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シアトルの切り絵アーティスト・曽我部あきさん

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パイク・プレース・マーケットの発展に貢献した日系人の歴史を伝える切り絵『Song of the Earth』の1枚

パイク・プレース・マーケットや宇和島屋ビレッジ、日系マナー、シアトル・センターなど多数のパブリック・アートや子供の絵本など、多方面で切り絵アーティストとして知られている曽我部あきさんにお話を伺いました。

もくじ

切り絵との出会いと渡米

切り絵を始められたきっかけを教えてください。

中学生だった頃に新聞で中国の切り絵を見て、「こういう物があるんだ」と、真似をして色紙を切ってみたのが始まりです。もともと漫画を描いたりすることが好きでしたので、手で何かを作るのは性に合っていたようですね。大人になってからも、勤務先の同僚の誕生日に切り絵でプレゼントを制作したりしましたが、プロになったのはアメリカに来てからです。

アメリカに来ることになったのはなぜですか。

ハワイで生まれでサンフランシスコ育ちの日系人である夫が、仕事の関係でシアトルに移ることになったのがきっかけです。学校を終え、遺伝学研究所で人類遺伝学教授のテクニカル・アシスタントをしていた私は、ハワイ大学に招かれた教授に同行してハワイに行き、1年間滞在した後に日本に戻る時の船で夫と出会いました。

飛行機もありましたが、まだ船での往復が普通だった頃のことです。その後、ハワイで結婚し、船舶関係の仕事をしていた夫とシンガポールに3年住んでから、1978年にシアトルに来て以来、ずっとシアトルに住んでいます。

切り絵アーティストとして活動

プロフェッショナルのアーティストになるまでの経緯を教えてください。

初めて絵を買ってくれたのは、当時通っていた歯科医の奥様と、その歯科医に医療器具の販売に来ていたセールスマンでした。その歯科医の受付の女性と話しているうち、お互いが絵を描いていることがわかり、「次に来る時は、あなたの絵を持ってきて」と言われたので、次の治療の際に持参した作品が売れたのです。まだ自分のスタイルが確立されておらず、作品を売ったこともなかったので値段をどうつけていいかもわからず、今でしたら500ドルぐらいで売れる作品を50ドルで売りました。

それからこのあたりの小さなアーティスト・グループに入り、ショーに出品するようになると、少しずつですが作品が売れるようになりましたので、政府にプロフェッショナルのアーティストとして正式に登録しました。

当時、シアトルで切り絵は馴染みのないものだったのでしょうか。

切り絵はシアトルではそれほど知られていませんでしたが、ドイツ人やユダヤ人なども伝統的な切り絵をしますので、まったく新しいもの、日本や中国だけのものということはありません。最初の頃には、ユダヤ人の方と二個展をやったこともあるぐらいです。また、東海岸にあるギルド・オブ・アメリカン・ペーパーカッターズ(GAP)という団体にも所属していますが、100数名の方々が切り絵をされており、シアトル地区でもこの団体に所属されている方々が3人ぐらいおられます。一緒に作品展をやったこともありますよ。

世界にはいろいろな切り絵の形がありますが、私の切り絵は自分流で、他の方とは異なります。最初は伝統的な方法でやっていたのですが、だんだん自分のやり方を編み出していきました。アーティストというものは、そうあるべきだと思います。初心者の場合はみな同じかもしれませんが、だんだん自分の方法を生み出していくようになりたいですよね。今は、「あきさんの絵というのがすぐわかる」と言われると嬉しいです。とは言え、まだまだ勉強中です。終わりはありません。

作品はどのように制作されるのですか。

昔はよくスケッチしましたが、写真ならすぐに何枚も撮影できるので、景色をじっと見て頭の中に入れてから写真を撮影します。そして、その写真を見ながらトレーシングペーパーに切り絵風にデザインを描きます。それを紙に写して切り、色の部分はそれぞれに切った色を裏から貼ります。ですから、裏から見るとパッチワークのよう。できあがったら、イラストレーション・ボードに貼り、できあがりです。作品の大きさや密度によりますが、平均的な大きさであればスケッチを始めてから3日ぐらいで完成します。

