自分の店を持つという夢を実現するため、着々と準備を進めていた25歳の北村さん。その前にいろいろな店を体験しておこうと、慣れ親しんだ店から別の店に移り、自分流の接客スタイルを確立し始めた。
25歳というと、すでに日本食レストランで働いていて、労働許可が取れた年なんですね。この許可が出るまでは、ベルタウンにある 『Shiro’s (しろう寿司)』 で働いていたんですけども、将来日本食レストランを自分で経営するということで、他のお店で働くのも経験しておいたほうがいいと思い、『I Love Sushi Lake Union』 に移りました。非常に忙しいお店で、今は自分のお店を持っていらっしゃるようなオールスター・シェフの方たちと毎日横にずらっと並んで仕事してたんですね。みなさんスタイルが違ったので非常に勉強になりました。サービスやお客さんとのコミュニケーションの仕方に関するガイドラインは全くなくて、よく言えば自由だったので、その時に僕のスタイルも確立されたというところもありますよね。
当時は仕事にも遊びにも全力投球。朝は9時半から仕込みを始め、ランチ営業・ディナー営業をこなし、23時に仕事を終えると、最終フェリーでオリンピック半島に渡り、釣りをして帰ってくるという日もあった。
遊びの方の趣味は釣りなんで、仕事が22、23時に終わってから車を飛ばして、最終フェリーに乗ってオリンピック半島まで行ってましたね。そこからまた3時間くらい運転して朝の4時くらいまで2時間くらい寝た後、川を下りながら一日中釣りをして、その後直行で帰ってきてその日の晩仕事をする。今なら居眠り運転してしまうかもしれません(笑)。やっぱり25歳というのは体力もあるんで、そういうこともやって、仕事も一生懸命して、遊びの方も一生懸命やってましたね。
1日の流れは、9時半に出勤して仕込みをして、11時開店でランチとディナーをこなして22時閉店、23時帰宅。当時ベルタウンの小さいコンドミアムに住んでたんですけど、プールがついてました。昔は水泳選手だったので、寝る前に毎日軽く泳いで寝てましたね。休みの日は釣りに行かなかったら、家事ですよね。洗濯とか(笑)。
今考えたら、ほんとに僕、仕事ばっかりしてたんですよね。当時ね、すっごくもてなかったんです(笑)。でもやっぱり、一日中いろんな人と仕事してお客さんを接待していると、休みの日の一人の時間はすごくうれしい。一人で、1時間でも2時間でもコーヒー1杯を飲む時間とかが必要になってきますよね。あと、そのころから当然、自分で店をやると考えてました。将来ビジネス・パートナーとなる方と、永住権が出たらすぐ店を出して動けるように計画を立てていました。
1990年代後半のシアトルにも日本食レストランは多くあったが、寿司や天ぷら、すき焼きという伝統的なメニューが中心。一方、自分がやりたいのは、旬を大事にし、地産地消を楽しむ日本食。それをアメリカで広めなくてはという気持ちが強かった。
当時から日本食レストランはたくさんありました。ただ、基本的に日系人が多いということで、そういう層に日本食を提供しているという要素が大きかったですよね。今の日本食レストランというのは、アメリカ人に日本食を提供するということが主流です。インターナショナル・ディストリクトには今の倍以上の日本食レストランがあったわけですけど、伝統的なメニューがあるお店ばかり。そういうのから抜け出したいということで、『Chiso(馳走)』 を開店したというところもあるんですけど、当然クラシックなものもしっかり出していました。ただ、スタッフもアメリカ人にして、お客さんとコミュニケーションをもっと上手にやっていくというのが目標でした。
自分は食べ物が好きですし、もっとアメリカ人に、時代に合った日本食を広めたいなという気持ちがありました。シアトルの食材はいいものがありますし。でも当時はローカルとかシーズナブルとかいう観念が、日本食レストランだけじゃなくてアメリカのレストランでも、そこまで浸透してなかったですね。僕はシアトルのローカル性みたいなこと、例えばどうしてシアトルの人はこうなのか、天気のせいなのかなんなのかということに興味がありました。日本にいると季節のものをご当地で食べるというのは日本人の楽しみですからね。そういうのをアメリカ人とも分かち合っていけたらと思っていましたし、今でも目標です。日本食のすばらしいところは、その地でその場所の材料を使って日本の食べ物を作りだすことで、日本から全部輸入してとか、冷凍を輸入してを使って作るというものではないと思いますから。アフリカに行ってアフリカの食材で日本食どうやって作るかとか、そういうことを考えるのが僕はすごく好きなんです。
シアトルで手に入って、日本食に使えるようなものは、やっぱり使っていきたいですよね。特に魚は自分が釣りをするから、こういう魚がいるって知ってることもあってこだわってますよね。サステナブルなのかサステナブルではないのか自分で考えて、サステナブルなら店で出そうと決めるんです。そういう食材はやっぱりうまい。あと、マイナーな季節のもの、マイナーな旬のものもお客さんに出したい。春だったらタケノコだけじゃないし、珍しくてうまいもん食べたお客さんも喜びますよね。ニューヨークからシアトルに来て、シアトルのここでしかとれない魚のいちばんおいしいとこを、寿司で喰ったっていったら結構インパクト強いですよね。そういう喜びを皆さんに感じていただきたいですよね。
