日本から一番近い、アメリカ本土の都市
アメリカ西海岸にあるシアトルは、海・湖・山に囲まれたワシントン州最大の都市です。日本から一番近い米国本土の都市で、東京からシアトルまでは飛行機で約8時間45分です。
シアトルの街があるのは、ピュージェット湾とレイク・ワシントンに挟まれた起伏の大きなところ。
北海道よりも北の南樺太と同じ緯度に位置しながら、近海を流れる暖流のおかげで雪が降るのは珍しく、夏は基本的に過ごしやすい、穏やかな気候に恵まれています。
基本データ
シアトル市の基本データ | |
設立 | 1869年 |
市長 | Bruce Harrell(ブルース・ハレル) 第57代市長(2021年1月1日~) |
愛称 | Emerald City(エメラルド・シティ) |
位置 | ワシントン州内最大の都市 カナダ国境より113マイル(182キロ) 緯度47-39度、西経122-17度 ※南樺太とほぼ同じ緯度 |
面積 | 84平方マイル(217平方キロ) |
市内人口 | 755,078人(2023年7月1日 国勢調査) ※シアトル大都市圏の人口は4,018,762万人(2020年国勢調査)。アメリカは市の範囲が狭いため、実質的な人口はひとつの経済圏である大都市統計地域(MSA)で考えると筋が通る。 ※ワシントン州の人口80,65,700人(2024年4月1日 州財務管理局) |
人種 | 白人のみ 63.6% 黒人 6.7% 先住民 0.6% アジア人のみ 16.8% ハワイ・太平洋諸島のみ 0.2% 2つ以上の人種 9.4% ヒスパニック/ラテン系 7.5% |
Fortune 500企業 | Amazon、Costco Wholesale、Microsoft、Starbucks、Paccar、Nordstrom、Expegia Group、Alaska Air Group、Expeditors International of Washington、Fortive、Weyerhaeuser |
主な研究施設 | Fred Hutchinson Cancer Research Center、Battelle Memorial Institute、Washington Technology、University of Washington 他 |
主な新聞 | 日刊紙: The Seattle Times ビジネス紙: Puget Sound Business Journal 日系新聞: North American Post |
主な雑誌 | Seattle Magazine、Seattle Met、425 Magazine、Art Access |
主なテレビ局 | KOMO(ABC 系列)コモ KING(NBC 系列)キング KIRO(CBS 系列)カイロ KCTS ケーシーティーエス Q13(Fox 系列)キューサーティーン |
主なラジオ局 | AM 710: Kiro (ニュース/トーク) AM1000: Komo (ニュース) FM90.3: KEXP(音楽全般) FM94.1: KMPS (カントリー) FM94.9: KUOW/NPR (ニュース・トーク) FM96.5: Pop-Rock (ポップ・ロック) FM98.1: King (クラシック) FM99.9: KISW (ロック) FM101.5: KPLZ (ロック) FM102.5: KZOK (ロック) FM106.1: KISS(ポップ) |
教育 | 25歳以上で高校卒業以上の学歴保持者 95.6% 25歳以上で学士号以上の学歴保持者 66.7% (2018-2022年) |
コンピュータのある世帯 | 97.3%(2018-2022年) |
高速ネット接続のある世帯 | 93.4%(2018-2022年) |
世帯年収の中央値 | $92,263(2015-2019年) $116,068(2018-2022年) |
一世帯戸建て住宅中央価格 | $879,900(2018-2022年) |
家賃中央価格(月額) | $1,945(2018-2022年) |
売上税 | 10.25% |
