3月のある日、とあるスノボー屋で、とても素敵なポスターを見かけました。それは、シアトルに拠点をおく歌手の島田亜衣子さんの3枚目のアルバム・リリース記念ライブ開催のお知らせでした。 3月19日、パラドックス・シアターで行われたこのライブに行かれた方もおられると思いますが、今月は、その島田亜衣子さんに、お話を伺いました。
※この記事は2000年5月に掲載されたものです。
島田 亜衣子 (しまだ・あいこ)
1982年 高校卒業後、オレゴン州立大学のESLへ。
1983年 オレゴン州立大学へ入学。
1987年 ルームメイトにギターをもらう。これが音楽の道へ進むきっかけに。
1988年 大学のラジオ局のDJになる。ジャズを聞くようになるが、作曲をすすめられる。
1989年 初めて自分の曲を作る。ジャズからの離脱。
1992年 カセット”Aiko Shimada”をリリース
1994年 カセット”Lullaby of Bali Children” (ララバイ・オブ・バリ・チルドレン)をリリース。
1996年 1枚目のアルバム ”Bright & Dark” をリリース。
1998年 2枚目のCD “Window” をリリース。
2000年3月18日 3枚目のCD “Another Full Moon” をリリース。ライブ開催。
2000年 夏 日本でCDを発売予定。
2000年 冬 『Tzadik』から、CDを全世界で発売予定。
3枚目のアルバム・リリース、おめでとうございます。
ありがとうございます。このCDのタイトルは “Another Full Moon” と言、タイトルの “Another Full Moon” や 日本語の “別れ” を始めとする11曲が収録されています。前の2枚のCDと違うところは、今回は “Aiko Shimada Band” という自分のバンドと一緒にレコーディングしたという点です。また、今回のレコーディングは、シアトルのシンガーソングライターや有名ミュージシャンもおすすめする、Tucker Martine との共同プロデュースで行いました。彼は非常に音に敏感で、高い技術を持った方なので、とても楽しく仕事ができたと思います。
音楽との出会い
島田さんは、小さいころから音楽を勉強されていたのですか?
実は、音楽を本格的に始めたのは大学時代で、小さいころは音楽をやる機会に恵まれませんでした。というのは、私は早産でもないのに虚弱体質で、6歳の時には病院に1ヶ月も入院したりするなど、8歳ぐらいまで神経が弱いと言われて育ったからです。そしてお医者さんにも「高校生ぐらいになるまでは、このまま」と言われたりして。でも、「そんなに待てない」と発奮した母が、私を水泳やガールスカウト、キャンプなどに積極的に参加させ始めたのが功を奏して、数年後には “サイボーグ島田” なんてあだ名がつくぐらい、とにかく丈夫な子供になりました。というわけで、スポーツやアウトドアに忙しい子供時代を過ごしました。でも、小さいころから音楽は私の中にあったらしく、小学校の時、音楽部に入っている友達に音楽室にいれてもらって木琴を弾いたりするなど、音を楽しんではいたようです。
初めてアメリカへ
島田さんがアメリカに来られることになったのは、なにかきっかけがあったのですか?
そうですね、きっかけというよりも、両親の影響があったのかもしれません。父が出張で行った外国のスライドを見せてくれたり、母が美術館や映画で外国に親しませてくれたのが、大きいでしょうか。そして、9歳の時に自分と同年代ぐらいのリトル・リーグの女の子達を描いた 『がんばれ Bears!』 という映画を観たとき、「絶対にアメリカに行きたい!」と思いました。ですから、高校卒業後にアメリカに行くと決めたのも、とても自然でしたね。
アメリカへ渡るということに関して、ご両親はどのように思われたんでしょう?
両親はとてもリベラルで、小さいころから勉強に関してもうるさくなく、私を塾に送り込むなんていうこともありませんでした。また、私は不良ではなかったのですが(笑)、規則にがんじがらめになった学校が大嫌いで、高校時代はよく授業をさぼってローラースケートをしたりしていたんです。ですから、卒業したときは、母親が「よく卒業できたね」と言ったぐらいで、アメリカに行くことに関しては、「どうせ日本の大学は勉強するようなところではないようだから、それならアメリカに行った方が良いのでは」と、応援してくれました。
そして、大学時代を過ごしたアメリカで、音楽にめぐり合ったというわけですね。
そうです。でも、最初の5年間は音楽とは無関係なところにいました。オレゴン州立大学のESLに1年通い、その後、同大学に入学。そして、1987年のある日、ルームメイトがギターをくれたのです。それからでしょうか、私の音楽が始まったのは。まず知り合いにギターを教えてもらうことになり、ギターのネックに指を置くところの絵に描いてもらって、少しずつ勉強し始めました。
大学での音楽との出会い
1998年、大学のラジオ局でDJを務められたそうですが、それも何かのきっかけになりましたか。
自分の音楽を始めるきっかけになりましたね。まず、最初は「DJ !?そんなことできないよ!」と思ったのですが、友達が「誰でもできるから」と、強くすすめたので、物は試しとやってみることになったのです。そこで、ほんとうにたくさんの音楽を聴きました。音楽は私の中にあったという感じで、すぐに耳で覚えて体の中に入ってきました。そして、ある日、カフェでフォーク・ロックを演奏していたローカルのバンドに、バックアップ・ハミングをやらせてもらえないか頼んだのです。そうすると、リズミカル・ギターだったら入れてあげると言われ、約1年間そこでギターの経験を積みました。
そこでまた人生の転機が訪れたそうですが・・・。
そのバンドに入ってから1年後の1989年、あるミュージシャンに作曲をすすめられたのです。これまた訓練を積んでいなかったので、最初は書けないと思ったのですが、ベーシックなコードを本で勉強し、宿題として自分に課しました。自分に対するチャレンジでした。
いかがでしたか、最初の曲は?
