ダウンタウンからパイクストリートを海に向かって歩いていくと正面に見えてくる 『PUBLIC MARKET CENTER』 の看板。シアトルのシェフたちも新鮮な食品を買いに来る、パイク・プレース・マーケットの入口です。
農産物の価格高騰の対策としてシアトル市議会が設置したこのマーケットで農家が消費者に農産物を直売したのは、1907年8月17日。その後は発展の一途をたどり、アメリカの大不況時代に全盛期に突入しました。太平洋戦争勃発後に出店者の多数を占めていた日本人・日系アメリカ人が強制収容所に収容されてしまうと、その存続自体が危機に直面することとなりましたが、1960年に 『Friends Of The Market』 という団体がマーケットの保存運動を開始し、今日のマーケットの基礎となる議案が可決され、1971年に存続が決定。現在は、スペース・ニードルに次いで訪問者数の多い観光スポットになっています。
マーケット早分かり
総面積 | 9エーカー |
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年間訪問者数 | 800万~1千万人 |
夏の訪問者数 | 1日35,000人 |
食材販売店舗 | 56 |
レストラン | 50 |
その他のビジネス | 98 |
常時営業している小売店 | 300軒 |
1日に販売スペースを借りる農家 | 100軒 |
工芸品を販売している人 | 190人 |
マーケット内の低所得 シニア向けアパート | 400ユニット以上 |
夏のミュージシャンの数 | 1日最高200人 |
ハイ・シーズンに売れるカニの量 | 1,750ポンド |
ハイ・シーズンに使われる氷の量 | 19,000ポンド |
(Pike Place Market Preservation & Development Authority)
パイク・プレース・マーケットの歴史
オープンから4年が経過したころのパイク・プレース・マーケット(1911)
パイク・プレース・マーケットで買物をする人たち(1911)
1st Avenue と Pike Street の角から見たマーケットの入口周辺(1912)
1919年の Pike Place(1919)
Dominik Yellam さんの八百屋で買物をする女性(1939)
1940年のメイン・アーケード(1940)
Corner Market Building で発生した火災(1941)
強制収容のために登録手続きを行う日系アメリカ人:シアトルにて(1942)
日系アメリカ人が住んでいた住宅に描かれた “NO JAPS WANTED” の落書き
(1945)
写真©Seattle P-I Collection, Museum of History & Industry
パイク・プレース・マーケットの朝は早い。農産物や花を売る農家は午前6時半にはマーケットに到着する。農家がその日の販売場所に農産物を運び込んだ後の午前9時には工芸品を売る人々が到着して準備を始めます。この時間帯にマーケット内で朝ごはんの営業をしている店に行くと、「これから1日が始まるぞ」という活気を感じるはずです。
そのパイク・プレース・マーケットがオープンするきっかけとなったのは、1900年代初期の農産物の価格高騰でした。当時、キング郡内にあった約3千軒の農家と消費者の間には多数の委託販売業者が介在し、多額のマージンを得て、カリフォルニア州から仕入れた農産物に地元の農産物よりも安い値段をつけるなどしていました。パイク・プレース・マーケット保存開発局(The Pike Place Market Preservation & Development Authority)によると、1年間で玉ねぎの価格が10倍になったと記録されているそうです。
