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シアトルとワシントン州の日系コミュニティ

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シアトル日本庭園

米国の国勢調査によると、日本人を祖先に持つ日系アメリカ人の人口は160万人(2021年)。最も多いのはカリフォルニア州で(48万3500人)、第2位はハワイ州(33万人)、第3位はここワシントン州(92,600人)です。

もくじ

日本からの移民

『Japanese American Remembrance Trail Map
日系アメリカ人 ゆかりの地ガイド』

日本から最初の移民が米国北西部に移住したのは1880年代のこと。在シアトル日本国総領事館の『ワシントン州の日系人の歴史』によると、米国への移住の理由には、(1)農村部での冷夏による凶作(1902年、1905年)、(2)日露戦争による都市部での不景気の深刻化(1904~1905年)、渡米案内本の出版などによる渡米熱の高まり(1902~1906年)が挙げられています。

しかし、日本人の移民が全面的に歓迎されていたわけではなく、1906年には米国連邦議会が移民法を改定して日本人の米国帰化を禁止し、1908年には日本人労働者の米国入国を禁止しました。同年には日本の外務省が自発的に移民の旅券の発給を停止しています。その後、1924年には日本からの移民の入国が全面的に禁止されました。

ワシントン州の日本人の人口は、1890年の約2000人(シアトル 125人)から、1900年には約2万5千人(シアトル:約3000人)、1908年には約10万人に増えましたが、1920年にはワシントン州排日土地法が施行されて外国人による土地の所有や土地の所有権を持つこと、米国人が外国人のために土地を代理所有することが禁止され、違反した人は米国人でも処罰の対象になることが決定しました。

シアトル日本町の形成

1902年に創立したシアトル日本語学校。現在はワシントン州日本文化会館。

そのような状況下でも、1920年には「シアトル日本町」が形成され、最盛期の1940年には今のインターナショナル・ディストリクト、リトル・サイゴン、パイオニア・スクエア、セントラル・ディストリクトまで広がりました。

最盛期には、さまざまな商店、公衆浴場、病院、学校、道場、ホテル、銀行、仏教会(現シアトル別院)、教会などが軒を並べていたと言われています。

特に、1902年に創立したシアトル日本語学校は、生徒が増えたことによる規模が拡大され、最盛期の1930年代には1300人の生徒が在籍していました。

日本による真珠湾攻撃で状況が一変

パナマ・ホテルの地下には、強制収容所に送られる日本人・日系アメリカ人が
 残していき、戦後も引き取り手が現れていない荷物が、そのまま保管されています。

しかし、1941年12月7日(現地時間)、日本はハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突き進み、アメリカと戦争をすることを選びました。

その結果、約2ヵ月後の1942年2月19日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は大統領令9066号(Executive Order 9066)に署名し、国家の安全保障にとって「脅威」とみなされるすべての人物の強制退去を可能にしました。

これにより、当時ワシントン州・オレゴン州・カリフォルニア州・アリゾナ州に住んでいた約12万人の日本人と日系アメリカ人が、カリフォルニア州、アイダホ州、ユタ州、アーカンソー州、ワイオミング州、アリゾナ州、コロラド州の自然環境の厳しい内陸部10カ所に作られた収容所に強制収容されました。そのうち約3分の1は日本から移住した日本人(一世)、約3分の2はアメリカ生まれのアメリカ人(二世)でした。

アメリカ議会図書館によると、戦争中、収容されていた日系アメリカ人は自分たちの待遇に抗議し、忠実なアメリカ市民として認めるよう要求しました。第二次世界大戦初期には入隊の対象ではなかった日系アメリカ人も、1943年には陸軍に積極的にリクルートされ、3万人以上の日系二世がヨーロッパ戦線に配属された他、一部は日本語の能力を買われ太平洋戦線で翻訳者として働きました。特に、日系二世のみで構成された第442連隊戦闘団は、52個の殊勲十字章(Distinguished Service Cross:陸軍が授与する、名誉勲章に次ぐ高位の勲章)と1個の名誉勲章(Congressional Medal of Honor:米軍の勲章では最高位)を含む18,000個以上の個人勲章を受け、その規模ではアメリカ史上最も多くの勲章を受けた部隊となったことで知られています。

戦後のコミュニティ再建

1945年の終戦で強制収容所から解放されシアトルに戻った人たちの中には、住むところが見つかるまで、戦前はシアトル日本語学校だった建物(当時は Hunt Hotel、現ワシントン州日本文化会館)に住むことを余儀なくされました。

1954年になって移民国籍法(Immigration and Nationality Act of 1952:通称マッカラン=ウォルター法)が制定され、日本から来た人が米国に帰化することができるようになりました(アメリカ議会図書館)。

日本人の米国帰化は、1906年に米国連邦議会が移民法を改定し、禁止されていました。

1988年、レーガン大統領は、第二次世界大戦中に強制収容所に収容された日本人を祖先とする人たちに補償するための法律(Civil Liberties Act)に署名しました。これは、日系アメリカ人コミュニティによる10年にわたる運動の末に議会の承認を得て行われたもので、正式な謝罪を行い、生存している被害者一人当たり2万ドルの補償金が支払われました。

現在の日系コミュニティ

「子どもの日」のイベント © JCCCW

日本人というだけで、住む場所や仕事を限定され、不動産を購入できず、米国籍を取得できなかったことなど、日本から移住した先人のさまざまな苦労について知れば知るほど、自分より前に来た日本人が作ってくれた土台のおかげで、スタート地点が違うことに気づきます。

現在、たくさんの方々が、日本の歴史や文化などに触れる機会を提供する活動を展開しています。日本と日系コミュニティの歴史や文化を伝える活動を行っているワシントン州日本文化会館(JCCCW)、春のシアトル桜祭りや夏のジャパン・フェアなどをはじめとするフェスティバル、茶道や生花など伝統文化の実演や体験、剣道や柔道、空手や合気道など武道の道場、シアトル日本庭園や窪田ガーデンなどの日本庭園、学校やオンラインでの日本語の授業、戦前から続く日系スーパーマーケットの宇和島屋、日本食レストランでの食事などもその一端を担っています。

また、テレビ番組や映画、オンラインのコンテンツなどを通して日本を知る機会が増え、日本を訪れる人も増えました。

このように、さまざまな形で日本や日系コミュニティを知り、ファンになってくれる人を増やすことが、日本人や日系アメリカ人が暮らしやすいコミュニティ作りに繋がります。

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