ホテル税 | 15.7% |
シアトルにゆかりのある著名人 | ビル・ゲイツ(マイクロソフト社共同創業者)、ポール・アレン(マイクロソフト社共同創業者)、ブレンダン・フレイザー(俳優)、ブルース・リー(格闘技家)、トム・フォーリー(前駐日大使)、フレッド・カップルズ(ゴルファー) |
シアトルにゆかりのあるミュージシャン | ジミ・ヘンドリックス(ギタリスト)、カート・コヴァーン(ニルヴァーナのボーカル)、ケニー・G(サックス奏者)、クリス・コーネル(サウンドガーデン)、アリス・イン・チェーンズ(バンド)、パール・ジャム(バンド)、フー・ファイターズ(バンド)、デス・キャブ・フォー・キューティー(バンド)、ハート(バンド)、ベンチャーズ(バンド) |
先住民が住んでいた土地に作られた街
一般的にネイティブ・アメリカンと呼ばれる先住民がこの近辺に移住してきたのは、少なくとも1万2000年前。米国北西部の歴史を専門とする Historylink.org によると、今日のネイティブ・アメリカンの祖先は、シベリアから北米大陸に移動し、最後の氷河期の氷河が縮小するとともに、今のシアトルのあるピュージェット湾地域に入ったと考えられています。
「Seattle」という名前も、白人が入植した当時にこの地域一体を統治していたスコーミッシュ族とデュワミッシュ族の酋長の名前 “si?al’s”(1780?-1866)に近い発音になるよう英語のアルファベットを当てはめたもの。シアトル酋長は死後に郊外の墓地に埋葬され、現在のパイオニア・スクエアやベルタウンなどに銅像が立てられました。
現在の市や町や地域、川などには、彼らがつけた名称に近い発音になるように英語のアルファベットをあてはめたものがそのまま使われていることから、あちこちに先住民が住んでいたことがわかります。
そこに突然やってきた白人の入植者たちと先住民は何度も衝突し、多数の死傷者が出ました。1855年、シアトル酋長は、ピュージェット湾地域の部族の他の81人の指導者とともに、米国政府とのポイント・エリオット条約に署名しました。先住民は、現金、居留地への移住、伝統的な漁や狩猟の地へのアクセスの代償として、ほとんどの土地を譲渡することになります。その後もさまざまな条約が締結されますが、白人の入植者と先住民の戦いは続きました。1862年には、白人が持ち込んだ天然痘に感染した1万4000人以上の先住民が死亡し、人口が激減してしまいました。
現在、ワシントン州には連邦政府に認められている29の部族が住んでいます。詳細は American Indian COC の公式サイトや Washington Tribes の公式サイトでご覧ください。
白人の入植と都市開発
この地域に白人の入植者がやってきたのは1851年。アーサー・デニー氏をリーダーとする複数の家族は、最初は現在のウエスト・シアトルのアルカイ・ビーチに拠点を構えましたが、翌年にはエリオット湾の対岸に移動し、今はパイオニア・スクエアとして知られる場所に村を作りました。その村は、スコーミッシュ族とデュワミッシュ族の酋長の名前にちなみ、Seattle(シアトル)と名付けられます。
当初のシアトルの主要産業は製材業が中心でしたが、鉄道の開通や日本との定期航路の就航、ゴールドラッシュなどが、石炭産業、漁業、造船業、船舶業、貿易業など、産業の多様化、町の経済拡大と人口増加に貢献しました。詳細は次の記事でご覧ください。
日本からの移民と日系アメリカ人の歴史のある街
1834年に音吉・岩吉・久吉という船乗りが遠州灘で遭難後、ワシントン州西岸アラバ岬に漂着したのが、日本人が初めてこの地域を訪れた記録になります(参考:美浜町公式サイト)。
日本人が米国北西部(ノースウエスト)に最初に移住したのは1880年代。中国人排斥法(1882〜1943)により労働力が不足し、新たな労働力が必要とされたためです。特にハワイや日本から一世(または初代移民)が鉄道の建設に必要とされ、何千もの日本人労働者が、グレートノーザン鉄道、ノーザン・パシフィック鉄道、オレゴン・ショートライン鉄道などの建設に貢献しました。1907年までには、日本人はオレゴン州の総鉄道労働人口の約40%を占めていたそうです。(参考:ワシントン州立大学)