1907年7月、農家と消費者からの苦情を受けたシアトル市議会は、「これでは農家も消費者も共倒れしてしまう」と、Pike Place にファーマーズ・マーケットを設置するという条例を可決。これにより農家が消費者に直売することが許可され、委託販売業者が排除されることとなりました。The Seattle Department of Streets が 1st Avenue と Pike Place の交差点の西側を農産物を乗せたワゴンやカートが並べられるよう整地し、8月17日に直売がスタート。1977年に制作されたドキュメンタリー映画 『The Market』 によると、委託販売業者の脅しに恐れをなした農家が多かったため、初日に販売した農家はわずか8軒でしたが、1万人の買い物客が待ち構えていたそう。Historylink.org は、その初日に農産物を販売した中に1軒の日本人農家が含まれていたと記載しています。それからマーケットは発展の一途をたどり、多くの日本人の移民一世や二世が農産物を販売するようになりました。
しかし、1942年に日本軍が真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まり、その約2ヵ月後にフランクリン・D・ルーズベルト大統領が大統領令9066号(Executive Order 9066)に署名し、「日本人を祖先に持つ者」の強制退去・一時収容を決定すると、太平洋戦争勃発前には店子の約3分の2が日系の農家だったパイク・プレース・マーケットは一変してしまいます。マーケットは廃れ始め、1960年代にはこの土地をホテルや駐車場にするなどさまざまな再開発計画が提案されるようになりました。
しかし、1969年にワシントン大学の教授で建築家の Steinbrueck 氏が設立した民間組織 Friends of the Market が大規模なキャンペーンを行って再開発に反対する気運を高めたことにより、1971年には市民投票が行われ、パイク・プレース・マーケットの保護が可決されました。その際に新鮮な農産物と地元の農家を支えることがその使命となり、それは現在も維持されています。
8軒の農家が農産物を売り始めてから100年がたった2007年、パイク・プレース・マーケットはアメリカで唯一の継続して営業されているマーケットとして年間800万人~1千万人が訪れる一大観光地に成長しました。パイク・プレース・マーケット保存開発局のエグゼクティブ・ディレクター、キャロル・バインダー氏は、パイク・プレース・マーケットが史跡に指定されていることから、電気系統の改善、エレベーターや公衆トイレの追加、屋根の取り替えなど現存する建物を維持するための修理や改築、インフラの整備は行うものの、大規模な変更をすることはないと話してくれました。
「一時は廃れてしまったパイク・プレース・マーケットを1971年に再開発の危機から救ったシアトル市の人々は、何らの大きな変更も求めていません。パイク・プレース・マーケットの建物と伝統を保存することが、我々の使命なのです」
1907年から2007年までの主な出来事
1900年代初期 | クロンダイク・ゴールドラッシュへの玄関口として発展したシアトルで、ゴールドラッシュで5万ドルの財産を築いたフランク・グッドウィン氏が後にパイク・プレース・マーケットになる地域に投資し、建物を買収する |
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1907年7月 | トーマス・P・レベル氏が議長を務めたシアトル市議会が、農家が消費者に農産物を直売する市場を Pike Place に設置する条例を可決し、8月17日を “Market Day” と定める |
1907年8月17日 | 8軒の農家がワゴンに乗せた農産物を販売 |
1907年8月19日 | 10軒の農家が販売 |
1907年8月20日 | 20軒の農家が販売 |
1907年8月24日 | 70軒の農家が販売 |
1907年11月30日 | フランク・グッドウィン氏が最初のビルを建設し、76の農産物販売スペースを設置 |
1912年 | Center Market Building がオープン |
1914年 | Fairley Building(Main Market)がオープン |
1922年 | 現存する建物すべての建設が完了 |
1925年 | 500の販売スペースが設置され、平日は2万5千人、土曜には5万人の買い物客が訪れる |
1927年 | マーケットのシンボルである 『PUBLIC MARKET CENTER』 のネオンサインと時計が設置される |
1939年 | 515軒の農家が農産物の販売許可を取得 |
