シアトルの東に位置するベルビューは、レイク・ワシントンの東側、一般に「イーストサイド」(Eastside)と呼ばれる地域の最大の街。人口15万1850人(国勢調査 2020年)を抱えるワシントン州では5番目に大きな街で、ダウンタウンの中心部は大企業がオフィスを構える高層ビルが増え、大型ショッピングモールが並んでいます。
ベルビューの歴史
もともとネイティブ・アメリカンが居住していたこの地域にウィリアム・メイデンバウアー氏 (William Meydenbauer:1832-1906) と ア-ロン・マーサー氏(Aaron Mercer:1824-1902)という白人の入植者が住み始めたのは1869年のことでした。ウエスト・シアトルのアルカイ・ポイントにシアトルで初めての白人の入植者となったデニー一行が到着してから18年後です。
Historylink.org によると、メイデンバウアー氏はシアトルのベーカーで、レイク・ワシントンの湾沿い(後にメイデンバウアー・ベイと名づけられました)に住居を建て、その南の今はマーサー・スロウ(Mercer Slough)と呼ばれる地域を開墾しましたが、地価が上昇すると売却し、他の土地で移っていったとされています。その後、イザーク・ベシュテル・シニア(Isaac Bechtel Sr.)とその家族が1882年に現在のベルビューのダウンタウンに近い場所を購入した数年間かけて開墾し、1890年までに製材所や農場、学校や店などが作られました。
ベルビューという名前は、インディアナ州のベルビュー市(Bellevue)から初代郵便局長として赴任してきたマシュー・S・シャーペ氏(Mathew S. Sharpe)がつけたものだそう。フランス語で “Beautiful View”(美しい眺め)という意味の Bellevue が、レイク・ワシントンやカスケード山脈が見えるこの土地にもぴったりと考えたためと伝えられています。
1917年にレイク・ワシントン・シップ・カナルが開通すると、ピュージット湾とも簡単に行き来できるようになり、さらにたくさんの企業がベルビューへ進出してきました。さらに、1940年7月2日にはレイク・ワシントンの東西を結ぶ最初の浮橋、レイク・ワシントン・フローティング・ブリッジ(Lake Washington floating bridge)が完成。シアトルと自動車で行き来することがさらに簡単になりました。
日本からの移民の歴史
1882年に中国人を排斥する Chinese Exclusion Act が成立した後、その代わりとして1890年代から1924年まで日本やハワイから日本人や日系人(日本人は1868年からハワイに移民していました)がアメリカ本土での鉄道の建設工事、製材、炭鉱、魚の加工、農業に従事するために集められたり、移住したりしてきました。
Eastside Heritage Center が、熊本県からハワイを経て1919年にワシントン州に親子で移住したマツオカ一家についての記事を掲載しています。
1921年にワシントン州政府が Alien Land Law を可決し、市民権を持たない外国人は土地を所持することや、3年以上にわたり土地を借りることが禁じられました。そのため、マツオカ一家はケント市にある土地をリースし、森林を開墾して農地にし、不況の最中にも生活を支えることができたそうです。
1924年に成立した Immigration Act で日本からアメリカに移住できなくなりましたが、日本人コミュニティが中心となって1925年にストリベリー・フェスティバル(今も開催されています)をスタート。マツオカ一家も大量のイチゴを栽培し、フェスティバルに貢献したとされています。
「太平洋戦争が始まった頃には、55家族がベルビューの472エーカーの土地を開墾して農業を営み、カークランドやローズ・ヒル地区にも数家族が住んでいた。1940年の国勢調査では、ベルビュー全体の人口は1,200人に満たなかったため、日系人は人口のかなりの部分を占めていた。ベルビュー高校の1942年の卒業生のうち、クラスの半分の10人が日本人だった」(シアトル・タイムズ)
しかし、それも日本によるハワイの真珠湾攻撃で一変してしまいます。
1942年2月19日にルーズベルト大統領が大統領令9066でアメリカ西海岸に住む約12万人の日本人・日系人の強制収容を命じると、日本人と日系人はせっかく開墾した土地のほとんどを失ってしまいました。マツオカ一家もカリフォルニア州やアイダホ州の強制収容所に収容されました。
「カークランドの East Side Journal にあるように、イーストサイドの日系人の間では、妨害行為やその他の不誠実な行為は報道されなかったが、1942年5月までに最後の日系人が財産を没収され、忠誠心を疑われながら、移転収容所に向けてイーストサイドを離れていった」(シアトル・タイムズ)
戦後、強制収容された日本人・日系人は西海岸に戻ることを許可されましたが、ベルビューの農家の90%は戻らず、ストロベリー・フェスティバルも1941年から1987年の間は開催されませんでした。
シアトル・タイムズは、「ベルビューはイーストサイドの日本人のヘリテージを称えるために多大な努力をする必要がある」という記事を1992年に掲載しています。
David Neiwert 氏の著書『Strawberry Days』(2005年)には、イーストサイドの土地開発業者のミラー・フリーマン氏らが日本人について悪評を広めたと記されています。
「日本人と日系人が強制収容されると、フリーマン氏は日本人農家がイチゴを栽培していた農場にイーストサイド初のショッピング・モール、ベルビュー・スクエアを建設した」
ベルビューは1953年にキング郡に併合され、1963年にレイク・ワシントンの西と東を結ぶ2つめの橋エバーグリーン・ポイント・ブリッジ(Evergreen Point Bridge:通称520)がベルビュー北部に完成。その後、人口が増え続け、農業の町から郊外都市に成長しました。
現在のベルビュー
現在、ベルビューはさらに発展を続けています。
ダウンタウンの中心部へは大企業の進出が相次いでおり、高層ビルの建設が進んでいます。ベルビュー・スクエアに加えて、リンカーン・スクエア、リンカーン・スクエア・サウスというショッピング・モールも建設され、高級ブランドの店やナショナルチェーンの店が展開しています。周辺にはベルビュー美術館などがあり、一年を通してさまざまなイベントが開催されます。
ベルビュー・カレッジには日本からの留学生が在籍しています。また、大阪府八尾市の姉妹都市として交流が続いています。
一方、ダウンタウンから少し離れると昔の雰囲気が残っています。ベルビュー・スクエアの南にある「オールド・ベルビュー」と呼ばれる一角は、かつてはイチゴ畑があったところ。現在は数ブロックのみですが、小さな街の雰囲気があり、カフェやレストランやショップなどが並んでいます。
また、ベルビューのダウンタウンからさらに離れると戸建ての住宅が並ぶ住宅地が広がり、クロスローズなど店が集まっているコミュニティ、ブルーベリー農園、農場の Kelsey Creek Farm Park、ベルビュー・ボタニカル・ガーデン、約3万人の学生が在籍するベルビュー・カレッジなどが点在しています。