シアトル・シンフォニーに2007年9月に入団したヴィオラ奏者の小久保さやかさんが今年、終身楽団員に昇格した。父親はフルート奏者で指揮者、母親はピアニストという音楽一家に生まれ育ち、4歳からピアノ、5歳からバイオリンを学び始めたが、高校入学時にヴィオラに転向。東京芸術大学を卒業し、米国各地の大学や音楽院で学びながら経験を積んで現職に就いたが、それまでの道のりを「たくさんの人とのご縁と助けがあってこそ」と振り返る。
厳しかった父親に逆らえず、気がついたら嫌々ながらバイオリン教室に毎週通うようになっていた。小学2年生に教室を変わってから中学3年生まではまったく練習をしなかったため、東京音楽大学付属高校ではヴィオラに転向することを余儀なくされる。「日本では、”バイオリンが下手な人がヴィオラを弾く” と考えられがちなので、受験の時に思うように弾けなかった私は “ヴィオラ専攻なら” と入学を許可されました。入学後は周囲から見下され、とても嫌な思いをしたことも。でもそれで初めて “見返してやろう” と、ちゃんと練習するようになりましたよ(笑)。」 そんなヴィオラに対するコンプレックスを完全に拭い去ってくれたのは、講習会で出会ったオーストリア人のヴィオラ奏者が出す音だった。「こんなふうにきれいな音を出せるんだ」という感動が将来に対する迷いも打ち消してくれ、師事していた国際的に著名な音楽家・澤和樹教授が講師を務めるメイン州の音楽祭に参加した時に転機が訪れる。この音楽祭で師事したヴィオラのロジャー・メイヤーズ教授に、南カリフォルニア大学で教えるドナルド・マキネス教授のレッスンを受けることを勧められたのだ。大学に入ってからは両親からの資金援助は一切なく、ヨーロッパで開催される国際コンクールなどにもアルバイトで貯めたお金で参加するという苦しい状況だったが、「君の演奏の録音をマキネス教授に送っておく。君なら奨学金で行けるだろうから、教授の前で弾いてみなさい」と言われ、すぐにロサンゼルスに飛んだ。その言葉の通り、マキネス教授の眼鏡にかなった小久保さんは、大学4年になった翌年、奨学金の全額給付を受け、サンタバーバラのミュージック・アカデミー・オブ・ウェストという有名な講習会で8週間にわたり教えを受けるチャンスをつかむ。「コネクションのなかった私にとっては本当に幸運なこと。」 翌年には東京芸術大学を卒業し、南カリフォルニア大学に入学するため、再びアメリカの土を踏んだ。
南カリフォルニア大学での3年間は音楽家としての方向性を模索する貴重な時間となり、4年目の2003年には開校したばかりのコルバーン音楽院に1期生として入学。1年後にはメイン州の音楽祭でカルテットを組んだグループと演奏活動をするべくシラキュース大学に編入するが、翌年にはジュリアード音楽院でもバイオリンを教える川崎雅夫教授に師事するためシンシナティ大学大学院に入りなおした。「CD を送ってみたところ、先生が直々にお電話をくださり、”ここに来て勉強しなさい” と。幸運なことに、ここでも奨学金の全額給付を受けることができました。すべてそのような感じで、人から人へとご縁でここまで来ました。」 オーケストラの楽団員になることを考えるようになったのも、このシンシナティだった。シンシナティ・シンフォニー・オーケストラの楽団員宅に2年間にわたりホームステイをしたことで、オーケストラでの弾き方など実にさまざまなことを学ぶチャンスを得たからだ。「そして、彼らのリラックスした生活を目の当たりにして、”これはもうオーケストラしかないでしょう” と(笑)。後でそんなリラックスした生活なんて、とんでもない勘違いだと気づくのですが、とりあえずそれから手探りでオーディションを受け始めました。」
2007年4月、シアトル・シンフォニーがヴィオラ奏者のオーディション実施を発表したことを受けて、小久保さんは初めてシアトルを訪れた。偶然行なわれていたシアトル・シンフォニーと日本人ヴァイオリニストの諏訪内晶子さんの共演をオーディションの会場となるベナロヤ・ホールで聴きながら、自分が演奏する姿を思い浮かべて音響を探ったという。「オーディションでは、与えられた数分間のために良い演奏をしようと必死。第3次試験ではそれぞれ35分も与えられ、その間に難解な曲を初見でいくつも弾きましたが、”ページをめくってもめくってもまだある!” みたいな曲ばかり(笑)。あまりにも難しくて、笑ってしまったほどです。」 第3次試験が終わった時には100人以上の応募者はわずか9人まで絞られ、最後に選ばれたのは小久保さんだった。
小久保さんが愛用するヴィオラは、ひょうたんの下部をさらに横に膨らませたような、不思議な形をしている。フィラデルフィア在住の楽器職人、飯塚洋さんが手がけたもので、これもシラキュース大学時代の友人のおかげで手に入れることができたという。2年間にわたり借用した後、シアトル・シンフォニー入団をきっかけに買い取り、利子も支払おうとした小久保さんに、飯塚さんは「利子の分は自分からの奨学金」と言ったという。「そんな方々の助けを借りずにはここまで来れなかったと、つくづく思います。」 1945年に群馬県前橋市に生まれた飯塚さんはガイゲンバウ・マイスターの称号を持つ無量塔蔵六(むらた・そうろく)とドイツのヨセフ・カントゥーシャに師事し、ドイツの German Chamber of Handwork から職人の学位を取得。1977年にフィラデルフィアに工房を構えてからこの世に送り出した300を超える伝統的な弦楽器とオリジナル楽器は、世界各地で演奏に使われている。
それから2年たった今年。シアトル・シンフォニーの試用期間を終え審査に合格した小久保さんは、終身楽団員に昇格した。試用期間中は、演奏方法や同僚などとの関係作り、時間管理などさまざまな条件でチェックを受けていたため、ひとまず安心といったところだと笑顔を見せる。「シンフォニーに入団した当初は、本当にいっぱいいっぱい。特にシーズンの始まりはプログラムが多く大変です。今は自分の技術レベルを維持し高めるための練習、シンフォニーとの練習、プライベートでやっている五重奏の練習と、弾いているだけで1日が終わってしまいます。」
昨年で創立105周年を迎えたシアトル・シンフォニー。2005年から第一ヴァイオリンの蒲生彩子さん、主席トロンボニストの山本浩一郎さんという日本人音楽家が活躍するなど、日本人とも縁が深い。シアトルをとても気に入っているという小久保さんは、「芸術は理想を追うもので、それを仕事にすることには葛藤があります。でも、もっと学んで、それを自分にいかして行きたいと思っています」と最後に語ってくれた。6月にはベインブリッジ・アイランドのギャラリーで小久保さんも参加する五重奏が演奏を予定している。たくさんの人の助けを受けながらも、自分の力を証明して奨学金を獲得し道を切り開いてきたことが、さらなる活躍につながるに違いない。
小久保さやか 略歴
埼玉県生まれ。5歳でバイオリンを始め、東京音楽大学付属高校でヴィオラに転向。東京芸術大学で兎束俊之教授に師事し、南カリフォルニア大学ではドナルド・マキネス大学教授に師事。コルバーン音楽院、シラキュース大学を経て、シンシナティ大学大学院で川崎雅夫教授に師事する。アメリカのウィリアム・プリムローズ国際ヴィオラ・コンクールで入賞。2007年9月にシアトル・シンフォニーに入団し、2009年春に終身楽団員に昇格。プライベートでは五重奏楽団に参加している。
掲載:2009年5月26日