ワシントン州ベルビュー(Bellevue)は、シアトルの東に位置し、レイク・ワシントンを挟んでシアトルと向かい合う位置にある都市です。テクノロジー企業の進出や公共交通の整備、教育環境の充実などにより、全米でも有数の “住みやすい街” として知られています。
ベルビューの歴史
ベルビューの地には、もともとネイティブ・アメリカンが暮らしていましたが、1869年にウィリアム・メイデンバウアー氏とアーロン・マーサー氏が最初の開拓者として入植しました。ウエスト・シアトルのアルカイ・ポイントにシアトルで初めての白人の入植者となったデニー一行が到着してから18年後のことです。彼らは現在「メイデンバウアー・ベイ」「マーサー・スロウ」と呼ばれる地域に住居や農地を開拓したとされています。(Historylink.org参照)
その後、1882年にイザーク・ベシュテル・シニア一家が現在のダウンタウン周辺に移住し、製材所、農場、学校、商店などが誕生。1890年には地域の基盤が整い始めました。
街の名前 “Bellevue” (ベルビュー)は、初代郵便局長のマシュー・S・シャーペ氏がインディアナ州のベルビューから名付けたもので、フランス語で「美しい眺め」という意味に由来します。レイク・ワシントンやカスケード山脈が見えるこの土地にもぴったりと考えたためと伝えられています。
1917年にレイク・ワシントン・シップ・カナルが開通すると、ベルビューからレイク・ワシントンとレイク・ユニオンを経てピュージェット・サウンドと行き来できるようになり、さらにたくさんの企業がベルビューへ進出。そして、1940年7月2日にレイク・ワシントンの東西を結ぶ最初の浮橋が完成すると、シアトルと自動車で行き来することができるようになり、交通の便が飛躍的に改善しました。
ベルビューは1953年にキング郡に併合され、1963年にレイク・ワシントンの西と東を結ぶ二本目の浮橋エバーグリーン・ポイント・ブリッジ(Evergreen Point Bridge:通称520)がベルビュー北部に完成。その後、人口が増え続け、農業の町から郊外都市に成長しました。
日本からの移民と、その子孫の日系アメリカ人の歴史

ベルビュー美術館(2024年8月に閉館)で公開された展示
1882年の中国人排斥法以降、日本やハワイから多くの日本人・日系アメリカ人が鉄道建設、農業、製材、炭鉱などに従事するためにアメリカ本土に渡りました。日系アメリカ人とは、日本から移住した日本人の子孫のことです。
1921年にワシントン州で外国人土地法(Alien Land Law)が制定され、市民権を持たない外国人の土地所有や長期リースが禁止されると、日本人は土地をリースして農業を続けました。さらに、1924年に成立した Immigration Act で日本からアメリカに移住できなくなり、移住が再び許可されたのは戦後数年経ってからでした。
その後、1942年にルーズベルト大統領が発令した大統領令9066により、ベルビューに暮らしていた55家族を含む、米国西海岸の日本人・日系人約12万人が強制収容所へ送られてしまいます。戦後、ベルビューに戻ってきた日本人・日系はごく少数でした。日本人コミュニティ主導で1925年に始まったストロベリー・フェスティバルも中断され、再開されたのは1987年でした。
戦時中の差別とその後の開発
ジャーナリストのデイヴィッド・ナイワート氏による著書『Strawberry Days』(2005年)によると、戦時中、イーストサイドの開発業者ミラー・フリーマン氏は、日本人と日系アメリカ人に対する根拠のない悪評を地域に広め、差別感情を煽動しました。日本人が強制収容所へ送られたのち、フリーマン氏はその農地を利用して、イーストサイドで初となるショッピングモール「ベルビュー・スクエア」を建設。経済的利益のために差別的状況を利用した歴史は、現在も地域の中で議論の対象となっています。
このような過去は、多文化共生と歴史的正義の観点から、地域社会や行政による理解と継承が求められています。ベルビューでは市民団体や文化機関が中心となり、日本人移民の歴史を可視化する活動が続けられています。
「ベルビューはイーストサイドの日本人のヘリテージを称えるために多大な努力をする必要がある」「太平洋戦争が始まった頃には、55家族がベルビューの472エーカーの土地を開墾して農業を営み、カークランドやローズ・ヒル地区にも数家族が住んでいた。1940年の国勢調査では、ベルビュー全体の人口は1,200人に満たなかったため、日系人は人口のかなりの部分を占めていた。ベルビュー高校の1942年の卒業生のうち、クラスの半分の10人が日本人だった」(シアトル・タイムズ)
Eastside Heritage Center は、熊本県からハワイを経て1919年にワシントン州に親子で移住したマツオカ一家についての記事を掲載しています。1921年にワシントン州政府が Alien Land Law を可決し、市民権を持たない外国人は土地を所持することや、3年以上にわたり土地を借りることを禁止しました。そのため、マツオカ一家はケント市にある土地をリースして森林を開墾し、農地にして農業を行うことで、不況でも生活を支えることができたそうです。1925年に地域の日本人コミュニティ主導でストロベリー・フェスティバルが始まり、マツオカ一家も多くのイチゴを栽培して貢献しました。
郊外から都市へ:近年のベルビューの発展と多様性

1953年にキング郡に編入され、1963年には2つ目の橋(エバーグリーン・ポイント・ブリッジ)が完成。シアトルとの接続がさらに強化されると、ベルビューは郊外都市として急成長。かつての農業地域は、住宅地やショッピングエリアへと変貌しました。
現在のベルビューの中心部には、Amazon、Meta、T-Mobile などの大手企業が進出し、数々の高層ビルが建設されています。ベルビュー・スクエアやリンカーン・スクエア、ザ・ブレーバンなどのショッピングモールが集まる一帯は、高級ホテルや高級ブランドの店、ナショナルチェーンが進出し、たくさんの人でにぎわいます。

また、ベルビュー・カレッジでは留学生も少なくなく、大阪府八尾市との姉妹都市交流や、ベルビュー植物園内の「八尾庭園」など、日本文化とのつながりも強く残っています。
ベルビューのダウンタウンからさらに離れると、戸建て住宅が広がり、クロスローズや ケルシークリーク・ファームパーク、ベルビュー・ボタニカル・ガーデンなどがあり、落ち着いた郊外の雰囲気が感じられます。

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