
Carina Skrobecki Swain / Courtesy of State of Washington Tourism
サンファン諸島は、数百万年前に山脈だったものが氷河期に氷河に覆われて削され、低地が海面下に押し下げられてできあがったと言われています。
サン・ファン(San Juan)という名前の由来には諸説ありますが、1791年にこの地を訪れたスペイン海軍のフランシスコ・デ・エリザが、1535年から1821年にかけて存在したアジア・太平洋・北アメリカ・中央アメリカにおけるスペイン帝国副王領地(ニュー・スペイン副王領:Viceroyalty of New Spain)の総督を務めた Juan Vicente de Guemes に敬意を表して『Isla y Archiepelago de San Juan』(サンファン諸島)と名付けたことに由来しているという説や、1787年にこの島々を発見したスペイン人探検家ロペス・デ・ハロがサンファンと名づけたという説があります。
1846年
19世紀半ば、アメリカとイギリスはサンファン・アイランドを巡って領有権を主張していました。1846年のオレゴン条約で国境が北緯49度線に沿って設定されましたが、サンファン島ついては曖昧な部分があり、アメリカとイギリスはそれぞれ領有権を主張していました。
1853年
イギリスのハドソンズ・ベイ・カンパニーがサンファン・アイランドにベレ・ビュー・シープ・ファームという牧場を設置し、アメリカ人も入植を開始したため、イギリスとアメリカの緊張は高まりつつありました。この頃、オーカス・アイランドの肥沃な土地に目をつけた入植者が移住して果樹の栽培を始め、数十年後にはリンゴやナシなどを本土に向けて出荷するようになりました。
1859年
国立公園管理局によると、1859年6月15日、イギリスのハドソン・ベイ・カンパニーで働くアイルランド人労働者が飼っていたブタがアメリカの入植者の畑に入ってジャガイモを食い荒らし、畑の所有主のライマン・カトラー氏はそのブタを射殺したことから、アメリカとイギリスの間で緊張が高まりました。アメリカはジョージ・ピケット大尉(後に南北戦争で連邦軍の指揮官となった)率いる兵士たちを島に送り込み、イギリスは戦艦を配備して睨み合いが続き、最盛期には、アメリカ兵450人以上とイギリス戦艦5隻が島の近くに配備されましたが、最終的には戦争に至りませんでした。
1865年
サンファン諸島のロペス・アイランドへの入植が始まりました。開発が始まったのは1850年代でした。
1872年
ドイツ帝国のカイザー・ウィルヘルム1世の仲介により、サンファン・アイランドはアメリカ合衆国に帰属することが決まりました。これにより、約12年に及んだブタ戦争が終結しました。
1889年
ワシントン州は1848年から1853年までオレゴン・テリトリーの一部でしたが、その後、オレゴン州から分割され、ワシントン・テリトリーとなりました。そして、1889年11月11日、アメリカ合衆国の42番目の州として、ワシントン州が誕生しました。
1890年
サンファン・アイランドのロシュ・ハーバーが、石灰石の企業城下町として最盛期を迎えました。
1905年
サンファン・アイランドを初めて自動車が走った年。でも、1920年代までは馬車が主に使われていたと言われています。
1906年
ルーズベルト大統領が、米海軍駆逐艦でサンファン・アイランド北部のロシュ・ハーバーを訪問しました。同大統領がホテル・デ・ハロ(現在のロシュ・ハーバー)で宿泊した客室(2A)は、現在は Presidental Suite
と呼ばれ、宿泊することができます。
1909年
サンファン・アイランドの港町フライデー・ハーバーが、サンファン郡の一部となりました。当時の人口はわずか500人。
1966年
サンファン・アイランドに、ブタ戦争でイギリスとアメリカが設置していた陣営の跡地を保存したサンファン・アイランド国立歴史公園が完成しました。ビジター・センターでは、当時の様子を描いたビデオを観ることができます。
2013年
オバマ大統領によって、サンファン諸島が国定公園(ナショナル・モニュメント)となりました。また、世界最大の旅行サイト 『TripAdvisor®』 で旅行者のレビューや意見によって決められる米国の島ランキング(Travelers’ Choice 2013)にてハワイのカウアイ島やマウイ島、フロリダ州のキーウェストなどよく名の知られた島々を抑えて1位に選ばれました。