1941年12月7日 (ハワイ時間) | 日本がハワイ・真珠湾の米国太平洋艦隊・航空基地を攻撃し、太平洋戦争が勃発 ※その後、Sanitary Market で火災が発生し、日本人が疑われるが、犯人は不明 |
1942年2月19日 | ルーズベルト大統領が大統領行政命令9066号に署名し、日本人・日系アメリカ人の強制収容が決定 ※約11万人が対象となり、シアトル地域からも数千人が強制収容された この直後、マーケットの南端にある LaSalle Hotel でネリー・カーティスが売春宿を開業 |
1943年 | 196軒の農家が農産物の販売許可を取得(パイク・プレース・マーケット側は人種の記録はしていないため、1939年の515軒からの大幅な減少が日本人・日系人の収容と直結しているとは結論づけていないが、1942年までは日本人・日系人の農家が大多数を占めていたことから、一般的には許可証の大幅な減少には前年の日本人・日系人の強制収容が大きく関わっていると考えられている) |
1945年8月15日 | 日本が降伏し、第2次世界大戦が終結 |
1946年 | 自家用車、スーパーマーケット、冷凍食品、ファストフードの登場で、パブリック・マーケットが廃れていく |
1949年 | 53軒が農産物を販売 |
1950年 | パイク・プレース・マーケットを車両1,500台を収容可能な駐車場にする提案が出される |
1953年 | Alaskan Way Viaduct が建設される |
1962年 | シアトルで世界博覧会が開催される |
1963年 | パイク・プレース・マーケットを車両3,000台を収容可能な駐車場とホテルにする提案が出される |
1964年9月 | 独学の建築家でワシントン大学教授の Victor Steinbrueck 氏が Friends of the Market という民間組織を結成し、再開発計画を中止させる運動を開始する |
1969年3月12日 | Steinbrueck 氏がムーア・シアターでパイク・プレース・マーケット保護を求める抗議集会を開催 |
1969年6月17日 | シアトル市議会が再開発計画の投票を行い、満場一致でこれを可決 |
1969年8月11日 | シアトル市議会が再開発計画を進めることを決定 |
1971年2月 | マーケットを保護するというイニシアチブが可決 |
1971年4月 | スターバックス社が1号店を開店 |
1971年5月15日 | Friends of the Market がイニシアチブ・キャンペーンを展開し、3週間で2万5千人分の署名を集め、マーケット保護イニシアチブを市民投票にかけることを実現 |
1971年11月2日 | シアトル市の市民投票が実施され、マーケットを保護するというイニシアチブを可決 |
1973年 | パイク・プレース・マーケットの保存開発局(The Pike Place Market Preservation & Development Authority:PDA)が設置される |
1986年 | 募金箱の豚のレイチェルが設置され、9千ドルの募金を集める |
2001年 | 『Pigs on Parade』 コンテストが開催され、50万ドルの寄付金が集まる |
2007年 | パイク・プレース・マーケットが設立100周年を迎える |
アーティスト 曽我部あきさん
日系アメリカ人農家の歴史を描いた壁画を制作
日系人の歴史を描いた壁画
パイク・プレース・マーケットの正面入口の天井近くに設置された壁画。このマーケットの発展に深く関わる日系人の歴史を5つのパネルに描いたこの作品は、1978年に日本からシアトルに移住した切り絵アーティストの曽我部あきさんが制作したものです。
太平洋戦争勃発前には店子の約3分の2が日系の農家だったというパイク・プレース・マーケットは、日本軍が1941年12月7日(ハワイ時間)にハワイの米海軍基地を攻撃してから約3ヵ月後の1942年2月19日に一変。フランクリン・D・ルーズベルト大統領が署名した大統領令9066号(Executive Order 9066)により、「日本人を祖先に持つ者」の強制退去・一時収容が決定されたためです。強制退去や収容所生活の様子は、工藤夕貴がイーサン・ホークと共演した 『Snow Falling on Cedars(邦題:ヒマラヤ杉に降る雪)』 (2000年)で改めて描かれて話題を呼びましたが(なお、この映画の舞台がシアトルからも見えるベインブリッジ島であることは有名な話。詳細は特集 『シアトル・ワシントン州が登場する映画・テレビ番組』 参照)、パイク・プレース・マーケットで農産物を販売して生計を立てていた日系の農家も例外ではなく、シアトル周辺から日系人が強制収容された後のマーケットは空の店舗スペースが並び、1970年代になるまで廃れる一方でした。
