シアトルは、豊かな自然と多様な文化を持つ、米国太平洋岸北西部を代表する都市です。その歴史は、ネイティブ・アメリカンの居住に始まり、入植者たちの到来、産業の発展、日系人コミュニティの形成と苦難、そしてグローバル都市としての成長と続いています。
シアトルの先住民の歴史:ネイティブ・アメリカンの足跡をたどる
現在のシアトル周辺地域(ピュージェット湾地域)には、少なくとも1万2000年前からネイティブ・アメリカンの祖先が暮らし、漁、狩猟、交易、工芸などを中心とした豊かな文化を築いてきました。アメリカ北西部の歴史に詳しい情報サイト Historylink.org によると、彼らの祖先は氷河期の終わりにシベリアからベーリング陸橋を渡って北米大陸に移動し、氷河の後退にともなってシアトル地域に定住したと考えられています。

「Seattle(シアトル)」という都市名も、この地域のリーダーだったデュワミッシュ族とスコーミッシュ族の酋長 “siʔaɬ(シアール)” の名前にちなんでいます。白人の入植者たちは、彼の発音に近い英語表記として「Seattle」と記録しました。シアトル酋長(Chief Seattle)は、平和と共存を訴えた人物としても知られ、現在はパイオニア・スクエアやベルタウンなどに銅像が建てられています。
このように、シアトル周辺には今も、ネイティブの言語に由来する地名(川、山、町など)が数多く残っており、かつて多くの部族がこの地に暮らしていたことがうかがえます。
現在、ワシントン州には連邦政府に認定された29の部族(Federally Recognized Tribes)が存在し、それぞれが独自の主権、文化、伝統を保持しています。
18世紀後半〜19世紀前半:西洋列強の到来と先住民社会への影響

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アメリカ独立戦争(1775年〜1783年)終結後、アメリカは西部開拓を進めていましたが、太平洋岸北西部(現在のシアトル周辺)には依然として多くのネイティブ・アメリカンが暮らしていました。
1792年、イギリス海軍のジョージ・バンクーバー提督がこの地域の海域を探査し、見える山や湾、川などに「マウント・レーニア(Mount Rainier)」「マウント・セント・へレンズ(Mount St. Helens)」「ピュージェット・サウンド(Puget Sound)」など、イギリスの同僚や友人の名前を付けました。これらの名称は現在も使われていますが、近年では「先住民の伝統的名称に戻すべき」という動きが高まっています。
たとえば、マウント・レーニアはネイティブ・アメリカンに「タホマ(Tahoma)」と呼ばれており、この名を取り戻そうという機運が地域コミュニティを中心に広がっています。
その後、アメリカと大英帝国は、現在はカナダとなっている広大な土地などをめぐり、1812年戦争(War of 1812)をしました。その後、1818年に「共同占有条約(Treaty of Joint Occupation)」を締結し、現在のワシントン州を含むオレゴン地方の共同統治に合意しました。その後、政府は先住民排除政策を本格化させます。
- 1819年:インディアン文明化基金法(Indian Civilization Act Fund)
- 1830年:インディアン除去法(Indian Removal Act of 1830)
- 1869年:寄宿学校政策(Boarding School Policy)
これらの政策により、先住民の子どもたちは親元から引き離され、英語教育を強制され、言語や文化、精神性を奪われる経験をしました。なかでも「全寮制寄宿学校」は深刻な被害をもたらし、その影響はトラウマとして今日まで続いています。
現在、その歴史を記録し、癒しと正義を目指す取り組みとして、National Native American Boarding School Healing Coalition(全米ネイティブ寄宿学校癒し連合)が設立され、証言や資料の収集、教育活動を行っています。
1850年代〜1860年代:シアトルの開拓と都市としての始まり

