小林圭輔 略歴:
北海道札幌市出身。26歳で電気屋を起業して成功するが、30歳になる前の2006年にシアトル留学を実現。母親の病気がきっかけで留学を途中でやめて日本に帰国した後、アメリカに戻るため、飲食業で経験を積む。2012年にシアトルのウォーリングフォードにレストラン『Yoroshiku』を開店した。
学生時代からアメリカに憧れ、30歳を前に留学を実現
生まれ育った北海道の札幌で26歳の時に小さな電気屋を起業して、電気工事師として働いていました。バンに工具を積んで、商業施設のテナントから一軒家まで、さまざまな空調と電気工事のサービスをやって繁盛していたんです。
でも、アメリカに行くという学生時代からの夢をあきらめられず、仕事をしながら大学留学のための英語学校に週3~4回通いました。僕はいつも、「ちょっとやってみて、無理だったらやめよう」という考えなのですが、そこそこ結果が出たので、じゃあアメリカに行ってみよう、アメリカで電気工事やってみたいから電気工学をやってみよう、と。そして、TOEFLのスコアを上げ、留学生のクラスからではなく学部の留学生として2006年にシアトルに来ました。
大学で勉強しながら、電気関係の会社で仕事を見せてもらったりするうち、「ビジネスチャンスがある」と感じました。今から考えると浅はかだと思えるのですが、「電気屋でも飲食店でも、何をやってもうまくいくのでは」と、考えてしまったのです(笑)。13年前は日本食レストランが今ほど多くなくチョイスがなかったことにもチャンスを感じましたね。
その後、その電気関係の会社で卒業後の採用オファーをいただいたのですが、留学もまだ半ばだった2007年末に突然帰国しなくてはならなくなりました。母親が末期がんと診断されたからです。そして、札幌に戻り、母親に付き添いながら、自分の事業を引き継いでくれた弟の手伝いをし、1年後に母親を看取りました。そんな時、前述の電気関係の会社の社長が「人手不足だから戻ってきてくれ」と連絡をくれたのです。
「日本人だから日本食レストランをやれば?」その一言で心を決めた
でも、社長と移民法弁護士のところに行ってみると、「日本人は電気屋では働けない。太陽光発電とか原子力発電とか、専門技師ならビザはすぐ取れるけど、商業・住宅の電気工事はアメリカ人の職を奪うことになるから」と言われました。そこで、「どうしたらいいのでしょう?」と聞いてみると、「日本人なんだから、日本食やれば」と。「筋が通ってるから、すぐビザがおりるよ」。それが32歳ぐらいの時です。
そこから、「そう言えばシアトルは日本食のチョイスが少なかったし、うまくいくかな」と考えました。シアトルは当時も今も焼き鳥屋がないですよね。それで、「焼き鳥屋ならうまくいくかも」と、北海道の焼き鳥屋を転々としました。でも北海道も景気が悪く、未経験で30歳を超えているやつなんて、誰も雇ってくれません。なので、「お金はいらないので技術を教えてください。無償で働きます」とお願いし、すごく高級なところ、すごく忙しいところなど3軒で働きました。
やってみて自分に向いていなかったらアメリカはあきらめようと思っていたのですが、だんだん面白くなってきて。焼き鳥屋の練習として自分の家の裏庭に小屋を作って、お金を取らず、いろんな人に食べさせてみたりもしました。そしてある日、焼肉屋の店長の仕事をやらないかという話をいただいて、そこで1年働きながら経営と肉のことを学びました。そんなふうに、計4年ぐらい飲食店で一通り勉強させてもらったのです。
コンセプトを固めるまで開店から5年 北海道料理をメインに
アメリカに行くことを決めてからは、開店資金のお金を貯めたり、まわりから募ったりもしました。でも、未経験のやつに誰も貸しませんから大変ですよね。シアトルに来て物件を探したりしましたが、最初は銀行から融資を受けることもできませんでした。それでもどうにか資金を作り、2011年に妻と料理長の本間さんと一緒に来て、2012年の11月に無事、開店。本間さんとはバンドをやっていたころから考えると、20年以上のつきあいです。
なぜアメリカに来たかったのか。憧れだったのかもしれませんが、気づいたらアメリカに来ていたという感じです。がむしゃらでした。でも、なぜ来たんだろうとは思いませんし、来て失敗したなとも思わない。後悔は一切ないですね。
当初の予定どおり焼き鳥と北海道料理の店として開店したら、予想以上にお客さんが来てくれました。本間さんは中学を卒業してから飲食でずっとやってきた人で、彼の料理の腕がその理由です。でも、〆に食べるものとしてたった一種類だけ用意していたラーメンを地元のメディアが「美味しい」と書いてくれたおかげで、ラーメンの設備もないのにラーメンがどんどん注文されるようになり、当初のコンセプトがブレてしまいました。