できたときは、「やったぁ!できた!」という感じで、本当に嬉しかったです。音楽の訓練をしていなかったことが、逆に自由な作曲につながったのかも。逆に、今改めて基礎を習っているところですよ。(笑)
それから、自作の曲で音楽の人生を進み始めたわけですね。
そうです。1992年に、”Aiko Shimada”、そして1994年には、”Lullaby of Bali Children” (ララバイ・オブ・バリ・チルドレン)というカセットを出しました。このララバイ・・・は、私の1枚目のCDにも収録されています。
CDをリリース
そして、1996年に、とうとう1枚目のCDをリリースされたわけですね。
デビュー・アルバムのタイトルは、”Bright & Dark” です。これは、私の夫でベーシストの Mark Collins、オレゴン出身の Mark France、そして知り合いのミュージシャンと一緒に、古い曲や当時作ったばかりの曲を収録したものです。良い曲ばかりですが、今自分で聴くとなんだか照れますね(笑)。
そして2枚目のCD、”Windows” が1998年に発売されましたが、2年ごとにCDをリリー スするというのは、非常に大変なことではないですか?
そうですね。でも、私の場合、だいたい前の収録の1年後ぐらいからモヤモヤし始めるものですから(笑)。時機が来る、というのでしょうか。そうしたら、スタジオ探しを始めて、同時に選曲を始めます。私は今まで100曲以上書いているのですが、その中に録音されていないものもあるので、そこから選んでいったり、新しく書いたりします。そして資金を用意し、スタジオを決め、ミュージシャンを選別し・・・とやっているうちに、あっというまにレコーディングの日となります。スタジオを決めるのはとても難しいのですが、この “Windows” のレコーディングには、シアトルのシンガーソングライターがおすすめしてくれた、タコマのスタジオを使いました。やはり、口コミが一番役立つ情報かもしれません。
そしてまたその2年後の今年、3枚目のCD “Another Full Moon” をリリースされ、3月 にライブを開催されましたが、いかがでしたか?
とても楽しかったです。今回はパラドックス・シアターという250人を収容できるところで開催しました。それまでは100人ぐらいの規模のところでやっていたので、そのシアターがまるでオペラハウスのように巨大な物に思え、前日までとても心配でした。でも、当日は本当にたくさんの人が来てくださって、とてもうまく行きました。また、友人のおよよシスターズが前座で出演してくれ、「せっかく一緒にやるんだから、何かやろうよ!」と、山本リンダの 『狙い撃ち』 なんかを歌ったんですよ(笑)。
これから
次のCD発売のご予定はありますか?
はい。私の4枚目のCDは、John Zorn という人の出資・アレンジ・プロデュースで、彼自身の “Tzadik” というレーベルから世界中で発売されることになりました。彼自身、サックス奏者で日本に8年ぐらい住んでいたというミュージシャンでもあります。とても変わった音楽もプロデュースする人なのですが、私の音楽をとても気に入ってくださり、「売れるように作るのは最後に考えることで、好きな音楽を最高の技術でプロデュースしよう」と言ってくださったのです。そして、エンジニアがコンピューターを駆使したいろいろなアレンジをしてくださり、本当に勉強になりました。このCDは、今年の冬頃に発売予定です。
また、今年の夏に日本でのみ発売されるCDもあります。これは、East Works Entertainment(EWE)という会社のプロデュースで、以前シアトルにいた方が、EWEの方に私のCDを渡してくれたことから始まりました。EWEは、日本で発売されていないような音楽をプロデュースするようなところで、私の曲を大変気に入ってくださり、いろいろ難しいこともあったのですが、なんとか発売までこぎつけそうです。
本当に島田さんの音楽を気に入ってくださったから実現したのですね。
元来、私は自分の好きなようにプロデュースしたいという方なので、「大きな会社に出資してもらい、自分でプロデュースしたい」と考えていたのですが、このように、私の音楽を本当に気に入ってくれて、精魂込めてプロデュースしてくれる方々に出会えたことは、本当に幸せなことだと思います。
最後に、これからの抱負をお聞かせください。
音楽は、聴く人の感性などによって、受け止め方はさまざまです。でも、私の音楽を気に入ってくださる方との出会いがあると、改めてもっと自分の音楽を追求していこうという姿勢になります。そして、これからは、音楽が生活の中に溶け込んでいるような国に旅行したりして、いろいろな人と、いろいろな曲を演奏したいと思います。
掲載:2000年5月