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シアトル日本町:1942年まで栄えた、日本人・日系アメリカ人コミュニティの中心地

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Panama Hotel の1階は、カフェとして営業中

1990年代から第二次世界大戦中まで、日本人と日系アメリカ人の重要なコミュニティとして栄えていた日本町。主に移民として日本からアメリカに渡ってきた日本人(日系一世)が中心となり、商店、飲食店、ホテル、劇場、銭湯、集会所などがひしめき、1930年代の最盛期には8500人が住む活気のあるエリアに発展していました。

もくじ

シアトル日本町の形成

シアトル日本語学校の建物(現在はワシントン州日本文化会館 JCCCW)

日本から最初の移民が米国北西部に移住したのは1880年代でしたが、全面的に歓迎されていたわけではなく、1906年には米国連邦議会が移民法を改定して日本人がアメリカ国籍を取得することを禁止し、1908年には日本人労働者の米国入国を禁止しました。同年には日本の外務省が自発的に移民の旅券の発給を停止しています。その後、1924年には日本からの移民の入国が全面的に禁止されました。

そのような状況下でも、1920年には「シアトル日本町」が形成され、最盛期の1940年には今のインターナショナル・ディストリクト、リトル・サイゴン、パイオニア・スクエア、セントラル・ディストリクトまで広がりました。

最盛期には、さまざまな商店、公衆浴場、病院、学校、道場、ホテル、銀行、仏教会(現シアトル別院)、教会などが軒を並べていたと言われています。1902年に創立したシアトル日本語学校は、生徒が増えたことによる規模が拡大され、最盛期の1930年代には1300人の生徒が在籍していました。

大統領令9066号による日本人・日系アメリカ人の強制収容

しかし、1941年12月に旧日本軍がハワイの真珠湾を攻撃したことで、状況が一変。約2ヶ月後の1942年2月19日、当時のアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルトが大統領令9066号(Executive Order 9066)を発令し、軍隊に「軍事上必要」と判断した地域から特定の住民を排除する権限を与えました。

その結果、当時の西海岸に住んでいた日本人とその子孫の日系アメリカ人約12万人が自宅や学校を追われ、財産を失い、砂漠など自然環境が厳しい過疎地に短期間で建設された強制収容所に送られてしまいました。シアトル日本町は廃れ、戦後のコミュニティ再建は困難を極めました。

大統領令9066号は戦時中の国家安全保障を理由に発令されましたが、戦後になって人種差別的な政策として批判され、1988年にはアメリカ政府が公式に謝罪し、生存者に対する補償が行われました。

シアトル日本町の中心部が特別景観地区に

2006年に国定歴史建造物に指定され、2015年にナショナル・トラスト(National Trust)により
シアトル唯一の国宝に指定されたパナマ・ホテル

1973年になって、アジア系アメリカ人グループの努力によって南側のインターナショナル・ディストリクトとともにようやく特別景観地区に指定され、歴史的建造物が保存されることになりました。

そんなかつての「日本町」に現存するパナマ・ホテルは、1942年当時の経営者タカシ・ホリ氏が強制収容される日本人・日系アメリカ人の所持品を保管するためにホテルの地下室を提供したことで知られる、貴重な建物の一つです。

ホリ氏は終戦後にシアトルに戻ったものの、引き取り手が現れなかった所持品は現在もそのまま残されており、1階のカフェで見ることができます。

1985年、シアトル出身のアーティスト、ジャン・ジョンソンさんがパナマ・ホテルを購入し、歴史を伝え続ける役目を受け継ぎました。

カフェを訪れた人たちと話すジャン・ジョンソンさん

パナマ・ホテルの建物は、シアトルで最初の日系アメリカ人建築家だったサブロウ・オザサさんによってデザインされ、1910年に完成したもの。2006年に国定歴史建造物に指定され、2015年にナショナル・トラスト(National Trust)によりシアトル唯一の国宝に指定されました。国宝に指定されたことにより、ナショナル・トラストがホテルに残された所持品の目録作成・記録・保管を手がけることになり、現オーナーのジャン・ジョンソン氏が引退する際は、新たな経営者を確保することになります。

当時のまま保存されている公共銭湯 『橋立湯(Hashidate-Yu)』

地階には、日本人が利用していた公共銭湯 『橋立湯(Hashidate-Yu)』があります。1910年から第2次世界大戦中を除く1960年まで営業され、その後は放置されたままとなっていましたが、不定期でツアーを行うようになりました(ツアーの詳細については、ホテルに問い合わせること)。

また、パナマ・ホテル1階にあるパナマ・ホテル・ティー・アンド・コーヒーでは、ジャンさんが収集した日系アメリカ人関係の写真や 1940年代の日本語新聞などが展示されています。

旧・シアトル日本人街(日本町)

Jackson Street に面しているショップ 『Kobo at Higo』 も、日系人ゆかりの場所のひとつ。第2次世界大戦前から75年にわたって営業してきた 『Higo』 が2004年6月に閉店した後、その歴史を保存するため、シアトルや日本のアーティストによるさまざまな作品を展示販売している 『Kobo』 の経営者びんこ&ジョン・ビスビー夫妻が2004年11月に新しいショップとしてオープンしました。

こうした日本町の歴史をたどることのできる無料ウォーキングマップ(英語版)もあります(日本語版はこちら)。ウィング・ルーク博物館の公式サイトからダウンロードできるので、ぜひご覧になってみてください。また、ウィング・ルーク博物館では、このウォーキング・マップで紹介されているゆかりの地をめぐる英語でのウォーキング・ツアーを実施しています。個別ツアーをご希望の方はウィング・ルーク博物館に直接お問い合わせください。

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