『Soul of the City: The Pike Place Public Market』
そんな日系人の歩んだ歴史を描いたこの曽我部さんの作品は、1998年に JACL(日系アメリカ人市民協会)シアトル支部のディレクターを務めていたジャニス・イー(Janice Yee)氏の呼びかけがきっかけとなりました。「イーさんは、強制収用された日系農家で第2次世界大戦後にパイク・プレース・マーケットに戻って商売を再開した人は1人もいない。日系農家の思い出を残したいと、アーティストに呼びかけたのです」と語る曽我部さんは、その意義に共感し、応募したそう。パイク・プレース・マーケットと曽我部さんの縁は、1991年にアニバーサリー・ポスターを手がけた時までさかのぼります。「25年以上にわたりこのマーケットで商売を続けている店子」を称えるために柱に名前を彫るプロジェクトや、マーケット・メモラビリアとして販売されているカードの絵も制作してきました。また、1991年のアニバーサリー・ポスターを気に入った作家アリス・ショレットさんとマレー・モーガンさんの共著で今年6月に出版された 『Soul of the City: The Pike Place Public Market』 の表紙にも、曽我部さんの作品が使われています。
公共のスペースに設置される芸術作品はパブリック・アートと呼ばれ、最終選考に残った3人が作品のプレゼンテーションを行うのが常。曽我部さんはその一人に選ばれ、「忘れてはならない日系人の歴史を5枚のパネルで表現する」というプレゼンテーションを行い、見事、このプロジェクトを獲得しました。そして、1999年に『Song of the Earth』 と名づけられたミューラルが現在の場所に設置され、2月19日に日系二世の退役軍人らも出席して開幕式が行われました。5枚のパネルは左から、農地を開墾する様子 『Song of the Earth』、農産物を収穫する様子 『Song of the Farmers』、マーケットで農産物を販売する様子 『Song of the Joy』、戦争が始まって日系人が収容所に送られ、農夫達がいなくなった畑には草が生え、悲しみに満ち溢れた様子 『Song of the Sorrow』、終戦を迎えた様子 『Song of the Memory』 で構成されています。「私は日本で生まれ育ち、米国に帰化しました。日本人としても、日系アメリカ人としても、日系農家の戦争体験をたくさんの人に知ってもらうために自分が何かを残せて良かったと思います」。
『Ms. Good Old Days(古き良き日々)』
今年のパイク・プレース・マーケット関連イベントとしてパイク・プレース・マーケットのマスコットの豚・レイチェルの等身大レプリカをシアトルの中心地のあちこちに配置する 『Pigs on Parade』 が展開されていますが、曽我部さんもその一つを手がけています。今年は100個のレイチェルたちが街に展示されており、曽我部さんの作品は 『Ms. Good Old Days(古き良き日々)』 という名前で宇和島屋シアトル店の入口左側にすわっています。「正面から見るとたくさんのヒマワリに縁取られているようですが、横には日系人と白人の農夫たちが一緒に農産物を売っている様子を描きました。せっかくパイク・プレース・マーケットの100周年を祝うのに、洋服を着せてみたり、下半身を人魚にしてみたりという、目を引くことを目的にした作品は意味がないですね。昔は日系人と白人の農夫たちが一緒に農産物を売っていた、そういう時代があったということを、この作品で伝えることができればと思います」
曽我部あきさんに関する詳細は、2005年11月の 『ぶらぼおな人』 参照。
ポール・イシイさん – パイク・プレース・マーケットで働いた祖父を持つ日系三世