シアトルとミネソタ州セントポールを結ぶグレート・ノーザン・レイルウェイ(グレート・ノーザン鉄道、現 BNSF 鉄道)が完成すると、1896年(明治29年)8月、日本郵船が横浜とシアトルを結ぶ定期航路を開設。グレート・ノーザン鉄道と提携してアジアからの物資をシアトル経由で米国の他の地域に輸送するルートを実現しました。
船が日本国外に行く唯一の手段だった時代、シアトルはアジアとの貿易の中継地点として発展し、さらに多くの日本人が移り住みました。
1909年にはアラスカ・ユーコン太平洋博覧会がワシントン大学の建設予定地を会場にして開催され、渋沢栄一が団長を務めた日本の実業団も参加しました。
しかし、日本人に対する差別がなかったわけではありません。1907年にオープンしたパイク・プレース・マーケットでは、その創設時から出店していた日本人の農家が不便なロケーションでの販売を強制されたり、ワシントン州議会で日本人による土地の所有を阻むことが目的と見られる「外国人による土地所有を禁止する法律が制定されたりするなど、戦前から反日感情はありました。
移住した日本人は、シアトル沖のベインブリッジ・アイランドやシアトル市内近郊にコミュニティを作っていきました。現在のインターナショナル・ディストリクト、パイオニア・スクエア、セントラル・ディストリクトまで広がったシアトル日本町は、1930年代の全盛期には、商店、食堂、ホテル、学校、劇場、銭湯、コミュニティ・ホール等がひしめき、人口8,500人からなる活気のある街となりました。1930年に『氷川丸』が竣工し、北米航路シアトル線で11年3ヶ月にもわたって活躍したことも、これに影響していたことでしょう。
しかし、1941年12月に旧日本軍がハワイの真珠湾を攻撃したことで、事態は急変します。
真珠湾攻撃の翌日、米国議会はルーズベルト大統領の要請により、米国と日本が開戦したことを発表。1942年2月19日にルーズベルト大統領は大統領令9066号に署名して米国西海岸を郡の管轄地域に置き、日本人と日本人を祖先に持つ住民約12万人が何の補償もないまま自宅を追われ、厳しい環境の砂漠地帯などに建てられた間に合わせの収容所に強制収容されました。そのうち約4万人は日本から移民した日本人(一世)、約8万人は米国生まれの米国人(二世や三世)です。太平洋戦争の勃発により、日本とシアトルを結ぶ航路も休止となりました。
1945年1月に強制収容の終了が宣言されましたが、さまざまな出来事があり、全員が元の住まいに戻って戦前と同じ生活を始めることができたわけではありません。
戦後、日系人の強制立ち退きと収容は不当であったとアメリカ政府に認めさせ賠償を求める運動が始まりました。そして、多くの人々の努力により、1988年、レーガン大統領は市民自由法に署名し、アメリカ政府は公式に日系人に謝罪し、収容所の存命者全員に2万ドルを支払うことを承認しました。戦後、二度と同じ過ちを繰り返してはならないと語り継ぐ活動が続けられており、強制収容所跡地が史跡に指定されているところもあります。
日系人の強制立ち退きが最初に行われたシアトル沖のベインブリッジ・アイランドには、この歴史を伝えるアメリカ合衆国国立史跡が設置されています。この島の日系人は1942年3月20日に島のフェリードックに集められ、カリフォルニア州のマンザナー強制収容所を経てアイダホ州ミニドカ強制収容所に送られました。
シアトルのインターナショナル・ディストリクトにあるパナマ・ホテルは、強制収容に送られる日系人が荷物や家財道具を託したところで、2015年にアメリカ政府より国宝に指定されました。
シアトルが初めて姉妹都市提携を結んだのは兵庫県神戸市(1957年)。シアトル市内近郊には日本語で運営されている日本語教育機関も多く、日本がワシントン州にとって第3位(2014年)の輸出相手国であることから、日本企業が進出し、日米協会・日本商工会・神戸市事務所・兵庫県事務所などの日本関連の政府事務所・団体・グループがあります。