お客さんも混乱させてしまいましたね。「この店は何をやりたいんだ?」と。僕自身、どうしたらいいのかわかっていませんでしたから、当然です。そうこうするうち、焼き鳥も売れていましたが、ラーメンが1日にたくさん売れるようになり、ラーメンを本格的に作るために設備投資をしないと無理というところまでいった。そして、悩んだ挙句、焼き鳥をやめ、ラーメンを選んで設備投資をしたのです。そしたら焼き鳥を食べたかったお客さんが来なくなってしまいました。
それからメニューを二転三転し、店を2倍の大きさに拡張してオシャレにしてみたのですが、やはりお客さんがあまり満足して帰っていないと感じました。アンケート調査をしたら、「前のほうがよかった」「ジンギスカンが食べたかった」という回答が返ってきたのです。そこで、意外に北海道料理が浸透していたこと、値段を抑える必要があることがわかりました。材料の質を高くして、95%はシェフが一から手作りして「これが美味しいんだよ」と伝えても、お客さんの好みにあっていなければだめなんですね。
そして、2018年1月にメニューを北海道料理に変えて大成功です。北海道の人が来て食べても恥ずかしくありません。「お勧めは何ですか」と聞かれますが、「なんでもおいしいです」と答えますね。シアトルにこれだけ日本食のレストランができてきたら、どう差別化するのかが課題になりますが、北海道出身の僕らが作るんですから、当然アドバンテージがありますよね。5年間迷ってきましたが、もうそういうことはなさそうです。北海道が「Hokkaido」として、シアトルでも認知度が高まってきていて、北海道産ホタテが「Hokkaido scallops」と紹介されていることも、追い風になっていると思います。
今までは極端にメニューを変えていましたが、もうあまり変えないことにしました。お客さんの9割はアメリカ人か日本人ではない方々で、日本人は多く見積もっても1割。そして、その9割を占める日本人ではない方々は変化を好まず、「あれを食べに来たのに、あれがない」とガッカリします。アメリカ人は好きなものを見つけると、それ一択の傾向があることも学びました。
「お金を出せば、誰でも店を持てる。本当に重要なのは、工夫と継続」
僕はシアトルでレストランを開店するという夢を持ってきたので、その夢はかなったと言えます。でも、言ってしまえば、店を持つというのは、お金を出せば誰でもできること。本当に重要なのは、工夫と継続なのだと学びました。
人を雇って経営するという経験はこの店が初めてですが、いろいろな人に支えられていて、ラッキーだったと正直思っています。自分にセンスがあるとか、自分ががんばったからというのではなく、自分がここに来たタイミングや環境もあり、従業員、お客さま、家族に支えられている。自分ひとりではないとよく思います。
そして、たまたまチャンスが訪れ、今年5月にベルビュー市に『Yoroshiku East』を開店しました。僕らのシアトル店とも、シアトルにある他のどの店とも違う、つけ麺をメインにした店で、つけ麺が4種類、普通のラーメンが3種類、そしてザンギ、日本のクラフトビール、カップ酒などを揃えています。こだわっているのは、麺が特注の極太麺であること、無添加で、豆腐と麺とチャーシュー以外はすべて一から作っていること。これから、北海道から材料を輸入して作るソフトサーブ(ソフトクリーム)など、いろいろ新しいことをやっていきますよ。
飲食店をやりたいという人がよく相談に来てくれるんです。僕もシアトルで仲良くしてくださる飲食業界の方々に言われたことなのですが、「やらないほうがいい」と言いますね(笑)。経営者はみんな思っていると思いますが、経営側になるのは大変です。だけど、どうしてもやりたいと思ったらやればいい。ただ、それなりに覚悟を決めて、自分が責任を負える範囲でやる。自分のキャパシティを超えるなと。例えば、経営の経験がないのに、巨大な店舗スペースをリースしてしまうのではなく、自分の許容範囲で物事を進めていくのが大事ですよね。僕も最初は小さく始めて、数年後に気づいたらこうなっていた。開店当事はこうなるとは思っていませんでした。
体力的にはきつい仕事ですが、もうやめたいと思ったことは一度もありません。うちに来てくれるお客さんのためにも、20人以上いる従業員(と家族)のためにも、支えてくれる人たちに感謝して、がんばらないといけないですね。
Yoroshiku
【住所】1911 North 45th Street, Seattle(地図)
Yoroshiku East
【公式サイト】www.yoroshikuseattle.com
掲載:2019年6月