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シアトルの歴史:先住民の暮らしから現代のテクノロジー都市へ

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シアトルは、豊かな自然と多様な文化を持つ、米国太平洋岸北西部を代表する都市です。その歴史は、ネイティブ・アメリカンの居住に始まり、入植者たちの到来、産業の発展、日系人コミュニティの形成と苦難、そしてグローバル都市としての成長と続いています。

目次

シアトルの先住民の歴史:ネイティブ・アメリカンの足跡をたどる

現在のシアトル周辺地域(ピュージェット湾地域)には、少なくとも1万2000年前からネイティブ・アメリカンの祖先が暮らし、漁、狩猟、交易、工芸などを中心とした豊かな文化を築いてきました。アメリカ北西部の歴史に詳しい情報サイト Historylink.org によると、彼らの祖先は氷河期の終わりにシベリアからベーリング陸橋を渡って北米大陸に移動し、氷河の後退にともなってシアトル地域に定住したと考えられています。

パイオニア・スクエアにあるチーフ・シアトルの胸像

Seattle(シアトル)」という都市名も、この地域のリーダーだったデュワミッシュ族とスコーミッシュ族の酋長 “siʔaɬ(シアール)” の名前にちなんでいます。白人の入植者たちは、彼の発音に近い英語表記として「Seattle」と記録しました。シアトル酋長(Chief Seattle)は、平和と共存を訴えた人物としても知られ、現在はパイオニア・スクエアやベルタウンなどに銅像が建てられています。

このように、シアトル周辺には今も、ネイティブの言語に由来する地名(川、山、町など)が数多く残っており、かつて多くの部族がこの地に暮らしていたことがうかがえます。

現在、ワシントン州には連邦政府に認定された29の部族(Federally Recognized Tribes)が存在し、それぞれが独自の主権、文化、伝統を保持しています。

詳細は、Washington TribesAmerican Indian COC(Council of Chiefs)をご覧ください。

18世紀後半〜19世紀前半:西洋列強の到来と先住民社会への影響

Credit line: Courtesy of Visit Tacoma-Pierce County
Visit Tacoma-Pierce County
Naches Peak Trail, Mount Rainier, Pierce County, Metro Puget Sound | Nature & Landscapes

アメリカ独立戦争(1775年〜1783年)終結後、アメリカは西部開拓を進めていましたが、太平洋岸北西部(現在のシアトル周辺)には依然として多くのネイティブ・アメリカンが暮らしていました。

1792年、イギリス海軍のジョージ・バンクーバー提督がこの地域の海域を探査し、見える山や湾、川などに「マウント・レーニア(Mount Rainier)」「マウント・セント・へレンズ(Mount St. Helens)」「ピュージェット・サウンド(Puget Sound)」など、イギリスの同僚や友人の名前を付けました。これらの名称は現在も使われていますが、近年では「先住民の伝統的名称に戻すべき」という動きが高まっています。

たとえば、マウント・レーニアはネイティブ・アメリカンに「タホマ(Tahoma)」と呼ばれており、この名を取り戻そうという機運が地域コミュニティを中心に広がっています。

その後、アメリカと大英帝国は、現在はカナダとなっている広大な土地などをめぐり、1812年戦争(War of 1812)をしました。その後、1818年に「共同占有条約(Treaty of Joint Occupation)」を締結し、現在のワシントン州を含むオレゴン地方の共同統治に合意しました。その後、政府は先住民排除政策を本格化させます。

  • 1819年:インディアン文明化基金法(Indian Civilization Act Fund)
  • 1830年:インディアン除去法(Indian Removal Act of 1830)
  • 1869年:寄宿学校政策(Boarding School Policy)

これらの政策により、先住民の子どもたちは親元から引き離され、英語教育を強制され、言語や文化、精神性を奪われる経験をしました。なかでも「全寮制寄宿学校」は深刻な被害をもたらし、その影響はトラウマとして今日まで続いています。

現在、その歴史を記録し、癒しと正義を目指す取り組みとして、National Native American Boarding School Healing Coalition(全米ネイティブ寄宿学校癒し連合)が設立され、証言や資料の収集、教育活動を行っています。

1850年代〜1860年代:シアトルの開拓と都市としての始まり

パイオニア・スクエア

1851年11月13日、イリノイ州出身のアーサー・デニー一家と4家族が、現在のウエスト・シアトルに上陸。この地を「New York」と名づけ、さらにチヌーク族の言葉で「そのうちに」「いつか」を意味する “Alki” を加えて、「New York-Alki」と呼びました。

しかし、海風が強く生活に不向きだったため、翌1852年にはエリオット湾東岸(現在のパイオニア・スクエア付近)へと移住し、本格的な街づくりが始まりました。パイオニア・スクエアには現在も1900年代初頭の建物が数多く残っています。

1853年には、ピュージェット湾地域初の製材所がシアトルで創業し、豊富な森林資源を背景に、製材業が都市の主要産業となりました。

現在のシアトル地域では、19世紀半ばに白人入植者が急増したことで、先住民とのあいだに衝突が頻発。その後、1855年にシアトル酋長を含む82人の部族指導者がアメリカ政府とポイント・エリオット条約(Point Elliott Treaty)を締結し、ワシントン州西部の先住民の土地の多くがアメリカ政府の所有地となりました。条約に反発する動きもあり、1856年には「シアトルの戦い(The Battle of Seattle)に発展。戦闘自体は1日で終わったものの、白人入植の流れに影響を与えた重要な事件とされています。

政府は居留地(Reservation)への移住権伝統的な漁猟地へのアクセス権の一部を認めましたが、その後も土地や権利をめぐる対立は続きました。1862年には白人が持ち込んだ天然痘が流行し、1万4000人以上の先住民が命を落とすという悲劇が起き、部族社会は大きな打撃を受けました。

2024年撮影

1863年に亡くなったシアトル酋長は、ワシントン州スクワミッシュに埋葬されています。

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