ダウンタウン・シアトルのブティック・ホテル、メイフラワー・パーク・ホテルのジェネラル・マネジャーを務めるポール・イシイさんは、日本からアメリカへ移住し、パイク・プレース・マーケットで働いた祖父を持つ日系三世。ポールさんの祖父は、今や世界に広がるスターバックス社の1号店として有名な店舗が農産物・種専門店だった頃、日本語を話せるということで雇われたそうです。
「祖父は日本からまずカナダのビクトリアに移住してエンプレス・ホテルで働いた後、シアトルへ来たと聞いています。当時、日系人たちはサウス・センターやアーバーン、ケントにある広大で肥沃な土地でたくさんの農産物を作っていたので、農産物の種を売る店は日本語を話せる人を必要としていたんですよ。その店を経営していたのは、サウス・ダコタあたりから来たというアイルランド系アメリカ人の老夫婦。ダン(Dunn)さんという名前でね。僕の父はパイク・プレース・マーケットの中にあるアパートで1920年か1921年に生まれ、祖父が働いていた時は店の中を走り回っていたそうです。そして、子供のなかったダン夫婦の養子になり、プライベートのカトリック・スクールに通うという面白い展開になりました」。そのため、ポールさんには、血のつながりはないが、アイリッシュ系アメリカ人の親戚がいるのだという。
しかし、1942年2月19日にルーズベルト大統領が日本人移民とアメリカ市民である日系二世・三世(日本人の血が4分の1以上の者)を強制収容するという大統領命令を発令したため、イシイさん一家も約11万人の日系人とともに強制収容所へ送られることに。パイク・プレース・マーケットで農産物を販売していた日系人たちも、自分たちで開拓した広大な農地はもちろん、手に持てる以外の家財道具・財産はすべて残してシアトルを後にしなければなりませんでした。
「今は巨大な倉庫やオフィスビルが立ち並ぶサウス・センターの辺りなどは日系人の土地だったのです」
そんな中で、一般のアメリカ人の心の温かさを伝える話もあります。一家が強制収容所に送られた一方で、出産を間近に控えていたポールさんの祖母は出産のためシアトルにとどまりましたが、スウィディッシュ・ホスピタルで末子デビッドさん(数年前までパイオニア・スクエアでデビッド・イシイ・ブックストアを経営)を出産すると同時に他界してしまいました。親類縁者がみな強制収容所に入ったままだったデビッドさんは、3~4年後にイシイさん一家がシアトルに戻ってくるまで、出産に立ち会った看護婦らに育てられたそうです。
ポールさんの父親は、日本語の通訳が必要と考えた米軍情報局に雇われ、戦争中はフィリピン、戦後は東京で通訳として勤務。ポールさんは戦後生まれですが、父親の転勤に伴って東京・ワシントン DC・マレーシアなどに住み、父親の退職とともにシアトルに戻りました。旅行好きだったことからホテル業界に就職し、20数年にわたり世界各地のホテルで勤務しましたが、「落ち着いた暮らしがしたくなった」と、メイフラワー・パーク・ホテルのジェネラル・マネジャーに就任して現在に至ります。なんとスターバックスの1号店には、ポールさんの祖父が働いていた頃のセピア色の写真が額に入れられて飾られています。パイク・プレース・マーケットを訪れた時は、ぜひ立ち寄ってみてください。
World Famous Pike Place Fish
大企業や日本企業も採用、仕事と人生を楽しむための哲学
日本から移民した一世のロイ・ヨコヤマさんと、シアトルで生まれ育った日系アメリカ人のヘレンさんの長男として、1940年6月25日にシアトルで生まれたジョン・ヨコヤマ氏は現在、「ほら、あの魚を投げるので有名な」と言われる、パイク・プレース・マーケットの魚屋 『World Famous Pike Place Fish Market』 を経営しています。太平洋戦争勃発前からパイク・プレース・マーケットで野菜を売っていた家族と共に強制収容所に収容され、戦後にパイク・プレース・マーケットに戻った、ごくわずかな日系アメリカ人の一人ですが、社員と一緒になって生み出した仕事と人生を楽しむための哲学が、米国だけでなく、世界各地で大きな影響を与えたことは、既にご存知の方も多いでしょう。
