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浅原 由美さん (Global Search USA Sr.Consultant&Partner)

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ニューヨークのウォール街からノースウェストへ。第2の人生を切り開いている浅原さんにお話を伺いました。
※この記事は2001年8月に掲載されたものです。

浅原 由美 (あさはら・ゆみ)

大阪生まれ

1981年 帝塚山大学卒業 

1983年 タフツ大学フレッチャー法律外交大学院卒業

1983年-1986年 日興リサーチ・センター

1986年-1989年 日興證券インターナショナル

1989年-1993年 “Georgeson Shareholder Communications”

1993年-2000年 “Thomson Financial Carson”

2000年 Onvia.com

2001年 Global Search USAを設立。現在に至る。

国連を目指してアメリカの大学院へ

ノースウェストに来られてまだ日が浅いそうですね。

1981年にアメリカに来て、ボストンに2年間、そしてニューヨークに16年間住んでいました。こちらに来たのは1999年の1月末です。まずギグハーバーに1年ほど住み、その後、仕事の関係でシアトルの方に移ってきました。

どういうきっかけでアメリカに来られたのですか。

きっかけと言えばいろいろありますが、まずは大学受験に失敗したことでしょうか(笑)。門限は6時、映画も男女交際も禁止という家庭で育ち、毎年半数近くが京大、阪大、落ちこぼれ組でも関関同立に入学するという大阪の四条畷高校に通っていたため、勉強ばかりしていました。でも、心身疲労から自家中毒で嘔吐を繰り返すようになり、受験にすべて失敗してしまったのです。「女子大に行かせ、そのまま見合い結婚させる」と考えていた過保護な父は、私を帝塚山大学というお嬢さん学校にいれると宣言しました。担任の教師は「四条畷から帝塚山はとんでもない、進学率が下がり、学校のイメージが悪くなる。合格しないわけはないんだから、浪人して再受験しろ」と食い下がりましたが、私自身は「大学を卒業したらお嫁さんになって、子供3人のお母さんになるんだ」としか考えていなかったので、父の言うとおり帝塚山に入学。両親は心から喜んでくれて、盛大なお祝いパーティーをしてくれました。

しかし、大学2年生の夏のイギリスでのホームステイが、私を変えたのです。ヨーロッパの子達が医学や経済学などの専門をしっかりと持ちながら、「英語はただのコミュニケーション・ツールだから、できて当然」と考えていたことにカルチャー・ショックを受けました。それから日本に戻った私は早速専攻を英米語学学科から国際関係学科に変更しました。その後まもなくしてソビエト外交史や国連のことを学び、世界平和のために働きたいと決意し、国連での就職を目指すことになったのです。最低でも修士号を必要とする国連に入るには「アメリカの大学院に行くべき」という教授のアドバイスで、外交官養成学校として知られるタフツ大学のフレッチャー法律外交大学院やペンシルバニア大学大学院、ジョンズ・ホプキンズ大学大学院など、国際関係の名門と言われるところを受験。今度はすべて合格しました(笑)。そこで、受かると思っていなかった教授は「入っても出られないだろうから、1番簡単なところを選べ」と言いましたが、父が「どうせなら1番いいところに行けばいい」と言ってくれ、私はすんなりとタフツ大に決定。それが本格的にアメリカに来たきっかけです。

大学院ではどのような勉強をされたのですか。

昔は卒業すると必ず外交官になると言われていたところですが、その頃には政府機関や国際企業などにも就職するようになっていたので、日本からは主に東大卒の外務省や通産省の方々の他に日本興業銀行、東京銀行、三菱銀行などのミッドキャリアの方々が来られていました。私は特に国際法や外交はもちろん、戦争やテロリズムに関するありとあらゆる国際安全保障問題などに焦点を置いて勉強しました。

英語の面では苦労がありましたか。

日本でもテープやラジオ、テレビを使って英語のリスニングはこなしていましたし、帝塚山でも講義の文献は英語で、図書館の文献やテープもどんどん利用していました。なにせ門限が6時でしょう?他にやることもなかったのです(笑)。でも大学院の授業が始まった時は真っ青。タフツでは読む本の数がすごい。4つのクラスに、1週間で各クラスに4冊から10冊を読んでいく。そうすると毎週最低25冊。このおかげで、速読が身につきました。これは日本にいた時からやっていることですが、英英辞書がおすすめです。訳していては伸びません。