1851年11月13日、イリノイ州出身のアーサー・デニー一家と4家族が、現在のウエスト・シアトルに上陸。この地を「New York」と名づけ、さらにチヌーク族の言葉で「そのうちに」「いつか」を意味する “Alki” を加えて、「New York-Alki」と呼びました。
しかし、海風が強く生活に不向きだったため、翌1852年にはエリオット湾東岸(現在のパイオニア・スクエア付近)へと移住し、本格的な街づくりが始まりました。パイオニア・スクエアには現在も1900年代初頭の建物が数多く残っています。
1853年には、ピュージェット湾地域初の製材所がシアトルで創業し、豊富な森林資源を背景に、製材業が都市の主要産業となりました。
現在のシアトル地域では、19世紀半ばに白人入植者が急増したことで、先住民とのあいだに衝突が頻発。その後、1855年にシアトル酋長を含む82人の部族指導者がアメリカ政府とポイント・エリオット条約(Point Elliott Treaty)を締結し、ワシントン州西部の先住民の土地の多くがアメリカ政府の所有地となりました。条約に反発する動きもあり、1856年には「シアトルの戦い(The Battle of Seattle)」に発展。戦闘自体は1日で終わったものの、白人入植の流れに影響を与えた重要な事件とされています。
政府は居留地(Reservation)への移住権、伝統的な漁猟地へのアクセス権の一部を認めましたが、その後も土地や権利をめぐる対立は続きました。1862年には白人が持ち込んだ天然痘が流行し、1万4000人以上の先住民が命を落とすという悲劇が起き、部族社会は大きな打撃を受けました。

1863年に亡くなったシアトル酋長は、ワシントン州スクワミッシュに埋葬されています。
1861年当時のシアトルの人口はわずか250人(1860年国勢調査によるキング郡の人口:302人)でしたが、Washington Territorial University(現ワシントン大学:University of Washington)が創設されました。ワシントン大学の初代校舎は現在のダウンタウンのフェアモント・オリンピック・ホテルの敷地にあたります。
1869年には人口約2,000人に達し、シアトルは正式に「市」となりました。市制施行当時の主要産業は製材業で、これが後の経済的発展の基礎を築きました。
1870年〜1890年代:シアトルの成長を支えた鉄道とゴールドラッシュ

(King Street Station)
1870年代から1890年代にかけて、シアトルはアメリカ西海岸の重要都市として急成長を遂げました。1875年にはサンフランシスコとの蒸気船航路が開設され、太平洋沿岸の物流拠点としての役割を強めました。1880年にはシアトルの人口が3,533人となり、1883年にはノーザン・パシフィック鉄道がシアトルに駅を設けたことで、鉄道と港を結ぶ交易都市として注目され始めます。この時期、製材業・石炭業に加え、漁業・造船業・卸売業などが発展し、産業の多様化が進みました。
1889年、シアトル大火(The Great Seattle Fire)により25ブロックが焼失しましたが、レンガ造りの防火建築を中心に迅速に復興が進められました。同年11月11日にはワシントン州が米国の42番目の州として認定され、シアトルは州内最大の都市としての地位を確立します。
1891年には人口が50,000人を突破し、1893年にはグレート・ノーザン鉄道が中西部との接続路線を開業しました。さらに1896年(明治29年)8月には、日本郵船(NYKライン)が横浜とシアトルを結ぶ定期航路を開設。これは、完成したばかりのグレート・ノーザン鉄道と提携した輸送ルートであり、アジアからの物資をシアトル港経由で米国内の各都市へ運ぶ流通網が確立されました。

2022年撮影
1893年にはワシントン大学が現在のキャンパスとなる土地を正式に購入し、1895年9月4日、最初に完成したデニー・ホールで最初の講義が行われました。そして、1898年には現在のファースト・ヒルに、シアトル・カレッジが開校しました。現在のシアトル大学です。
1897年にカナダのユーコン準州およびアラスカでクロンダイク・リバー近くで金が発見されると、クロンダイク・ゴールドラッシュが始まります。探鉱者や物資の集積拠点として全米から人と資源が集まり、都市の経済と人口が爆発的に増加しました。この時期の発展によって、シアトルはアジアとアメリカを結ぶ国際貿易都市としての基盤を確立し、現在のグローバル都市への道を歩み始めたとされています。
シアトルと日本人の歴史:漂流から移民、そして航路の開設へ
日本人が初めて現在のワシントン州に到達した記録は、1834年にさかのぼります。遠州灘で遭難した音吉・岩吉・久吉の3人の船乗りが太平洋を漂流し、最終的にワシントン州西岸のアラバ岬(Cape Alava)に漂着したとされています(参考:美浜町公式サイト)。これが、日本人と米国北西部との最初の接点でした。
日本人の本格的な移住が始まったのは1880年代。当時のアメリカでは、1882年に施行された中国人排斥法(Chinese Exclusion Act)により、中国系移民の労働力が不足し、新たな労働力として日本やハワイからの移民が必要とされました。当時は鉄道建設ラッシュが進んでいました。1890年代までに、日本人移民はオレゴン州の鉄道労働者の約40%を占める用になっていたとされており(参考:ワシントン州立大学)、米国北西部における日本人の存在感が急速に高まっていたことがわかります。
当時は船が海外に出る唯一の手段だったため、1896年(明治29年)8月に日本郵船(NYKライン)が横浜とシアトルを結ぶ定期航路を開設すると、シアトルはアジアとアメリカを結ぶ貿易の中継地として重要な役割を果たすようになり、日本人移民の数もさらに増加。やがて、日本人による商店や宿、寺院、新聞社などが次々と立ち上がり、地域社会の形成が進んでいきました。

