シアトルの北東約20マイル(約32キロ)、レイク・ワシントンの北側にあるボセル市は、長年にわたりネイティブ・アメリカンが住んでいた自然豊かな土地を、1870年代に入植した白人が開墾して作った町です。現在はキング郡とスノホミッシュ郡の両方にまたがる郡となり、大企業のオフィスが進出し、1990年代初期のベッドルーム・コミュニティから、郊外ののんびりした雰囲気を保ちつつ、開発が進んでいます。
ボセルのダウンタウンの再開発
ボセル市は南北からは高速道路の405号線、東西からは州道522号線でアクセスできますが、その交差点の再開発が2010年に着工し、2016年に完成しました。周辺には新しいコンドミニアムが建設され、ボセル市役所が2015年10月に移転オープン。さらに、ダウンタウンの中心部の歩道の幅の拡張、街灯や道路標識の一新といったプロジェクトが2018年4月に完了しました。ダウンタウンの再開発プロジェクトについてはボセル市の公式サイトでも確認できます。
かつて蒸気船の停留所があった The Park at Bothell Landing にも、アクセスしやすくなっています。サマミッシュ・リバー沿いのサマミッシュ・リバー・トレイルや、シアトル市とつながっているバーク・ギルマン・トレイルにアクセスする橋も2021年にリニューアルしました。
ボセルの歴史
ボセル市の歴史地区を歩くなら、まずI-405の23番出口からアクセスしやすい、ボセル市南部にある小さなダウンタウンに行ってみましょう。
約2ブロック四方に、「市外にまで行くのはちょっと」という地元シニア向けのような家具店・靴修理店・衣料品店など小さな小売店や、アメリカ料理・タイ料理・メキシコ料理・インド料理・イタリア料理などのレストランやカフェが並んでいます。
Historylink.org によると、沼地と森林に覆われていた自然豊かなこの地域は、1870年代に白人が入植するまで、stash-RAHBSH(Willow People という意味)というネイティブ・アメリカンの部族の居住地でした。
彼らは hah-chu-AHBSH、または People of the Lake と呼ばれるグループとドゥワミッシュ族に属するサブグループで、レイク・ワシントンの北端を流れる川(現在のサマミッシュ・リバー)沿いに住み、シーダー(ヒマラヤスギ)で作ったロングハウスを建て、湖や川からとれる魚や水鳥などの動物、そしてワパト(ジャガイモのような食材)やベリーなどを食べて暮らしていたといわれています。
1854年にネイティブ・アメリカンとアメリカ合衆国は「ネイティブ・アメリカンが現金3万2,500ドル、保留地、猟場・漁場へのアクセスと引き換えに合衆国に土地を明け渡す」という協定を結び、翌1855年に「残る部族が居留地に移住する」という協定を結びました。
しかし、1856年に衝突し、特にニスカリー族のレシャイ族長は協定に署名していないと主張し、1856年1月26日のシアトル攻撃を指揮しました。ネイティブ・アメリカンとアメリカ合衆国の戦争はその後約4年間にわたり続きました。
1870年代初期に、後にボセル市となる地域に白人が入植を開始。カナダ人の製材業者が森林を伐採して製材業を開始。現在のサマミッシュ・リバーに蒸気船の停留所が作られ、1910年代初期まで製材は地域経済の重要な位置を占めていました。ダウンタウンの中心地のそばにあるボセル・パイオニア墓地(Bothell Pioneer Cemetery)には、ボセルという姓の人たちが多数埋葬されています。
1909年にボセル市はキング郡に併合され、正式に Bothell となりました。当時の人口は約600人。
1910年代になると、製材業は下火になり、農業がとってかわりました。1913年にシアトル市からレイク・シティ、ケンモア市、ボセル市、エベレット市を結ぶ高速道路が完成すると、シアトル市やベルビュー市、エベレット市などで働く人のベッドルーム・コミュニティとしてボセル市は転機を迎えます。
ワシントン大学がボセル校を開校
1990年にワシントン大学が最初のボセル・キャンパスをオープン。1992年にはスノホミッシュ郡のキャニオン・パーク(5.3平方マイル)の併合で市の面積が2倍に拡大し、ボセル市はキング郡とスノホミッシュ郡の両方にまたがる市となりました。
また、スノホミッシュ郡で3番目に大きな雇用主として、2000年にワシントン大学がカスカディア・コミュニティ・カレッジとキャンパスを共有する現在のボセル・キャンパスをオープンしています。
ボセルの主な見どころ
W.A. Anderson School (1931年)
もともと Bothell Junior High School として建設され、退職した校長の W.A. アンダーソン氏に敬意を表し、1956年に名称を変更しました。1992年に改装され、McMenamins のホテル、レストラン、カフェ、屋内プールが揃っています。
Bothell’s Historic Mural (2001年)