卒業と同時にニューヨークで就職

卒業の頃には就職の方はどのようになっていたのですか。

在学中に国連での就職について問い合わせたところ、外務省を通す必要があると言われ、外務省へ面接に行きました。どうやら合格したようで、ポジションが空くのを待つように言われました。そして、無事に卒業。同期120人のうち、2年で卒業できたのは28人でした。私は金融関係に興味があったので、ニューヨークの日興リサーチ・センターに入社。まずはリサーチ・アシスタントです。仕事はとてもおもしろく、最初はデータ入力やグラフ描き、翻訳などから始まりましたが、徐々に市況分析、戦略レポート、経済レポートなどもまかせてもらえるようになりました。そのうち、日興證券の理事長の目にとまり、日興證券インターナショナルで市況コメンテーター兼アメリカ株販売担当副社長補佐として、日本の機関投資家にアメリカ株を売る仕事をするようになりました。降って湧いた昇進で、とても嬉しかったです。

仕事の内容を教えてください。

アメリカ株と言っても、ニューヨーク証券取引所には当時で1,800をくだらない銘柄が上場されていましたから、営業テクニックだけでなく、深い知識が必要です。朝は7時半に出社し、ウォール・ストリート・ジャーナルやニューヨーク・タイムズなどの経済指標・政府首脳発言など相場に影響を与える可能性があるものをあらかじめピックアップ。8時にはアナリスト、トレーダー、ディーラーを交えてミーティングをし、午前と午後に市況レポートを提出。週に1度は日本のラジオでニューヨーク市況の分析もしていました。でも、最初はアメリカ株の営業と言われて頭を抱えました。当時、誰もやったことがないものをやれ、というわけですから。

毎日眠るひまもなかったのでは。

日本との連絡が午後遅くから始まりますので、毎晩9時頃まで勤務し、そして接待があれば午前2時頃まで家に帰りませんでした。「接待の数が少ないよ」と言われたりしましたから、やらざるを得なかったですね。シアトルの人は最近はコーヒーを片手にカフェでミーティング、そして仕事が終わったらすぐに自分の時間という場合が多いですが、特に当時のニューヨークではディナーやお酒が中心。でも、「愚痴るなら辞めてしまえ」のアメリカですから、日本のようにお酒を飲みながら会社の愚痴は言いません。当時の上司に言わせると、男ばかりの職場でも女性なりのやり方を編み出して、とにかく生き生きと仕事をしていたそうです。私自身も本当に楽しかったです。

国連を蹴ってウォール街を選択

国連の方には行かれなかったのですか。

行きませんでした。こっちの方がおもしろくて(笑)。 でも、実は入社して数ヶ月たったころ、外務省から「国連高等弁務官に任命する。2週間以内にジュネーブに来るように」という電話をいただいたのです。どうしようか悩みました。だって、もともと目標にしていたものですから。でも、私は金融の仕事をもっとやりたい、と考え、その仕事を受けませんでした。

Investor Relations(IR)の方面に移っていったのはなぜでしょう。

しばらくすると、動きを完全に保証できない株というものを営業することに疑問が生じる一方で、IRの方に興味が出てきました。株価が急激に落ちても、底値で買いが入る企業は、IRをきちんとやっているところだということに気づいたからです。そこでIR関係の企業を数社選びましたが、最初に面接に行った Georgeson Shareholder Communications で採用が決定。ここはIRの他、企業買収に関わるコンサルティングなどをやっている企業で、私はそこのジェネラル・マネジャーとして合計4年間、企業とインベストメント・コミュニティ(機関投資家、証券会社、メディアをあわせた総称)の関係をスムーズにするIRという仕事に携わりました。日興證券の上司は私のことを「株を売るために生まれてきたような人」と思っていたので、辞める理由を理解してもらえず、「IRなんてむちゃだ」と言われましたが、お客さんを紹介してもらったりして、ずっと縁が続いていますし、この後にも転職した会社で前の会社と業務提携をさせたりしていきました。

