3ヶ月後に日本語版を発売するというプランが持ち上がりました。通常なら英語版の発売から1年以上経って日本語版が出るのが流れなので、これは大変なことです。マーケティングがしっかりしている必要があると考えた私は「やらせてください」と、立候補しました。そうすると、成毛社長は、「じゃあ今からアメリカの Windows 95 のラウンチを学んで来い」と、2年間のアサイメントでシアトルに私を送り込んでくれました。今から考えると、あの頃が私のマイクロソフトでのゴールデン・デイズでしたね。そして、アメリカで学べるものはすべて学び、日本で6週間かけて Windows 95 をラウンチ。それが終わると、マイクロソフト本社の Windows チームに入りました。日本支社からアメリカ本社への異動は、開発以外では私が初めてだったそうです。

アメリカと日本での違いは感じましたか?

さまざまな面で大小の違いはありましたが、特にコミュニケーションの方法に大きな違いを感じました。例えば日本の場合、違う部署にいる者同士が一緒に仕事をする場合、相手の上司にも連絡をしておくのが常でしたから、相手の上司にもメールを CC します。しかし、本社ではそのようなことはせず、担当者が責任を持って仕事をし、何らかの問題が生じた場合にのみ上司に連絡をするのです。また、マイクロソフトでは半年に1度パフォーマンス・レビューをし、自分のゴールを達成したか確認させ、次のゴールを設定し、自己PRをします。「私はこんなにすばらしいことをしました」と、相手を納得させなければならない。不言実行や沈黙は金なり、が認められないのです。これは私にとってはかなり厳しいものになりました。そして、ふと「自分のやりたいことは何か?」と考え始めました。「マイクロソフト社で偉くなること?」「でもそれならこうやって自己顕示をずっとしていくの?」そして、昔に立ち戻ることを決めたのです。いずれ自分でオンライン・ショッピングの会社を興そうと。

そしてマイクロソフトを退社されたわけですね。

オンライン・ショッピングをするサイトのホスティング先を探していた時、ベルビューのパシフィック・ソフトウェア・パブリッシング社(以下、PSP)で仕事のオファーがあり、転職しました。しかし、その頃の私は自分で自分を狭めてしまい、あまりいろいろなことができていませんでした。そのうちにオンライン・ショッピングは自分のやりたいことではないということがわかり、1年後にマイクロソフト社に戻りました。

今度はどのようなポジションだったのですか?

アメリカ・日本・アジアについての知識を活かすというわけです。しかし、その頃マイクロソフトは既に巨大な会社に成長しており、私の仕事はさらに細分化され、自分の力をすべて発揮できる状態ではなくなっていました。そして、1年半後、やはりこれもやりたいことではないと判断し、退社しました。

オープン・インターフェース・ノース・アメリカ設立

オープン・インターフェース・ノース・アメリカの設立までのお話を教えて下さい。

マイクロソフト社を辞めてから、ビジネススクール時代の友人とコンサルティング会社を始めていましたが、クライアント探しで日本に帰った際、成毛社長にオープン・インターフェースの本社社長である純浦さんをご紹介いただきました。そこで、コンサルタントからフルタイムの社員としてアメリカ支社を設立することになり、私と日本支社取締役の三浦さんと尾中さんの3人でワシントン州に会社を登記しました。当時の私の役目はビジネス・プランを立てること、人を雇うこと、オフィス・スペースを見つけることなどでした。

会社を正式に設立されてからの流れを教えてください。

我社のテクノロジー、”Bluetooth” の著作権をアメリカ支社に移し、資金集めに走りました。まず企業弁護士にプレゼンテーションをし、紹介してもらったシアトルやシリコンバレーのベンチャー・キャピタリスト(以下、VC)を何社も周りました。

時期的にもとても大変だったのでは?

そうですね。当時は開発人員もおらず、アメリカの社員は私だけという状態でった上、日本では実績があってもアメリカではコネもない。また、”Bluetooth” は仕様が公開されているため、他社との差別化が難しいといった点もありました。プレゼンテーションの間中、VC は私の目をじっと見てプレッシャーを与え、私がどういう人間であるのか見ようとしていました。何もないところに投資するということは、つまりは人間に投資をするというわけですから、経験・コネ・可能性を見るのです。当の私は全身汗だく。「こんなに大変なことは2度とやりたくない」と思うほど、とても大変でした。しかし、時期も時期で、アメリカの経済状態も停滞しており、結局は日本のインターネット総合研究所とアイティーエックス株式会社他数社が資金を出してくれ、4月末には設立資金を得ることができました。

そこから本格的にアメリカ支社が始動したわけですね。

そうです。本格的に人を雇い始め、6月には広告をうち、7月下旬に会社サイトをラウンチしました。現在は社員12人で、うちエンジニアが6人、それ以外が私を入れて6人となっています。

辞職、そして起業

佐川さんの現在のお仕事は当初から多少の変化があったと思いますが・・・?

そうですね。私の場合、役職名のCEOは “Chief Executive Officer” ではなく、”Chief Entertainment Officer” だと思っています。お客様から株主様、そして社員まで、いろいろな方を幸せにするためにいろいろなことをする職業ですね(笑)。細かな業務では、テクノロジーについての知識を広め、そして財務報告・市場分析・事業提携・リサーチ・企画・プランニング・雇用・福利厚生などとなっています。


現在のお仕事でどのようなことに幸せを感じますか?

社員がこの会社に可能性を感じて集まってくれていることに、とても感謝しています。仕事面では顧客を開発し、何らかの発展につながると、やりがいを感じます。

とてもお忙しい毎日を過ごされていると思いますが、どのようにリラックスされていますか?

いつでも仕事のことを考えていますので、意識的にリラックスする必要があります。でも、昨晩もジムに行ってジャグジに入っていたのですが、やはり仕事のことを考えてしまいます(笑)。 「あんなことをしてみよう」「こんなこともできるな」という感じで。ですから、プライベートと仕事のバランスを考える必要がありますね。

これからの目標を教えてください。

目指すはIPO(新規店頭株式公開)!お金持ちになりたいというのもありますが(笑)、IPOは1つのマイルストーンです。親会社がIPOをした前後の影響力の違いを目の当たりにしたことが、自分もIPOをするぞという励みと、自分もIPOをしなければというプレッシャーの両方になっています。もちろん、上場すれば、株主が増え、責任も数倍になるでしょう。でも、入ってくる情報量も増え、会社がもっと大きくなれるチャンスもできます。でも、それよりもまず会社が潰れないように、うまく運営していくことが第1条件ですね。個人的には、早くリタイアし、イタリアに1年住んで・・・と、夢をふくらませています(笑)。

【関連サイト】

Open Interface North America

掲載:2002年3月

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