20世紀初頭のシアトル:近代都市への飛躍と多様性の形成

20世紀初頭、シアトルの人口は急増し、1900年には8万人を超えました。移民の流入も増加し、ヨーロッパ諸国、スカンジナビア諸国、アジア、アフリカ、ユダヤ系移民がコミュニティを築き、都市はますます多文化的な様相を帯びていきます。
1901年には、後に高級デパートとなるノードストロム(Nordstrom)が靴店「Wallin & Nordstrom」として創業。創業者のジョン・W・ノードストロムはスウェーデンからの移民で、クロンダイク・ゴールドラッシュで財を築いた人物でした。これは、シアトルの移民成功物語の象徴でもあります。

1903年にはシアトル・シンフォニーの最初の公演が行われ、1907年には、パイク・プレース・マーケットがオープンし、現在も続く全米で最も古い公設市場のひとつとして、観光・地域経済の中心となっています。同年、バラードやウエスト・シアトルなど複数の地区が市に併合され、シアトルの地理的な広がりも拡大しました。
1909年、ワシントン大学キャンパスで開催されたアラスカ・ユーコン・太平洋博覧会(AYPE)は、シアトルの国際的な存在感を高める一大イベントでした。オルムステッド兄弟による公園設計や、日本の日(Japan Day)の開催、そして渋沢栄一が団長を務めた日本実業団の来訪など、日米関係の象徴的な出来事が多く見られました。この博覧会に関連する建物や景観の一部は現在もキャンパスに残されています。当時の写真や配布物などの資料は、ワシントン大学の公式サイトで見ることができます。
1910年には人口が23万人を超え、ローレルハースト、ジョージタウンがシアトル市に編入されました。同年、ワシントン州の女性に参政権が付与され、市民権拡大の流れが始まります。

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1911年、シアトル港(Port of Seattle)が正式に設立され、以後の国際貿易の拠点として機能。スミス・タワー(1914年完成、42階建て)は、西部で最も高い建築物として、シアトルが持つ大都市への志向と野心の象徴となりました。
このように、第一次世界大戦が始まる1914年までのシアトルは、鉄道・貿易・移民・教育・都市インフラの各面で飛躍的な発展を遂げた時代であり、現代の多文化都市シアトルの原型が築かれた重要な時期でした。

1916年〜1940年代前半:港湾都市シアトルの成長と移民制限の時代

1916年、シアトルを含むアメリカ西海岸の港湾都市では大規模な労働争議が起き、港湾労働者によるストライキが6月から10月まで続きました。このような労働運動の高まりは、産業が急成長していたシアトルの社会的な緊張を象徴しています。
1917年には、チッテンデン水門(Hiram Chittenden Locks)を含むレイク・ワシントン・シップ・キャナルが完成し、シアトルの内水路交通網が大きく発展。この年にはまた、後に世界的航空機メーカーとなるボーイング(Boeing)も創業しました。