新しい警察署を作るために廃棄された壁画 『Bothell’s Centennial Mural』 を再生したもの。川の上流からやって来て森林を伐採した白人の入植初期、ボセル市とシアトル市を結んだ鉄道、学校や墓地の建設、そして独立記念日に開催されるパレードの様子などが描かれています。
The Park at Bothell Landing
1916年までボセル市の重要な交通手段だった蒸気船の停留所だった場所。現在はいくつかの史跡が移転され保存されています。
W.A. Hannan House (1893年)
Main Street の 102nd Avenue と 103rd Avenue の間にあった民家。市民団体の指導者で市長・市議会議員・郵便局長・教育委員会委員を歴任したウィリアム・A・ハナン氏(1853-1930)の住居でした。現在はボセル歴史博物館となっています。
Bothell’s First Schoolhouse (1885年)
もともと Main Street に建設された、ボセル初の校舎。一部屋しかないため、数年で生徒全員を収容できなくなった。1989年にこの公園に移転されるまでは、民家として使われていました。
Beckstrom Log Cabin (1884年)
スウェーデン移民の塗装業者で漕ぎ舟でこの土地に到着したアンドリュー・ベックストロム氏とその妻オーガスタは、自分たちでこの小さなキャビンを建てました。3番目の子供ジョンはボセル市で最初に出生届が出された子供で、夫妻には16人の子供がいました。後に160エーカーの土地を購入して住宅を建設し、乳製品製造所を経営して成功を収めたそうです。ベックストロム氏はボセル市教育委員会の設立メンバーとなり、後に Swedish Lutheran Church を設立し、オーガスタは助産師兼非公式の医師として働きました。
Wetland Whimsy Bike Rack
Park at Bothell Landing にあるバイク・ラック。鷺・水・植物・切り株がデザインされていて、自転車を取り付けるのがもったいないような作品です。
Alice Seaton Mural
レンガ造りの立派な警察署から通りを挟んだ駐車場にある壁画。リズ・ブライアーズが手がけたもので、病気になった夫のアーネストに代わり、ボセル・ルート・1の郵便配達を請け負った妻アリス・シートン(1889-1980)と馬車が描かれています。ボセル市によると、アリスは米国郵便を配達した最初の女性で、1914年8月15日から1918年11月5日まで勤務しましたが、「一家の大黒柱である男が担うべき仕事」と主張した男性に職を奪われてしまいました。病気の夫と子供4人を抱えたアリスが大黒柱だったことは考慮されませんでした。
Ericksens Mural
アリス・シートンの壁画を作成したリズ・ブライアーズによる作品。ノルウェー移民で初代郵便局長など重要な職を務めたゲールハード・ヨハン・エリックセン(中央:1860-1920)、雑貨店を経営したカールトン・ジョン・エリックセン(左端:1891-1983)、ワシントン大学卒業生で大学フットボールで活躍し、27年にわたり自動車売買を生業としたカールトン “バッド”・L・エリックセン(右端:1916~)という、3代にわたるエリックセン家の男性が描かれています。
Vern Keener Mural
マックス・ログスドンのすぐ横にある、同じくパット・ベンソンの作品。ヴァーン・キーナーはこの場所で精肉店とデリを経営し、地域社会に大きく貢献したとされています。
Alex Sidie Mural
マックス・ログスドンとヴァーン・キーナーの向かいにある、同じくパット・ベンソンの作品。薬局を経営していたアレックス・サイディは常に地域住民の健康を気遣い、営業時間外でも対応したとされます。この行為を称え、ボセル市では毎年、Alex Sidie Random Acts of Kindness Award を人道的な行為をした市住民に授けています。常に数匹の猫を飼っていたことから、この作品でも足元に白黒のかわいらしい猫が1匹ちょこんとすわっています。
Bill Shannon Mural
花屋の経営者だったビル・シャノンはコミュニティ・サービスに積極的に参加し、ユーモアに満ちた人物だったとされます。この壁画を手がけたのもパット・ベンソンでした。
ノース・クリーク・ウェットランズ
ワシントン大学ボセル校とカスカディア・コミュニティ・カレッジは58エーカーの広大な沼地に面しています。
1800年代に白人が入植するまで、現在のサマミッシュ・リバーにあたる川に合流する小川などが流れていたこの土地は、白人によって森林が伐採され、材木を運搬するために川の流れが変えられ、人工の堤防が設置されてしまいました。
1990年代初期には牧草地と農地に変えられましたが、1994年にキャンパスの建設のために買収され、それ以後は沼地の復元が進められています。