アーティストはみんなそうだと思いますが、アイデアが浮かぶと夜中でもエキサイトして寝られず、一度に何十枚も描いたりするのです。でも、すぐに興味がなくなってしまうこともあるので、アイデアが来た時にものすごいスピードでパッと仕上げてしまうんですよ。私の場合は、複数の作品を同時に仕上げることが多いですね。自分のそういった盛り上がる気持ちを持続させるのが大変ですが、会社勤めの勤務時間と同様の時間をかけて、作品の制作に携わっています。私が活動的で多忙なのは遊んでいるからではないので、夫もとても理解してくれていますし、喜んでくれています。夫はもうリタイヤしましたので、1週間に3日は夫が、4日は私が料理をし、料理をしていない方が皿を洗うといった、お互いに無理のないようになっています。そして、夕食の前後に秋田犬と一緒に散歩をしています。

苦労されていることはありますか。

制作するにあたって、私はやはりいつもお客様のことを考えていますが、お客様も十人十色。アート・フェアなどに来られた方が、「ここに木がもう1本あれば買うのに」と言われたりすると、昔は「ああ、私の絵はだめなんだろうか」と、落ち込みました。今は、そういう落ち込みはありません。生意気になったということではなく、「お客様もいろいろだから、ここに木が1本あったらそれを気に入らないという人もいる。だから意見は意見として聞きながら、あまり気にせず、常に努力してもっといい作品を作ろう」と考えているのです。

ベルビューのフェアには毎年何人もの常連さんが来てくださって、「前よりも良くなった」などと言ってくださると嬉しいです。販売する場合、その作品を本当に好きでなければいけないと思いますが、あまり好きであると自惚れてしまって周りが見えなくなることもあるでしょう。自分の絵がいいと思いすぎて、自分が変わってしまうこともあります。そうならないよう、いつも考えています。

インスピレーションが湧く時という決まった状態はありますか。

インスピレーションはどんな時に湧くかは決まっていません。時間があって椅子にすわって考えても、出てこない時は出てきません。以前は夢がとてもいいインスピレーションを与えてくれていたので、夢日記なんてものもつけていたことがあります。ある晩、冷蔵庫の中に野菜や果物などが切って入っている夢を見ました。野菜や果物などの切り口はとてもきれいですよね。そういう夢を見ると、「これは絶対に切り絵にしなくては」なんてメモしておいて、作品にしたりします。また、アイデアが出てこない時は、これまで描きためてきた2千点以上のスケッチを見て学んだり、子どものワークショップで子どもが無心に作ったものから何かを学んだりします。私の場合は、努力して経験を積むことによって、新たなインスピレーションが生まれるようです。

普段はどのように作品を販売・展示されていますか。

制作した作品を販売する面で最も重要なイベントは、ベルビューで毎年開催されるアーツ・アンド・クラフト・フェア。2005年で連続参加23年目になりましたが、8年ぐらい前から参加アーティスト約320人の売り上げ比較でトップ10%に入っていますので、今は招待されて参加しています。だんだんと顧客もついてきますし、毎年来てくれる方々がおられますので、これだけは真剣な商売です。

私は風景画が好きで、私のスピリチュアル・マウンテンであるマウント・レー二アには毎年ハイキングに行き、自分の目でよく見て作品にしていきます。また、浮世絵に出てくるような女性がエスプレッソ・バーでエスプレッソを飲んでいるといった、おもしろい作品を1年に2つほど作成します。去年は 『メリー・クリスシマス』 という作品で、サンタクロースがルドルフに寿司をあげている作品を制作しましたが、これがとても人気でした。あまりふざけすぎず、きれいでおもしろい、お客さんが笑ってくださる作品は、制作する上でもとても楽しいです。