第一次世界大戦末期から1919年にかけては、スペイン風邪(インフルエンザの世界的流行)により、シアトルでは約1600人が亡くなったとされています。1919年2月6日には、アメリカ初の一般ストライキ(Seattle General Strike)がシアトルの造船所を中心に始まり、6万人以上が参加。アメリカ労働史に残る出来事となりました。
1920年代、シアトルの人口は31万人を突破しました。しかし、1924年に制定された移民法(Immigration Act of 1924)により、アジアからの移民が全面的に禁止され、日本からの合法的な移住は途絶えることとなります。この排他的な法律は1965年まで続きました。
1929年には、現在のキング郡国際空港であるボーイング・フィールドが開設され、都市の航空インフラが整備されます。1930年代にはシアトル初の高速道路橋「オーロラ・ブリッジ」(1932年)や、キャピトル・ヒルのボランティア・パークにシアトル美術館(1933年 現在はシアトル・アジア美術館)、ワシントン・パーク樹木園(1934年)などが相次いで完成。市民の生活・文化環境も大きく変化していきました。
1938年には、現在も人気のフィッシュ&チップス店「Ivar’s」がピア54にオープン。1939年には、登山用品の共同購入組織として設立された「REI(Recreational Equipment Inc.)」が誕生し、後に全米規模のアウトドアブランドへと成長します。
また同年には、アメリカで初めての人種混合型公共住宅「Yesler Terrace」が開設され、シアトルが全米に先駆けて多文化共生に向けた都市づくりを始めたことが注目されました。
1940年には、レイク・ワシントンに最初の浮橋(The Lake Washington Floating Bridge)が完成し、シアトルとイーストサイド(マーサーアイランドやベルビュー)を結ぶ重要な交通インフラとなりました。
この時代のシアトルは、急速な都市化と産業の発展、そして排他的な移民政策の狭間で揺れる社会構造の中、多くの革新と挑戦を重ねながら近代都市としての姿を整えていったとされています。
シアトルと日系アメリカ人の歴史:移民、差別、強制収容、そして継承へ

歴史を伝える切り絵を壁画にした作品が展示されている。
シアトルでは、日本人移民の到来とともに地域社会が形成されていきましたが、その過程で差別や排斥運動も存在していました。
1907年にオープンしたパイク・プレース・マーケットでは、創設当初から出店していた日本人農家たちが不利な場所での販売を強いられるなど、差別的な扱いを受けていました。また、ワシントン州議会では、日本人による土地所有を制限する「外国人土地法」が制定されるなど、移民排斥の動きが強まっていました。
それでも日本人移民は、シアトル市内やベインブリッジ・アイランドを中心にコミュニティを築き、インターナショナル・ディストリクト、パイオニア・スクエア、セントラル・ディストリクトへと広がっていきました。1930年代の全盛期には、約8,500人の日本人が暮らし、商店、銭湯、劇場、学校などが立ち並ぶ「シアトル日本町」を形成していました。

1930年に竣工した日本郵船の「氷川丸」が北米航路・シアトル線で11年3カ月にわたり活躍したことも、当時の日本人社会の活性化に貢献しました。
しかし、1941年12月の日本による真珠湾攻撃により事態は一変。翌日には日米間の開戦が発表され、1942年2月19日、ルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名したことで、西海岸の日本人および日系アメリカ人(合計約12万人)は、何の補償もないまま自宅を追われ、自然環境の厳しい内陸部の砂漠などに建てられた強制収容所へ送られることになります。
そのうち約4万人が日本からの移民である一世(Issei)、約8万人がアメリカ生まれの二世・三世(Nisei、Sansei)でした。太平洋戦争の影響で、日本とシアトルを結ぶ航路も中断され、戦前に築かれた日系社会は大きな打撃を受けました。

(Bainbridge Island Japanese American Exclusion Memorial)
強制立ち退きの第1号となったのが、シアトル沖のベインブリッジ・アイランド(Bainbridge Island)です。1942年3月20日、この島の日本系住民はフェリー発着所に集められ、カリフォルニア州のマンザナー収容所(Manzanar)を経て、アイダホ州のミニドカ収容所(Minidoka)に移送されました。現在、島には「ベインブリッジ・アイランド日本人排斥国立史跡(Bainbridge Island Japanese American Exclusion Memorial)」が設置され、記憶を後世に伝えています。


日本人と日系アメリカ人が強制収容される際に置いていった家財道具が
今も地下に保管されています。
また、シアトルのインターナショナル・ディストリクトにある「パナマ・ホテル(Panama Hotel)」は、強制収容により住まいを離れざるを得なかった日系人が荷物や家財を預けた場所として知られ、2015年にアメリカ国立公園局より国宝(National Treasure)に指定されました。

