3歳の頃から自分はアーティストになると自覚していたという市川さん。中高は美術の伝統的な女子美術学校に通い、一浪した後、東京造形大学に入学。しかし、在学中アートと自分の関係性に疑問を抱き始め、卒業後はアートの道に進まず、クリエイティブな事業を展開している一般企業に就職。普通の会社員として、4、5年の間は転職を繰り返していた。25歳の頃は、20歳の頃から参加していたスピリチュアルな活動を通して自分を模索する毎日だったという。
中学から美術関係の学校でした。女子美術大学という、古い美術大学の付属でそのまま高校まで。それから一浪して、東京造形大学に入学しました。なぜかわからないんですけど、3歳ぐらいから私はアートをやるって知ってたんですよ。だから小さい頃からまっすぐに来ちゃったんですよね。周りもサポートしてくれていて、大学卒業するまで迷いもなくずっと作品を作り続けてきたんです。でも大学を卒業する前にすごい疑問にぶつかって。なぜアートは人々の間に存在しているのかとか、アーティストとして自分は何ができるのかとか、そういう根本的なところにぶつかってしまったんですね。それで、外にある木や花に日光が当たってキラキラ輝いているのを見て、私が選んだ答えというのが、「自分が物を作るっていうことは自己満足じゃないか」。そして、もう何も作らない、アートはやらないって決めちゃったんですよ。大学卒業後は結構点々としたんですけど舞台美術の仕事をしたり、ステンドグラスのデザイン・製作をしてる会社、一番最後に企業イメージとブランディングの調査とコーディネートする仕事をやりました。25歳と言えば、仕事をしながら次の仕事を探して、かなり悩んでた時期。かなり試行錯誤と葛藤の時期のど真ん中でした。
25歳の市川さんの生活は、いたって普通の会社員だったという。転職については、クリエイティブな会社という軸を持っていたので不安はなく、ただ飽きっぽかった転職したという。当時、自分がシアトルに来てアーティストをやっているとは想像もしていなかった市川さん。25歳の頃の転職はなんでもないけれど、それがなければ今の自分はないという。
会社に勤めていたので、朝起きて、会社に行って働いてお昼食べて働いて飲んで遊んで・・・普通の会社員でした。ほぼ毎日飲みに行ってましたね(笑)。そして、ちゃんと遊んでいました。仕事柄、クリエイターやデザイナーの友達がたくさんいたし、気の合う上司と語ったり、大学がそのまま続いて仕事になった感じで本当に楽しかった。作品はぜんぜん作りませんでしたが、楽しかった。週末はしっかり休んでましたよ。たぶんボーイフレンドと遊んでたんじゃないかな。本当に普通の25歳の女の子の生活してました。実家暮らしで、今よりお金あったんじゃないかな(笑)。だから、結構旅行をしてましたね。特に、テーマのある旅行をやっていました。柳田邦夫の世界を探りにいくとか、大阪の食い倒れ文化を探るとか、オタッキーな世界です。
転職を繰り返したのはなぜか?ただ飽きっぽかったからですね。別に不満があったとかではなく。でも、そう言われると、なぜなんでしょうね(笑)。辞めることには全く抵抗はなかったです。転職といっても美術系の仕事からの職種の変更は考えてなかったというより、それしか私はできないし、一番居心地がいい仕事だったんです。でも全部の仕事は1年半ぐらいしか続かなかった。仕事をしていて、「自分はこのまま終わるのかな」「ここで伸びていけるのかな」という疑問が湧いてきて、なんか違うなと、一年経たないうちにわかってきて。職場の人というよりは自分の中の問題で、方向性が違ったのかな。今から考えれば、本当はアートをやってれば良かったのに、一生懸命迂回しようとしてたのかな。だから何をやっても途中でどっかにぶつかってたんだろうなあ。そんな感じがします。今から考えたら、25歳前後の3、4年は何やってても関係ない。大丈夫。長い目で見れば、ですが。その頃は後悔も反省もたくさんしました。でも、その時期がなかったら、今、私はこういう風になっていないだろうし、因果関係を感じます。
27歳の時に白血病を疑われ、当時働いていた会社を退社。自分と向き合う時間を得たことで、今まで作ることをやめていた自分に罪悪感を抱く。その後、気が赴くままに好きなことを手当たり次第やり始め、出会ったのが、ガラスアートだった。