日本による真珠湾攻撃から約2ヵ月後の1942年2月19日、ルーズベルト大統領が大統領行政命令9066号に署名したことにより、日本人を祖先に持つ日系アメリカ人の強制立ち退きから強制収容が行われ、当時2歳だったヨコヤマさんは、家族とともにカリフォルニア州のトゥール・レイク(Tule Lake)に設置された集合センターに送られました。この大統領行政命令は裁判や公聴会を経ずに特定の地域から住民を排除する権限を陸軍に与えるというもので、全米日系人博物館によると、その約7割はヨコヤマさんと同じくアメリカ生まれの2世、つまりアメリカ人だったそうです。ワシントン州(1)、オレゴン州(1)、カリフォルニア州(14)の合計16ヵ所にある競馬場や催事会場、家畜場が水・電気・下水が完備されているという理由で集合センターとなりましたが、アパートメントとは名ばかりの、窓もなく、天井も低く、壁で仕切られただけの馬屋を改造した一室で動物の臭いと一緒に生活することを余儀なくされました。たいていは約100日間を集合センターで過ごしてから各地に設置された強制収容所に移動させられたそうですが、ヨコヤマさん一家もアイダホ州ハントに設置されたミニドカ強制収容所に入れられました。銃を持った警備員が監視する鉄条網で囲まれた収容所には粗末なバラックが立ち並び、水道は共同バスルームだけ。そんなミニドカ強制収容所には合計9,397人が収容されていたそうです。現在は国定史跡となっているこの場所についてヨコヤマさんは著書 『When Fish Fly』 で、「収容所での経験やその後に受けた差別に大きく影響を受け、成人したころには辛らつで怒りっぽい人間になっていた。そして、自分の中に育った恨みを、”幼いころにそんな差別の標的になったら、他にどんな人間になれるって言うんだ?” と言うことで正当化していた」と記述しています。
戦後にパイク・プレース・マーケットに戻ったヨコヤマさん一家は、魚売場の横のスタンドで野菜の販売を再開しましたが、ヨコヤマさんは学校卒業後に食料品店で働きながら父親を手伝い、1960年に現在経営する 『Pike Place Fish』 に就職。当時の経営者が魚嫌いの息子にまかせたおかげで経営が傾き始めた同店を1965年に買収し、その後20年間にわたり毎日働き続けました。前述のように辛らつで怒りっぽかったヨコヤマさんは社内で威張り散らし、誉めることをせず、社員が「何をやってもあなたに満足してもらうことはできない!」と泣いたこともあったそう。しかし、1986年に鮮魚の卸売りに手を出し、わずか9ヶ月で莫大な負債を抱えたことが、ヨコヤマさんのその後の人生を大きく変えるきっかけとなりました。義母からの借り入れで急場をしのいだが、友人の紹介で出会ったビジネス・コンサルタントの Jim Bergquist 氏や社員たちと、シンプルなビジネス・モデルを編み出し実行することになったからです。「世界的に有名な魚屋になろう!」と最初に社員の一人が言った時はその場にいた全員が笑ったそうだが、「有名になるとは?」と話し合いを進めるにつれ、自分たちの哲学が生まれました。そのポイントは次の4つ。
Choose Your Attitude(態度を選ぶ)
仕事はする態度を選ぼう。辛い仕事も、自分次第でやりがいも出る。
Play(遊ぶ)
仕事をしながら楽しむ要素を見つけ、それをエネルギーにしよう。
Make Their Day(人を喜ばせる)
顧客満足はまず顧客を楽しませることから始まる。顧客と自分を喜ばせよう。
Be There(注意を向ける)
目の前にある仕事に誠心誠意の気持ちで尽くそう。仲間と顧客にきちんと向き合おう。
『Fish! Tales(邦題:フィッシュ!実践編~ぴちぴちオフィスの成功例一挙公開)』
この哲学を実行に移した社員たちが発するポジティブなエネルギーが、自然とさまざまなところに伝わり、有名な教育ビデオ制作者とヨコヤマさんたちが共同で制作した教育ビデオ 『Fish!』 は社員教育の教材として爆発的に売れました。日本語を含む13カ国語に翻訳された上、書籍としても発売され、テレビでの報道はもちろん、雑誌や新聞にも書き立てられ、そこからさまざまなビジネスが派生するという理想的な展開となったのです。日本語に訳された 『フィッシュ!~鮮度100%ぴちぴちオフィスのつくり方』 は日本企業でも社員用テキストとして採用されるなどの世界的広がりを見せ、翌年に第2弾 『Fish! Sticks(邦題:フィッシュ!おかわり~オフィスをもっとぴちぴちにする3つの秘訣)』 が発売されると、第1弾とあわせて Sprint、Marriott、Ford Motor Company、Panasonic を始めとする数千社が採用しました。さらに、この哲学を採用した企業の成功例を集めた第3弾 『Fish! Tales(邦題:フィッシュ!実践編~ぴちぴちオフィスの成功例一挙公開)』 も、自動車メーカーからテレコミュニケーションまでさまざまな企業が採用しているそうです。