戦後は強制収容所から戻って行き場のなかった家族の住居として利用された。
1945年1月に強制収容の終了が宣言されたものの、全員が元の住まいに戻り、戦前と同じ生活を再開できたわけではありません。その後、日系人の強制収容が不当であったことを認めさせる運動が起こり、1988年、レーガン大統領が「市民自由法(Civil Liberties Act)」に署名。アメリカ政府は公式に謝罪し、収容経験者に2万ドルの補償金が支払われました。
シアトルは1957年に神戸市と姉妹都市提携を結び、日本との関係をさらに深めました。現在では、日本語で運営される補習校や教育機関も複数あり、日本はワシントン州の主要貿易相手国(2024年時点で第3位)として経済的にも深いつながりを持っています。
市内には在シアトル日本国総領事館、日米協会、日本商工会、神戸市事務所、兵庫県事務所など、日本関連の団体・政府機関も多数存在しています。
文化面でも、シアトル日本庭園、クボタ・ガーデン(Kubota Garden)、シアトル美術館、シアトル・アジア美術館などが市民に親しまれており、彫刻家イサム・ノグチの作品『Black Sun(黒い太陽)』もシアトル・アジア美術館前に設置されています。日本文化に関するイベントや祭りも一年を通して開催され、日系人の歩んだ歴史と地域社会への貢献を伝え続ける活動が続けられています。

1945年〜1960年代:戦後復興から万博開催、モダンな都市への転換期

1949年4月13日にはマグニチュード7.1の地震が発生し、シアトル市内では7人が犠牲となりました。都市の耐震インフラや防災への意識が高まる契機となりました。同年7月には、現在の玄関口であるシアトル・タコマ国際空港(Sea-Tac Airport)がオープンし、シアトルは国内外の航空ネットワークの中心地となっていきます。
1950年には人口が約46万人、1960年には55万人を突破。アラスカン・ウェイ高架橋(1953年)や、レイク・ワシントンの二つ目の浮橋 Evergreen Point Floating Bridge(1963年)、そして西海岸を南北に走る高速道路 Interstate 5の開通(1967年)により、交通網も大幅に拡張され、近代都市としての基盤整備が進行しました。
1960年にシアトルの人口は55万7087人に達しました。この時代の最大の出来事の一つが、1962年に開催されたシアトル万博「センチュリー21エキスポ」です。テーマは「21世紀の科学と未来」で、冷戦時代におけるアメリカの技術力と希望を象徴するものでした。この万博に合わせて建設されたスペースニードルとシアトル・モノレールは、今日に至るまでシアトルのシンボル的存在となっています。
万博の会場跡地は「シアトル・センター」として整備され、文化施設、スポーツ施設、フェスティバル会場などが集まる観光・市民文化の中心地となりました。万博を契機に、観光産業がシアトルの主要な経済資源のひとつへと成長していきました。
また1961年には、ウィング・ルーク氏が中国系アメリカ人として全米で初めて市議に当選。これはシアトルが先進的な多文化政治の都市として注目されるきっかけともなりました。1967年には、NBAチーム「シアトル・スーパーソニックス」が初の試合を行い、スポーツ文化の発展もこの時期に始まっています。
1970年代:ボーイング不況と経済の転換点

1970年代初頭、シアトルはボーイング社の経営不振(いわゆる “Boeing Bust”)により、深刻な経済不況に陥りました。ボーイングは数万人を解雇し、市の失業率は全米最悪水準となり、「最後に出る人は電気を消して」と皮肉られるほど、地域社会に大きな影を落としました。
しかしその後、シアトル地域は苦境を乗り越え、産業の多様化を進めていきます。製造業や航空機産業一辺倒だった地域経済は、テクノロジーやサービス業、研究機関などの新たな分野への投資と誘致によって再生への道を歩み始めました。
その象徴とも言えるのが、1979年にニューメキシコ州で創業されたマイクロソフトです。創業者のビル・ゲイツ氏とポール・アレン氏が、同社の本社を1986年にシアトル郊外のレドモンド市に移転させたことで、シアトル地域におけるIT産業の基盤が形成されました。マイクロソフトは1995年に世界最大のソフトウェア企業へと成長し、後のアマゾンや数多くのスタートアップの誕生につながるイノベーション都市シアトルの原点となりました。
この10年は、困難の中から新たな可能性を見出し、現代のグローバル都市シアトルの基盤が築かれた転換期と位置づけられます。
1980年代〜2000年:都市開発と文化・経済の多様