最後に勤めた会社で受けた一年に一度の人間ドックで、とんでもない結果が出てしまいました。大学病院でも検査を受けて、結果を待っていた1ヶ月が本当に長かった。「もしかしたら私の人生ここで終わりかなあ」とか、「何のために生きてきたのかなあ」とか、どん底に突き落とされました。本当に、頭を叩かれるような思いでした。でも自分でわかっていながら蓋を閉じていた部分があって、「ああ、やっぱり私は何かを作るために生まれてきたんだなあ」と。それをやめてしまっていたことに後悔と罪悪感みたいなものを感じて、私はやっぱり作り始めなければいけないと思いなおしたのです。そこからすごいエネルギーがぐわっと出てきて、「これから何しよう」ってなったんですよ。とりあえず、自分の好きな物からやってみようと、フラワーアレンジメントをやったり乗馬をやったり、今まで気になっていたけどできなかったことを片っ端からやり始めました。そんな時、中野の商店街の本屋さんで立ち読みをしていて、吹きガラスの集中講座の広告を見つけたんですよ。それを見たとき、あっこれだってピンときたんです。アンテナはってるときってすぐそういうのわかるじゃないですか。あの感覚。すぐに電話をして、夏にその講座を受けました。そこで知り合った人が、このシアトルの北にあるピルチャックのガラスアートの学校のパンフレットを持っていたんです。そのパンフレットを見たとき、今まで感じたことない自由さみたいなものを感じて申し込みましたが、最終選考で落ちて順番待ちのリスト入りになりました。
病気を疑われたことは、むしろ "ギフト" だったと感じるという市川さん。しかし、ガラスアートには遅かれ早かれ出会っていたと感じるという。シアトルに来るにあたって英語には苦労したが、机上で学んだというよりは、ガラスアートの工房で実地的に学んだそうだ。
結局、検査結果はなんでもなかったし、私からすれば "ギフト" だったかな。なので、すごく感謝してます。あれがなければ人生が終わってしまってたかもしれなかったし、気づくのがもっと遅くなっていたかもしれない。やっぱり頭でいろいろ考えず、作る人は作らなくちゃいけないんですよ。それをやらないとなにも見えてこない。なんか理由付けして、こうじゃないのかなとか、自分は何ができて何ができないのかとか考えてたら、3年位すぐ過ぎちゃうでしょ。やっぱり作ることができるのはすごいギフトだと思うし、本当にありがたいことで、その中でやっていかないといけないんだなと。
そして、シアトルに来て、新しい生活にがむしゃらでした。言葉も通じなかったし、大変なことだらけ。美術系でずっと絵を描いていたから、英語も勉強してこなかったほうなんですよ。シアトルに来て自分の英語のできなさに圧倒されて、ワシントン大学の ESL に入学しました。英語ができなければ、自分のやりたいアートはできないと思ったんです。毎日すごく勉強して、その合間にギャラリーに行ったりしていた時に、「自分のスタジオで働きながら勉強しなさい」と言ってくれる世界的に有名なアーティストのデール・チフーリ氏に出会いました。だから英語は机上で学んだというよりは、実地的に覚えていきましたね。社内メモしても、赤が入って返ってくるんですよ(笑)。それから彼のスタジオで6年間働いて、永住権を取って、アーティストとして独立。次々にサポートしてくれる人が現れて、なんとなくコミュニティができてきたりして方向性が見えてきて、ここにいてがんばるのかなと。もし、本屋さんでガラスアートの広告を見つけていなかったとしても、たぶんどこかで出会っていたんじゃないかなと思います。雑誌を開いた瞬間から全てとんとん拍子で進んで、あっという間に20年がたってしまったいう感じですね。
迷っていた時は自分との時間を大切にしていた市川さん。そんな市川さんから若者たちにメッセージは「制限することの恐ろしさを知って、自由さを失ってほしくない。自分の中の声に正直に」。
やっぱり自由さを失って欲しくないというか、制限してしまうことの恐ろしさをわかって欲しいなと思います。投げやりということではなく、何でもやってみたらいいと思うんです。失敗してもいいし。それから、それをシェアできる仲間、ネットワークを自分で作っていく。自分が発信源になっていく。リーダーになっていく。他の人がやっていることにただついていくのではなく、自分の中の声に正直になって欲しい。やりたいことが見つかったら、それに突っ走ってみると、それに共感してくれる人がきっと見つかると思うんですね。今は SNS も発達しているし、そういう人たちとつながれる。そのつながりを大切にして欲しいですね。