かつては新聞のスポーツ欄以外は読んだことがなく、大勢の人前で話すことも苦手だったというヨコヤマさんは、各地の企業などからの強い要請を受けるようになり、「ボス、やらなくちゃだめですよ」という社員の一言で講演を行うようになりました。そして、2004年には著書 『When Fish Fly(邦題:魚が飛んで成功がやって来た)』 を出版し、マクドナルド、BMW、ユニバーサル・スタジオ、ノキア、AT&T、米国陸海軍、ナビスコ、富士フィルムなど世界4千社がテキストに採用した経営ノウハウを紹介。「自分は普通の人間。何の才能があるわけでもない。しかし、普通の人間でもアイデア次第で何かを大きく変えることができるのを、自分が証明している」と語るヨコヤマさんの哲学は、すでに世界中の多くの人の日常を変えています。日ごろの生活に倦怠感を覚えているという人は、この 『World Famous Pike Place Fish Market』 から生まれた本を読んでみては。
Pike Place Fish
www.pikeplacefish.com
When Fish Fly
www.whenfishfly.com
Japanese National American Museum(全米日系人博物館)
www.janm.org
100年祭祝賀イベント参加レポート
8月17日、すっきりと晴れ上がった夏空の金曜にパイク・プレイス・マーケットの誕生100周年記念イベントが華々しく行われた。マスコットのブタ 『レイチェル』 のレプリカを100人のアーティストがデコレーションした作品がシアトル市内のあちこちに置かれているのはその一環で、1907年の8月17日に初めてここにマーケットが開かれてから一世紀を迎えたこの日は、マーケット全体を挙げて早朝から夜までたくさんのイベントが開催された。
午前8時。『PUBLIC MARKET CENTER』の看板と時計のある正面広場は、おそろいの黄色の Tシャツを着たボランティアたちや、いろいろな局のテレビ・クルーが早朝から忙しく動き回り、コーヒーやパン業者による朝食の無料提供目当てか観光客の出足も普段より早い。9時になり、人垣ができる程にぎわって来たところへ、新鮮な農産物を山盛りに積んだワゴンやカートが本物の馬に引かれて登場し、集まった人々が歓声をあげた。100年前のこの日、農産物を売りに来た農家はわずか8軒だったのに対し、1万人もの買い物客が待ち構えていたというが、今日も「せっかくだから」とばかりにワゴンから野菜を買い求める人々の様子は当時を彷彿とさせる。当時の衣装を身に着けた紳士や淑女が闊歩する姿も19世紀初頭に建てられたレンガ造りの建物にしっくり溶け込み、雰囲気を盛り上げる。写真愛好家や観光客がカメラを向けたり、一緒に写真に納まる様子もほほえましい。シアトルでは貴重な夏日もこの記念すべき日を祝福しているようだ。
正午からは看板前広場の特設ステージで記念式典が始まり、ニッケルズ市長とマーケット保存開発局のエグゼクティブ・ディレクター、キャロル・バインダー氏の挨拶、4代に渡ってマーケットの開設・発展に尽力したレベル家のランディ・レベル氏などのスピーチなどが続いた。マーケットで長年商売を続けている農家やクラフト業者たち、マーケットのために骨身を惜しまなかった寄付者や協力者たちが表彰された後、今回の式典の華、「100歳記念バースデー・ケーキ」にナイフが入れられ、集まった人たちに振舞われた。ステージではバンドの演奏にあわせてたくさんの人々が “Happy Birthday” を大合唱。その後は夜までマスコットのレイチェルの特大レプリカとの写真撮影や、100周年記念特別セール、隣接する公園での野外コンサートなどが続いた。