常に考えているのは、コミュニケーションの大切さ。それもうわべだけでなく、人間同士の付き合いや信頼関係というもの。自分が住んでいる地域や国の社会や文化を知ってこそ、お客さんとしっかりした関係を築くことができる。失敗も経験のうち。
やっぱり人間レベルの付き合いが大事になりますよね。今までなかったところに喜びを発見するということは、すごく大きな喜びなんですよね。日本人が普通に持ってて当たり前やと思ってることを、コミュニケーションを通して世界の人に伝えたいんです。向こうも「こいつは俺を喜ばそうとしてるくれてるんやな」ってわかってくれますよね。シェフの気持ちが伝わったときっていうのが、ものすごく大きな喜びなんです。それをオープンキッチンで寿司バーでやってると、ひしひし感じられる時というのは、やっぱりこの仕事をやっててよかったなって思います。
小さいことなんですけど、まず信頼してもらうこと。信頼関係ってのはすごい大切ですよね。美容師さんとか歯医者さんとか、やっぱり知ってるとこのほうがいいっていうのとよく似たもんだと思います。このコミニュケーションを大事にするってスタイルは、だいたい25歳の頃に確立されました。常にそうしないといけない、と考えていましたよね。
僕ね、25歳でも、結構冷静に分析していました。あと、アメリカ社会とかアメリカ人に対する理解度がちょっとあったんですよね。自分の住んでるところでどういうことが起こってて、自分が住んでる社会はどういう風に動いてるとかが気になるんです。せっかくアメリカに来たのに、言葉の壁があるからといって、ギブアップしてしまうのはちょっと残念だなと思いますよね。関西の人はよくわかると思いますけど、なんか面白い事言って受けたら楽しいでしょ。それをアメリカ人のセンスのユーモアで言えるようになったときには、これはもうむっちゃ楽しいですよね(笑)。
当然すべてのことは肥やしとなってますよね。失敗したなと思うことはあんましないですね。強いて言うなら、仕事ばっかりで、アメリカらしいカレッジライフを送れなかったことですかね(笑)。でも後悔することはあんましよくないんでね。これからいかに、どうやってそれを経験にしていくかっていうことだと思いますね。
開店する場所はシアトルしか考えていなかったという北村さん。大都会ではない、適度なサイズの都市と自然が調和しているこの土地が自分にあっていると分析する。
高校のときにシアトルに来た理由っていうのも、自然がきれいというのがありました。京都で育ってると、きれいはきれいですけど、海があったり、雪山が見えたりとかそういうことはないわけじゃないですか。ここにおったらそれは全部ありますし。かといって結構なサイズの町なんで、アーバンライフとかそういったものも両立できるような立地条件ではありましたよね。大都会に対する憧れみたいなものはあんまりなかったです。うちにきたお客さんに喜んでもらってたらそれでええかなって。わかってくれる人が、僕のお客さんとして来てくれる人が、喜んでくれたらそれでええわって。それで自然に認められたらええなって思うし。
25歳のときは、天下とったろうって思ってましたけど(笑)。具体的にどうやって取ったらええかはわからないんですけどね。日本に戻る気は当時からなかったです。アメリカで自分の居場所がわかってたし、こっちの社会を理解してしまってたから。今後も、日本に店を出すとかいうよりは、アメリカに来たい人に、(こちらでの)コミュニケーションのとり方とか、そういうことを教えたいと思いますね。
25歳という時期は、いろいろなことを吸収しながら、勉強し、努力する時期と、振り返る。これから転機を迎える人へのアドバイスは、「いろいろな経験をし、いろいろな人と出会うこと。そして、人間関係を大事にしていくこと」。
最終的に店を出したのは27歳の時ですけど、25歳の時にやったことをやってなかったら実現してないわけですから。やっぱり具体的な目標があって、それのために着々と準備を進めていくということで、25歳というのは大事な年でしたよね。焦って具体的な目標を見つけようとするのはオススメできないですね。
いろんな物事を見て、いろんな人と会って、いろんなこと勉強して、ああ自分はこれなんじゃないかなと。ある時点でもうだいたい見たから俺はこれやと。これやったら社会に貢献できるし、生活していけるしってことがみなさんあるといいんですけどね。でも、焦っちゃいけないと言いたいんですけど25歳の段階やったらやっぱりちょっと焦ったほうがいいですよね(笑)。その段階でおそらくこれやろうということは、もう追い求めるべきですよね。別に後からでもやり直しできるんですよ。物事10年やったらだいたい、「あ、こんな感じなんや」ってわかりますから。そのまま一生いけるのか、それで一生やっていけへんのやったら他のことやったらいいんですから。その辺はアメリカはいいところがあると思いますよね。やっぱりいろんな経験をすることっていうのは非常に大事ですよね。