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インターナショナル・ディストリクト(International District)

2007年に完成した門 Historic Chinatown Gate

ダウンタウンの南にある「インターナショナル・ディストリクト」は、日本や中国・台湾・カンボジア・タイ・ベトナム・フィリピンなどのアジア文化が共存共栄する地域。地元では略して「ID」(アイ・ディー)と呼ばれることも多いです。

日本からの最初の移民が米国北西部に入植した1880年代から、1941年12月に旧日本軍が真珠湾を攻撃し、ルーズベルト大統領がその翌年にアメリカ西海岸の日本人と日系アメリカ人約12万人の強制収容を命じるまで栄えていた「日本町」にも、このエリアが含まれていました。

少し歩いてみるとさまざまな店の看板が目につきますが、この地域のおすすめはやはり何と言ってもレストラン。中国料理は広東料理が中心ですが、上海料理や四川料理、チャーシュー、粥・麺類を専門にしたレストランなども軒を並べています。飲茶を楽しめるレストランは朝から賑わいます。

中国料理以外では、台湾・タイ・ベトナム・カンボジア・マレーシア、日本など、アジア諸国の料理も楽しめます。日本食では1904年に創業した 『まねき』 をはじめ、『つくしんぼ』『藤寿司』『マエカワ・バー』 など、家庭料理や居酒屋風などのレストランがあります。ただ、シアトルでは日本食レストランが一箇所に軒を並べているということはなく、市内各地に点在しています。

パナマ・ホテル・ティー・アンド・コーヒー

その他には中国茶・中国風ベーカリー・カンフー道具専門店・中国系食料品店などもあり、ここ最近はカフェの数も増えてきています。日本人に縁の深いパナマ・ホテル1階を改装してオープンした 『パナマ・ホテル・ティー・アンド・コーヒー』 の経営者ジャンさんは日系移民の歴史保存に力を注いでいる人の一人。そのプロジェクトの一つが、パナマ・ホテル地階に日系移民がオープンした銭湯 『Hashidate-Yu』(橋立湯)のツアー。この銭湯は1910年から第2次世界大戦中を除く1960年まで営業され、その後は放置されたままとなっていましたが、ジャンさんが個人的にツアーを行うまでに発展しています。このツアーは学校・一般向けに不定期に行われているので、問い合わせてみましょう。

日本では高価なエスニック料理も、アメリカでは比較的安く食べられるのがアメリカの良いところ。特にベトナム系レストランやデリが増え、12th Avenue と Jackson Street の角あたりからはベトナム系の店舗が集中的に並ぶ 『Little Saigon』(リトル・サイゴン)と呼ばれるエリアとなっています。牛の尾やハーブを煮続けて作るスープを使ったフォー(Pho)や生春巻など、日本人にも馴染みやすい料理が楽しめます。

宇和島屋ビレッジ

そんなさまざまな文化が共存するインターナショナル・ディストリクトですが、中心となるのは宇和島屋ビレッジ。広々とした店内には日本直輸入の食品や電化製品・和食器などが並び、1階には紀伊国屋書店、タイ料理や中国料理が手軽に楽しめるフードコートもあります。

ウィング・ルーク・ミュージアム

2013年に国立公園サービスの一部となったウィング・ルーク・ミュージアムにもぜひ立ち寄ってみてください。その名前の由来となったウィング・ルーク氏は、数年間の軍役を経た後、政府機関に勤めながら人種差別問題に取り組んだ中国系アメリカ人。1965年に飛行機事故でウィングさんが亡くなった後、「アジア系アメリカ人たちがその歴史や文化を学び、誇りを保てるような場所を作りたい」と強く夢見ていた彼の遺志を継ぐ人々によって、このミュージアムが設立されました。日系アメリカ人を含むアジア系移民に関係する興味深い常設展に加え、社会問題を定義したり、歴史を振り返るような、さまざまな特別展が開催されています。

ストリートカー

インターナショナル・ディストリクトには、ライトレールとストリートカーの駅があります。ライトレールなら空港やダウンタウン、キャピトル・ヒルやワシントン大学、ストリートカーならパイオニア・スクエアとキャピトル・ヒルと簡単に行き来ができます。