戦争や不況など、数々の危機を乗り越え、シアトルの一大名所となったパイク・プレース・マーケット。アメリカの他のどの街でもなく、「シアトルにある、シアトルらしさを集めたパブリック・マーケット」として、これからも発展し続けてほしい。
おすすめの本・DVD
Pike Place Market: 100 Years
The Pike Place Market Preservation & Development Authority
パイク・プレース・マーケットの保存開発局が、マーケット創立100年を記念し2007年に発行した、マーケットのバイブル。保存開発局だけあってトリビア的な情報はもちろん、歴史的な写真も多く、まったくのマーケット初心者でもその始まりから現在までの出来事や社会的な意味までが簡単にわかるようになっている。
A Day at the Market
Sara Anderson
カラフルな作風でパイク・プレース・マーケットを生き生きと描いた画集。「よく見てるな」と思わせる細かさです。親子で楽しめそうな一冊。
Pike Place Market Seafood Cookbook
Braiden Rex-Johnson
『Seattle Homes & Lifestyles』 誌のフード・エディターを務める人気クックブック作家のブレイデン・レックス=ジョンソン氏によるクックブック。サーモンやハリバット(オヒョウ)など、パイク・プレース・マーケットで購入できる魚を使ったレシピはもちろん、野菜や米を使ったレシピも満載。
Inside the Pike Place Market: exploring America’s favorite farmer’s market
Braiden Rex-Johnson
『Seattle Homes & Lifestyles』 誌のフード・エディターを務める人気クックブック作家のブレイデン・レックス=ジョンソン氏によるパイク・プレース・マーケットの紹介本。このマーケットのそばに夫婦で住んでいるという同氏は、料理研究家・作家としても個人としても、マーケットを知り尽くしている人の1人と言えるだろう。1日、そして1年の間に、マーケットで何が起きているのかを、美しい写真とともに紹介している。オリジナル・レシピが掲載されているのは料理研究家の同氏ならでは。
Market Sketchbook
Victor Steinbrueck
ワシントン大学で教鞭もとった独学の建築家、ヴィクター・ステインブルーイック氏(1911-1985)のスケッチを集めた書籍。ステインブルーイック氏の父親は19世紀に西海岸まで到達したグレート・ノーザン鉄道でノース・ダコタから家族とともに移住した鉄道員の1人だった。1960年代にパイク・プレース・マーケットの保存を求める民間組織 Friends of the Market を組織して市民投票を実現させたことで有名。パイク・プレース・マーケットのさまざまな人々や店、景色を描いたスケッチには手書きの説明も掲載されている。
『World Famous Pike Place Fish』 を経営するジョン・ヨコヤマ氏とその社員が生み出した哲学が数千社を超える世界中の企業に影響を与えたのは有名な話。この書籍はヨコヤマ氏が太平洋戦争勃発後の強制収容所生活にも触れながら、その哲学が生まれた背景を語るビジネス書である。決して自分に何らかのすばらしい才能があったわけではないと言うヨコヤマさんは、一生懸命にやることで普通の人間が大きな違いを生み出すことができることがわかったと語っている。
【DVD】 A Memory for The Future and The Market
1977年に制作され、『National Trust for Historic Preservation Film Festival』 で賞を受賞したドキュメンタリー作品。フランク・フェレル氏が作曲した 『Pike Place Market Suite』 のバイオリンの調べにのって、このパブリック・マーケットがどのようにして始まったのかという1900年代初期の話から、1960年代から1971年にかけてシアトル市民がこのパブリック・マーケットをどのようにして再開発から守ったかなどを、当時の写真や制作当時のマーケットの映像を使って紹介している。70年代ファッションで歩く人たちの様子も必見。キング郡図書館で貸し出しされている。