1980年代のシアトルでは、コロンビア・センターをはじめとする高層ビルの建設が進み、ダウンタウンのスカイラインが大きく変化しました。都市インフラも拡充され、1990年にはメトロ・トランジットのバス専用地下トンネルが開通。これは後にライトレール(Link Light Rail)の中核路線の一部となります。
1991年には新たにダウンタウンに建設されたシアトル美術館がオープンし、文化都市としての側面も強化されました。1993年に公開された映画『めぐり逢えたら(Sleepless in Seattle)』の大ヒットは、シアトルの美しい街並みと風景を世界中に印象づけました。この時期には、新たな産業として、クルーズ産業がスタートしています。
1999年には、WTO閣僚会議に対する大規模な抗議活動(WTO暴動)がシアトルで勃発。経済グローバル化の波の中で市民の声が表出した象徴的な事件となりましたが、街の発展そのものは続き、MoPOP(当時EMP)やスポーツスタジアムの新設なども進行しました。
2000年〜2010年:ITバブルの崩壊と都市再生のはじまり

2000年代初頭、シアトルはドットコム・バブルの崩壊(2001年)とニスカリー地震(2001年2月)という2つの大きな衝撃を受けました。多くのテクノロジー関連企業が打撃を受け、市内経済も一時的に停滞。しかしこの時期を契機に、サウス・レイク・ユニオン地区の再開発や、公共交通インフラの整備といった再生プロジェクトが本格的に始動します。
2004年には、レム・コールハースの設計によるシアトル中央図書館がオープンし、建築と公共空間の融合が高く評価されました。2009年にはLinkライトレールのセントラル線(Central Link)が開通し、シアトル・タコマ空港とダウンタウンを結ぶ新たな交通動線が誕生。都市の持続可能性と利便性が大きく向上しました。
この時期はまた、アマゾンが本社をビーコン・ヒルからサウス・レイク・ユニオンに移転し始めた時期でもあり、後のIT主導の都市成長の序章として重要な10年間でした。
2010年〜2020年:シアトルのテックブームと格差の拡大

2010年代、アマゾンの急成長とサウス・レイク・ユニオンの開発により、シアトルは全米屈指のITハブ都市としての地位を確立しました。スタートアップやテック人材の流入により経済は活況を呈し、雇用と税収の大幅な増加が見られました。
一方で、住宅価格と家賃の急騰が市民生活を直撃し、所得格差の拡大とともに、ホームレス人口の急増という深刻な社会課題が表面化します。都市としての成長と福祉政策のギャップが広がる中、行政と市民のあいだで活発な議論と対策が進められるようになりました。
ライトレール網の拡張や高速道路再整備など交通インフラの投資も継続され、利便性は向上。シアトルはこの10年で「働くには最適、暮らすには難しい」とも言われるような都市課題と成功の両面性を持つ都市へと変貌を遂げました。
2020年以降:パンデミック、抗議運動、そして持続可能な未来へ
2020年初頭、COVID-19が世界中に拡大し、ワシントン州は米国内で最初に感染者と死亡者が確認された州となりました。シアトル地域は科学に基づいた感染対策を早期に導入し、全国から注目されました。2021年にはワクチン接種が始まり、6月にはワシントン州全体で経済活動が全面再開されました。
同年、ミネアポリスでのジョージ・フロイドさん殺害事件に端を発した人種差別抗議運動がシアトルでも活発に展開され、都市における警察改革と社会正義の問題が大きく取り上げられました。
2023年5月には国家緊急事態宣言が解除される中、シアトルはポスト・パンデミック社会への対応を進めていますが、復興には時間がかかります。同時に、住宅価格を含む物価の高騰、交通渋滞、ホームレス人口の増加、公共サービスの質と治安の課題といった問題に直面しており、都市としての持続可能性が問われています。

一方、シアトルは2025年6〜7月に FIFA クラブワールドカップ、2026年6〜7月に FIFA ワールドカップの開催都市に選ばれており、都市機能の整備を急ピッチで進めることが必要とされています。
その一環として、ウォーターフロントの再開発が進められており、2024年10月にはアラスカン・ウェイ高架橋(1953年に完成、2020年に撤去)の跡地に、マーケットフロントの西側(海側)とウォーターフロントをシームレスに結ぶ、待望の遊歩道「オーバールック・ウォーク」(Overlook Walk)がオープンしました。マーケット・フロント側からアクセスすると、エリオット湾が目の前に広がります。その景色を楽しみながら休めるベンチやスペースがたくさんあるので、ピクニックや読書をしたり、海に沈む夕陽を眺めたりと、思い思いに楽しめます。