そして4年後に転職されたのはどういうきっかけですか。

Georgeson Shareholder Communications には満足していて、替わるつもりはまったくありませんでした。しかしある日、ヘッドハンターが Technimetrics という企業が私に興味を持っていると電話をかけてきたのです。最初は断ったのですが、会うだけでも会ってみたらと言われ、一応その会社の社長とランチを食べに行きました。すると、その社長がとてもアグレッシブな人で、私は合わないと思い、断りました。しかし、また電話がかかってきて、今度はオフィスで会いたいというのです。また断ったのですが、私にぜひ見せたいものがあるので、それを見てからでも遅くないと言われ行ってみたのですが、逆に彼らが開発したデータベースに非常に感銘を受け、その販売に携わりたいと思い、転職を決めました。

仕事の内容を教えてください。

まずこの機関投資家に関するデータベースのポジショニングが悪かった。つまり、すばらしいデータベースであるにも関わらず、それ相応の評価を得ていなかったのです。また、日本でも売れ行きは思わしくありませんでした。そこで私は日本部門の副社長として1年で日本市場での売上を3倍にし、翌年にはグローバル部門のマネージング・ディレクターとしてヨーロッパやラテンアメリカ、アジア・パシフィックにも進出。株主判明調査、投資家認識調査、戦略メッセージ作り、株式売買分析、決算発表のプレスリリース、社長のスピーチなど、同業他社と比較しながら、会社から発するメッセージのポジショニングをすべて担当しました。世界の国々でIRに対するアプローチがまったく違いますが、それぞれ改善していく必要がありました。仕事の環境自体はとてもきつく、8時には出社し、海外とのコミュニケ-ションで遅くまで勤務。アジアとヨーロッパへ年に3回ずつ出張する上、米国内での出張は頻繁にありましたから、年に3ヶ月は家で眠ることができませんでした。

ニューヨークからノースウェストへ

そこでノースウェストに移ることを決心されたわけですね。

そうなのです。ある日突然、「このまま年をとり、自分の人生を振り返ってみても、自分の人生がちっともうらやましくない」と思い始めたのです。趣味の乗馬やスキューバ・ダイビングをする時間もままならない。料理をする時間もないため、リモデルした台所もピカピカのまま。私の収入もその頃がピークでしたが、その分ますます自分のライフスタイルが嫌になっていました。そして、1998年にワイオミングに乗馬をしに行ったとき、「ニューヨークを出たい!自然の中で第2の人生を!」と決めたのです。当時、夫は会社を経営していましたが、とてもフレキシブルな人なので「西海岸もいいね」と言ってくれ、1999年1月にギグハーバーへ引っ越しました。私と夫は1984年1月1日のニューイヤー・パーティーで知り合ったのですが、それからずっと一緒です。乗馬・ダイビング・車といった趣味も一緒で、今となっては離れている時間と言えば彼がゴルフとローラーブレードをする時ぐらい。カーレーサー養成学校も2人で卒業したんですよ(笑)。

しかし、そのまま同じ会社で仕事を続けられたのはなぜですか。

辞表を受理してくれなかったのです。ちょうど日本の経済状態がさらに悪化したときだったので、日本・韓国市場のてこ入れを頼まれました。それでギグハーバーからテレコミュートすることになったのです。20%の売上増を提案したのですが、最低30%は欲しい、と本社から通達があり、かなりのプレッシャーでした。日本や韓国への出張が頻繁にあり、ギグハーバーとシータック国際空港の間しか知らないまま1年が過ぎました。結局、売上は48%増と、社内でもトップ。しかし、2000年になって社長が TheStreet.com に移り、そうなると経営陣総入れ替えのリオーガニゼーションで解雇されてしまいました。この解雇は会社の都合によるものですから、解雇手当をもらってゆっくりしようと思っていたのに、やはりニューヨークのメンタリティですね、結局IRディレクターとしてシアトルの Onvia.com に就職しました。

そこでの仕事はどうでしたか。

最初の1ヶ月でIR部門を作りました。しかし、一企業の中でIRを行うのは、これまでのようにいろいろな企業のIRを担当するのとは異なり、その会社に対する愛情が必要です。仕事もダイナミックではなく、コンサルタント時代に比べると随分地味でした。でも、3ヶ月で株価も4ドルから11ドルまで上がりました。もちろん、株価は1つの指針なので、これだけでは何とも言えませんが、私がやめた後には1ドル以下まで下がっています。そうこうするうちに上司が辞めることになったので、私もそれを機に後任者に引継ぎを済ませてから退社しました。

