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iLEAP x JUNGLECITY.COM 「私が25歳だったころ」<br>郷 央州 さん(Port of Seattle 国際ビジネス・プロトコル・リエゾン担当ディレクター)

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郷 央州(Go Oshu)/台湾人の両親のもと、東京に生まれる。日本の学校に通いながら英会話教室で英語を学び、高校1年時の研修制度でアメリカへ。当時のホストファミリーに「アメリカに住んでみない?」と言われたことがきっかけで、一度帰国後、改めてアメリカの高校に編入。ワシントン大学に進学し、教養学部でコミュニケーションなどを学ぶ。卒業後は広告やメディア業界を志望しインターンシップを経験するも、仕事の不規則さから自分に合わないと思っていたところ、縁あってアメリカの船会社Sealand Serviceに入社。初めの2年は経理を担当したが、もっと人との繋がりのある仕事がしたいと営業部門に移動。4年後の1985年、Port of Seattle に転職し、東京事務所で勤務。リーマンショックの影響などによる東京事務所の閉鎖に伴い、2010年よりシアトルで勤務。

アメリカの船会社に入社し、生まれ育った横浜で経理の仕事を淡々とこなしていた25歳の郷さん。もっと人との繋がりのある仕事がしたいと思っていたところ、縁あって念願の営業部に異動することに。

25歳と言えば、ちょうど船会社の経理から営業へと異動した転換期です。たまたま自分が卒業したワシントン大学の日本交友会が丸の内で開催されたのですが、そこで話すうちに「君、ワシントン大学を卒業してうちの会社にいるんだ。将来はどうしたいの?」と。自分の気質から言って経理の仕事は向いていない、もっと人と会話のできる仕事がしたいと思っていたので、「将来的には営業がしたい」と答えました。それから6ヵ月後、営業のポストが1つ空いているというお話をいただき、営業部に異動できました。

そこからはもう仕事にがむしゃらでした。でも、そんな仕事にがむしゃらな日々の中、「将来は絶対アメリカに戻るんだ」と考えてました。やっぱり、日本に戻ってから縦社会の生活に戻るのはきつかったですね。また、朝から晩まで一日中働き続ける人生に、自分なりに矛盾を感じていました。そういう意味では、アメリカにいると、ある意味で自由というものがあります。

そんな感じで、次になにか目標を立てていかないといけないかなという時に、ちょうど Port of Seattle(シアトル港湾局)のお話をいただき、転職。この仕事に就いてもう30年になります。

25歳で営業となり、人との繋がりを大切にして仕事をしてきたことが、現在のシアトル港湾局での仕事に繋がっている。

営業をやりたかったのは、人と会話ができるから。また、何か物を売るという結果が出るものなので、明確な目標が立てられるからです。

営業をやっているといろいろな人に出会います。いろいろな会社のいろいろな立場の方々とお話しさせていただいて思ったのは、お金が関わるところというのは非常にシビアですよね。人生、ゲームじゃないけども、ビジネスってのはそういった要素もあると思うので。

当時は景気も良かったので、どのコンテナも満杯状態。そうなると安い商品は捨てていけとなるわけです。でも、安い商品を扱っているお客さんも大事にしないと後になって困ることがある。人との駆け引きじゃないけども、そのあたりのバランスをとることが大事だと思います。知識ももちろん大事だけれども、人と人とのバランスをどういう風にして保つかということを考えていました。

また、相手が何を考えているのか、こういう風に言われた場合にはこういう風に持っていこうと、常にいろんな手を考えておかないといけない。それがシアトル港湾局に来た時、初めて会う人と話すときに何を話さなきゃいけないのか、何を考えていなくちゃいけないのかと考えることに繋がっていました。

人間関係をどうやって保っていくかということが、営業を通して自分でも勉強になったし、それは今の仕事にも繋がっています。人生の中の転換期っていろいろとあって、いわゆるメンターなる人がいて、いろいろな人と知りあいますよね。ネットワークがいかに大事かということです。