パブリック・アート制作やワークショップ開催など活動の場を拡大

宇和島屋ビレッジの入り口にある作品など、曽我部さんはパブリック・アートも多く手がけておられますね。

宇和島屋ビレッジの入り口にある筒のようなタワーは、ビレッジのオープンで記念にとデザインを依頼されました。タイトルが掲示されていないのですが、『宇和島屋ドラゴン』 と呼ばれています。

この 『宇和島屋ドラゴン』 を含めて、パブリック・アートは今のところ、パイク・プレース・マーケット、日系マナー、シアトル・センターの4つ。特にパイク・プレース・マーケットは日系農民が始めた市場ですから、日系人の思いが満ちている作品で、たくさんの方々にご覧いただいているようで嬉しく思います。一般に公募された中から選ばれたのですが、絵そのものには1ヶ月ほどかかり、スケッチを出してミーティングなどをして直した時間を考えると、半年ぐらいかかりました。

宇和島屋の作品でも安全の面からいろいろな規制がありましたが、パブリック・アートは自分の作品がそのまま形になるものではなく、さまざまな変更が加えられていって完成するものです。このように大きなプロジェクトは半年から1年かかりますね。また、ノードストロムがシアトル店とポートランド店で開催したアジア・太平洋諸島出身アーティストの作品展(2005年)や、リンウッドのコンベンション・センターでの作品展(2005年)、オレゴン州でのオレゴン・トラウトのブランケットのデザイン(1997年)など、さまざまな作品展やデザインに参加しています。

曽我部さんは子ども向けのワークショップなども積極的に開催されています。

桜祭りや秋祭りなどの文化的なイベントでは子供向けのワークショップを行っています。こういった文化的なアクティビティはボランティアですが、子どもから学ぶことは多いですね。学校から招待されてワークショップを行う場合は、自分の作品が掲載されている本を持参するなどして制作過程を説明し、さらに子供たち自身のクリエイティブな面を引き出すようにします。

全員がアートを好きなわけではありませんから、感心するぐらいすばやく何かを作り上げる子供から、少し失敗すると「もうやりたくない」と言う子どももいますので、子ども相手に話をする時は、いつも 『ロイヤル・キャット』 という絵本を作った時の話をするようにしています。絵本の場合はまずマニュスクリプトを読んでキャラクターを考えますが、その本の主人公である猫を「白猫にしようか、三毛猫にしようか」と、いろいろ考えていました。でもなかなか決められない。そこで、猫のスケッチだけをしたところで電話が鳴って立ち上がった時にコーヒーが揺れ、そのスケッチに染みを作ったのです。ところがその染みがちょうど良くて、「あ、じゃあ濃淡をつけた茶色にしよう」と思い立ち、その猫は三毛猫になりました。

ですから、失敗してグズグズ言い出す子どもにはいつもそのお話をして、「失敗しても全然心配するようなことではない、これだってとんでもない失敗なのに、それをこういう風に作品に仕上げてしまうのがいいことなんだから。失敗したら感謝しなくちゃ、失敗しなくては誰も成功しないよ」と説明します。子どもに教えるのは易しいようで易しくありませんが、いつも学ぶことがあります。子どもは大人よりこだわりがあることがあります。それが子どものいいところかもしれません。発想がとらわれていないので、自由なのです。

今後の抱負を教えてください。

今はインターネットがありますので、ワシントン州だけでなく、他州や外国からも私のことを見つけてくださり、さまざまなお仕事の依頼をいただくことができるようになりました。とても便利ですね。また、日系マナーで使われているガラスのパネルの鶴は私がデザインしたものなのですが、今度、ある日系コミュニティのプロジェクト・デザインを手がけることになりました。日系人は自分たちの歴史を後世に残そうという強い気持ちの元に、多方面にわたり努力をしています。私自身は日本生まれで日本育ちですが、こちらに骨をうずめる気持ちで米国籍を取得しましたので、日系人たちのプロジェクトにもできるだけ貢献していきたいと思っています。

曽我部 あき(そがべ あき)
1975年 結婚し、シンガポールへ
1978年 シアトルへ
1980年代 プロフェッショナル・アーティストとして正式登録、現在に至る
【公式サイト】akisogabe.com

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