Global Search USA 設立

それから現在の会社を設立するまでの流れを教えてください。

昨年12月からエグゼクティブ・サーチに興味を持っていました。私もトムソンにいたときは世界中の部署でその市場にあった人を選び、管理していましたから、管理の仕方やキャリアの作り方、伸ばし方などについて、自分の哲学のようなものができあがっていたのです。しかし、アメリカ人、イギリス人、中国人、日本人など、さまざまな人たちを雇ってきた中で、日本人の自己PRの弱さが際立っていました。

どういう点についてか教えてください。

帰国子女のバイリンガルでも、謙遜しているのか何なのか、高額の契約を結んでくれているある会社の経営陣の前で “I’ve never done this before.” (今までこれをやったことがありません)と一言。米企業で、このような言動がかわいく見えると思ったら大間違いです。また、まるで子供がお母さんに文句を言うように「あの人とは合いません」と、同僚について感情的に文句を言う。また、上司も「この人はいい人で・・・」と、部下に対してピントのずれた評価をする。日本ではプロとしてやって来た優秀な人たちなのに、米企業幹部にはプロとして聞こえない。日本人は勤勉でよく働くと言われていますが、私の経験では生産性が低く、プロ意識が低いのにコストが高い人が日本人に多く見られました。日本生産性センターによれば、日本のホワイトカラーの生産性はアメリカのホワイトカラーの2分の1だそうです。つまり、日本人スタッフは同じ事でも2倍時間がかかり、営業成績は2分の1というわけです。米企業で仕事をする場合、日本人もアメリカ人も各人の生産性、その企業に対する寄与度で評価されます。また日本人の方はよく、日本とのビジネスは時間がかかるとか、マージンが低めだとかお話しされますが、米企業幹部にすれば、じゃあ儲からない日本から撤退しよう、ということになってあたりまえです。

アメリカと日本では大きなギャップがあるのですね。

そうですね。日本人がアメリカの企業で働く場合、お互いの理解に大きなギャップがあると思います。私はトムソンの社長には「由美がいいという人材なら」と言われるまでの信頼を受けていましたが、数年たって社長に「由美がこれまで雇った日本人を、もしまず僕が面接していたら、雇っていなかった」と言われたのです。その理由は、「”Impressive” じゃないから」。英語のレベル以前に、自分をうまく表現できない。トレーニングをしても社内外で自分がどのようなポジショニングをするべきなのか理解できない。同じ外国人でもラテン・アメリカのスタッフは、最もプロ意識が高く、働き者で、最もいい仕事をしてくれました。彼らが私に何かを言いに来るときも、プロの私にプロとして “complain” するのではなく、”concern” を言いに来ていました。心の中では感情的だったかもしれませんが、それを仕事の場で出すことはなかったですね。

そこで日本人がアメリカでキャリアを伸ばすことをサポートする業務を考えたわけですね。

そうです。私の会社ではアメリカ人管理職をアメリカの企業に売り込むのが主な業務ですが、日本人と韓国人をアメリカの企業に売り込むことも行っています。その業務を通して、意識改革をしていきたいですね。現在はプログラミングや国際マーケティング、ビジネス開発ができる人材などを探しています。人材によってはインタビューのコーチングやポジショニングをします。例えば、先日はプログラマーから営業に転向したいという人をコーチングしました。このような場合、「営業に向いていると思う」というだけではだめですから、彼とよく話をし、プログラマーのバックグラウンドを利用して、営業に向いているというウリになることを2つ見つけ、それを利用してPRします。また、レジュメの書き方も私のオリジナルがあります。私自身、雇用していた時に「読みたい」と思わせられたレジュメはたったの10%ぐらいだったので、いろいろと考えて今のフォーマットを作りました。どの本を見ても、私のフォーマットのようなものは書かれていませんが、忙しい管理職に読んでもらうには、最初だけ読めばその人がどのような人かわかるようなものにするのがポイントですね。

これからの抱負を教えてください。

私と夫は馬が大好きで、将来は馬と一緒の生活がしたい、子馬を育てたいと思ってノースウェストに来ました。まだニューヨークの速いペースとのギャップはありますが、これからはこのシアトルのリラックスした環境で、仕事もプライベートな時間も楽しんでいこうと思っています。

掲載:2001年8月

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