自分があるポジションにおいて、どういうアクションを起こすか。自分だけの努力じゃできないこともあるし、誰かが引っ張ってくれる力も大切だと思います。その力と自分が培ったものがきちんと合うと、いい方向に自分の人生がひっぱられるんじゃないかなと、いつも思っています。

人との繋がりを大切にするようになったのは、生まれながらに感じていた「マイノリティ」という気持ちから。中学時の野球部でキャッチャーを務めたことや、要所で行ってきた読書もチームワークや平衡感覚を学ぶいい機会に。

ネットワークを大事にするようになった理由の一つは、自分がマイノリティだということですね。直接言われたわけじゃないけど、小さいときから「あなたは日本人じゃないのよ」っていうことを感じていて。

人と自分の生活様式、いとこたちを見ながらも、やっぱりぜんぜん違うなと感じるものがありました。そこで、「じゃあ自分というのは、外にどう対応していかなくちゃいけないのかな」と考えるようになりました。

もうひとつは、中学校の部活の野球。もちろん自分だけのスポーツではないから、バランスをとらなくちゃいけない。その時のポジションはキャッチャーでした。キャッチャーってやっぱりきちんとした指示をみんなに送らなくちゃいけないんです。ありがたいことに先生が、「お前、キャッチャーてのはどういうことやんなくちゃいけないかわかってるか?」と聞いてくれたんですね。「ピッチャーじゃなくて、女房役ってのは一番のチームワークの要なんだよ。そこらへんのバランスをお前がとっていかなかったら、チームってのはどうにもなんないよ」と話をされたのを覚えています。怖い先生でしたけど(笑)。

あと、デール・カーネギーの本なんか読むと、自分のリマインダになることはあります。自分の心を常にリフレッシュしなくちゃいけないなと。そんなに読書はしないけど、どちらかというとノウハウものが好きで、歴史ものは苦手です。迷った時に読むじゃないけど、なにかあったときには読んで、自分としての平衡感覚を備えていくようにしています。亀の甲より年の功じゃないですけど、先輩達の書いたものや言うことを自分の知恵として肥やしにしていくというのがやっぱり大事っていう考えはありますよね。

人間にとって夢を持つことがとても大切。当時から計画的に明確な目標を立て、常に自分の将来やキャリアについて考えていた。週末にジムで体を動かす際も、極めて計画的なスケジュールを用意。

自分できちんと目標を持たないといけない、といつも思っています。私は常に、あれがやりたい、これがやりたいと、わりと明確に目標を持っています。
例えば、25歳の時なら、「アメリカに戻りたい」「営業をやりたい」ということですね。

当時、週末はほとんど体を動かしてました。ちょうどジムが日本でオープンしたころで、結構高めなジムに友達みんなで入りました。でも一人でやってたことが多かったですね。じゃないと自分の目標が達せられない。友達と行くとやっぱりなあなあになってしまいます。今日は最低500は泳いで、それからエアロビクスやって、トレーニングマシンをやって、サウナに入って一日を終わろうとかいうふうに、時間を決めてやってました。

今でも将来的に何がしたいかはいつも考えてます。人間にとって夢が大切だと思うので。いつもいつも計画を持って、将来的に何をするかというゴールにフォーカスしていかないと。私は人生で道草食うほうなんで(笑)。

25歳という時期は、自分の将来的な目標、自分のやりたいこと、自分のいろんな可能性を見出すちょうど第一歩。"If there is a will, there is a way."(意思があれば道は開ける)

25歳というとたぶん、いろんな社会のことがわかってきて、いろいろと頭の中に渦巻くものが多くなってくるときじゃないかと思うんですね。そして、じゃあ自分の将来的な目標をどういう風なとこに持っていくか考えて、それにおいて自分のやりたいこと、いろんな自分の可能性を見出すちょうど第一歩くらいのときなんじゃないかなと思います。

だから目標を持つということ、夢を持つということを常に忘れちゃいけないと思います。漠然としたものよりは、やっぱり明確ななものを持ってたほうがいい。でも、漠然としたものでも、それがまた時を経て熟すときもあるでしょうし、それがまたひとつの明確な目標になるかもしれない。

If there is a will, there is a way.
意思があれば道は開ける。

いつもそう思っています。

掲載:2014年3月

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