シアトル日本庭園やクボタ・ガーデン、日本の美術品を多数所蔵するシアトル美術館やシアトル・アジア美術館も、市民に親しまれています。シアトル・アジア美術館の前には日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチの作品 『Black Sun(黒い太陽)』 があり、市内近郊各地で日本文化に関連したさまざまな催しが年間を通じて開催されています。
多様な産業や世界企業が集中する街
1970年代に起きたボーイング社の不況以後、産業の多様化に成功し、シアトル地域はマイクロソフトやアマゾン・ドット・コムなどに代表される IT 企業、シアトルをコーヒーの街として一躍有名にしたスターバックス、日本にも進出しているコストコ、高級デパートのノードストロム、アラスカ航空、アウトドア専門店の REI や アウトドア・リサーチ、オンライン旅行サイトのエクスペディア、宇宙企業ブルー・オリジンなど、世界的に有名な大企業が本社や工場を構えるようになりました。世界的に有名なフレッド・ハッチンソン癌研究所、1861年に開校したワシントン州最大の公立大学であるワシントン大学(当時は Territorial University)もあります。
また、Google や Facebook、Apple など、カリフォルニア州に本社のある IT 企業がシアトル市内近郊にエンジニアリング・センターを設置しています。スモールビジネスやスタートアップも多く、幼児教育から総合州立大学のワシントン大学をはじめとする教育機関のチョイスも豊富。教育機関・企業・団体の連携も盛んです。
食材が豊かな街
農業が主要産業の一つに挙げられるワシントン州は、年間を通じて新鮮な海産物や農産物が手に入る、恵まれた場所です。リンゴ、チェリー、ラズベリー、ホップ、梨などの生産では全米1位。ワインの生産は全米2位を誇ります。
ダウンタウンのそばにあるパイク・プレース・マーケットは、2007年に100周年を迎えた公共市場。市民にも観光客にも人気のスポットです。また、シアトル市内各地では産地直送の食材を農家から購入できるファーマーズ・マーケットが多数開催されており、多数の市民が買い物に訪れています。海のそばに位置していることから海産物も豊富。特に周辺の海域でとれるウニや牡蠣などは有名です。2000年代半ばからはローカル産のオーガニック(有機栽培)にこだわる流れが生まれ、レストランではさまざまな地元の食材が使われ、店ではローカル産のオーガニック食材が手軽に購入できるようになっています。
移民の多い地域なので、本場の料理がいろいろ楽しめるのもシアトルのよさのひとつ。日本食も浸透しており、寿司、天ぷら、しゃぶしゃぶ、ラーメン、居酒屋、うどん、懐石など、さまざまな料理が味わえます。
芸術が豊かな街
シアトル市内には、たくさんの劇場やギャラリー、コンサート・ホールがあり、年中を通じてさまざまな催しが開催されています。主なものではシアトル・シンフォニー、シアトル・オペラ、パシフィック・ノースウェスト・バレエ、シアトル・チルドレンズ・シアターなどがあります。ポップ・ミュージックやジャズ、ロック、ブルースなどはジャズ・アレーやムーア・シアターなどが代表的。全米ツアーはパラマウント・シアターやフィフス・アベニュー・シアター、クライメット・プレッジ・アリーナ(旧キーアリーナ)などが会場になります。夏にはウォーターフロントや公園、ワイナリーやブルワリー、屋外劇場で、野外劇やコンサート、アートのイベントが楽しめます。
また、街のあちこちにパブリックアートがあります。シアトル美術館やシアトル・アジア美術館に代表される美術館、シアトル歴史産業博物館、航空博物館、コンピュータ博物館など、展示内容も規模もさまざまな美術館や博物館が点在しています。
スポーツ観戦が盛んな街
シアトル市には、日本人に最もなじみがある野球(MLB)のシアトル・マリナーズ、そしてアメリカン・フットボール(NFL)のシアトル・シーホークス、サッカー(MLS)のシアトル・サウンダース、女子サッカー(NWSL)の OL レイン、女子バスケットボール(WNBA)のシアトル・ストーム、アイスホッケー(NHL)のシアトル・クラーケンというプロのチームがあります。