また、インターナショナル・ディストリクトからマリナーズの本拠地 T-Mobile Park までは歩いて約10分。ナイト・ゲームのある日には、ここで腹ごしらえをしてから歩いて球場へ向かうのもおすすめです。

インターナショナル・ディストリクトの歴史

1910年:インターナショナル・ディストリクト誕生
インターナショナル・ディストリクトの始まりは、ウォーターフロント地域発展を狙うシアトル市が、プロジェクトの一環として、周辺一帯が埋め立てたのがそもそもの始まり。以来、アジア諸国や米国各地から、蒸気船や鉄道でやって来た移民達が流入するようになりました。埋め立てられたばかりでさびれた土地だったため、住居を構えやすかったのではないかと考えられています。

今に残る日本町の一部

1920年:移民がそれぞれのグループで街を建設
最初に自分達の町を造ったのは中国人。もともとは 2nd Avenue と Washington Street のあたりに居住していましたが、埋め立て後の区画整理に押しやられ、現在のインターナショナル・ディストリクトの中心である King Street でチャイナタウンを作り始めました。そのチャイナタウンの母体ができた頃、日本人が流入し、チャイナタウン北部の Main Street 沿いに 『日本町』 が完成。レストランや乾物屋、クリーニング屋、和菓子屋、銭湯などで賑わうようになりました。

今ではこのエリアの中心とも言えるまでに規模が拡大した日系食料品スーパーの宇和島屋は、そもそも1928年にシアトルの南にあるタコマ市で蒲鉾の販売から始まったもの。その名前は初代オーナーの森口氏が貿易業を学んだ宇和島に由来しています。1942年にカリフォルニアの強制収容所に送還されてしまった森口氏一家は、終戦後、シアトルのメイン・ストリートで蒲鉾製造業と再開し、同時に日本から食料品やギフト商品の輸入を開始。その後、1962年の万国博覧会で日本の製品が大当たりし、日本人以外の住民にも販売網を作り、現在では複数の店舗を展開するまでになりました。

1940年代:第2次世界大戦に米国が参戦
旧日本軍による真珠湾攻撃をきっかけに米国が第2次世界大戦に参戦したことにより、西海岸の日本人・日系アメリカ人は家財没収の上、カリフォルニア州などの砂漠地帯を始めとする米国各地の強制収容所に送られ、日本町はさびれてしまいました。今はその一部が保存されていますが、日本人・日系人にゆかりの建物や場所はインターナショナル・ディストリクトとその近辺に点在しています。

日系アメリカ人の歴史を歩く「無料ウォーキングマップ」

日系アメリカ人の歴史を探るため、ウィング・ルーク博物館とクロンダイク・ゴールドラッシュ国立歴史公園が共同で企画し、ワシントン州日本文化会館に勤務するグラフィック・デザイナーの中村有理沙さんがデザインと翻訳を手がけた無料ウォーキングマップが、半年以上の期間をかけて2018年4月に完成しました。このガイドは日本語版と英語版があります。地図のダウンロードはウィング・ルーク博物館の公式サイトでどうぞ。

1950年代:その他のアジア諸国やアフリカ系移民が流入
その後、フィリピン系移民が流入し、カフェやプールバー、床屋を開業し、アフリカ系移民が経営する食料品店やレストラン、ナイトクラブが軒を並べるようになりました。当時、シアトルのジャズのメッカと言われたのは、South Jackson Street 界隈だったそうです。

1970年代:さらなる発展
1970年代のキングドームと高速道路インターステート5号線の建設により、危うく閉鎖または規模縮小の憂き目を見そうになったが、2世や3世の努力によって、町は発展し続けます。

1980年代:ベトナム人が大量移民
1980年代に入ると、Jackson Street と 12th Avenue の交差点周辺に、ベトナムからの移民が大量移民しました。今ではこの一帯は 『Little Saigon』 と呼ばれ、ベトナム人が経営するレストランや宝石店などが並んでいます。

2010年代:
「インターナショナル・ディストリクト」としてのアイデンティティを維持しながら、さまざまなアジア文化のイベントを開催し、多民族が共存する地域として発展を続けています。



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