インターナショナル・ディストリクトで75年にわたって営業してきた “Higo” が閉店したのはこの6月。その約5ヵ月後にあたる先月19日、その店舗スペースに “Higo” とシアトル日本町の歴史を保存するべく “Kobo at Higo” をオープンした、びんこ&ジョン・ビスビーさんにお話を伺いました。
※この記事は2004年12月に掲載されたものです。
びんこ・ビスビー
1958年 日本に生まれる
1964年 シアトルへ
1988年~1992年 日本に住む
1993年 “Kobo” をキャピトル・ヒルに開店
2004年11月 “Kobo at Higo” をインターナショナル・ディストリクトに開店し、現在に至る
Kobo
814 East Roy Street, Seattle, WA 98102
(206) 726-0704
Kobo at Higo
602-608 South Jackson Street, Seattle, WA 98102
(206) 381-3000
Kobo 開店まで
“Kobo” を開店するきっかけとなったのは何でしょうか。
びんこ:
夫のジョンと私はアート、アーティスト、そして作品を手で作っていくことに、昔から関心がありました。ジョンは建築家ですが、20代の時にはカーペンターやサインを手で描くことで会社を経営していたこともあります。私は日本で生まれ、ライブラリアンだった私の母は日本の民芸にとても関心があり、日本では必ず工芸品を販売する店をまわって作品を購入していました。ですから自宅にそういったものがある環境で育ったことに大きく影響されたと思います。
その後、私は陶芸を勉強し、ジョンと一緒に1988年から5年間にわたって日本に住み、陶芸スタジオに入りました。たくさんの若手陶芸家に出会い、さまざまなスタジオを訪ねるようになりましたが、その時から私たちは「アメリカやシアトル、またはニューヨークでこういった作品のギャラリーやショップをやることができたらおもしろいだろう」と思っていたのです。そして、1993年にシアトルに戻って来ました。
当時のシアトルで日本の陶器などは紹介されていたのでしょうか。
びんこ:
当時のシアトルでは私たちが日本で見たような作品を見つけることはできませんでした。アートの高級ショップはあっても、ファンクショナル・ウェアのようなものを販売するショップやギャラリーはなかったのです。また、陶磁器もありませんでした。日本やヨーロッパには陶磁器の長い歴史があり、それに対する尊敬があります。でも、アメリカは歴史の短い国ですから、陶磁器に対する正しい認識がありませんでした。ですから私たちはここに住む人たちに、小さなスタジオで手で作られた作品を紹介しようと思いついたのです。これらはオブジェクトではありますが、機械で大量生産されているわけではなく、その裏にはアーティストがいて、細かな手作業があり、いかに長い時間をかけて作られているのかを伝えたかったのです。
オープン当時のことについて教えてください。
びんこ:
最初は名古屋出身の74歳の女性がキャピトル・ヒルで日本のアンティークを売っていた小さな店の一角を貸していただくことにしました。そこで友人と私が制作したコンテンポラリな作品を展示したところ、新鮮な作品を見ることに興味を抱く人たちが現れ出したのです。そしてこの女性がリタイアすることになり、私たちは迷わずその小さなスペースを借りることを決定しました。そして1年半後に現在の店舗がある隣のスペースに移転し、現在に至ります。
現在の “Kobo” ではどのようなものを展示・販売されていますか。
びんこ:
ローカルや日本のアーティストを中心に、さまざまな作品を展示・販売しています。ニューヨークまでアーティストを探しに行くこともあります。ショーに行ってアーティストに会ったりもします。イギリスにも行ったことがありますよ。今は子供がいますので、以前よりも旅をする機会は少なくなりましたが、日本には少なくとも1年に1度、その他の土地へはたぶん2~3年に1度ぐらい行きます。でも、一度コンタクトをとってしまえば、今はメールでコミュニケーションができますし、アーティストもウェブサイトを持っていますから、お互いを見つけるのも以前と比べると少しは簡単になりました。
“Kobo” にシニアの方々が来店され、「ここに幼い時によく来たわ。その頃は女の子向けの服屋だったのよ」と教えてくれたりするほど、あの建物にも歴史があります。また、正面にある映画館 Harvard Exit では外国映画や珍しい映画ををよく上映しますので、いろいろな国の人たちが来店してくれます。ちょっとしたコスモポリタン・コーナーですね。
“Kobo at Higo” 開店まで
この店舗スペースを “Kobo at Higo” として開店されるに至った経緯を教えて下さい。
びんこ:
この建物は現在の所有者である村上マサさんのお父様が1933年に建てたものです。当初、村上さんご一家はメイン・ストリートに最初の店を開店されましたが、資金を貯めてこの建物を建て、このスペースに “Higo Ten Cent Store” を開店しました。その “Higo” は75年を経て今年6月に閉店しましたが、今度は “Higo” とマッチするようなビジネスが適当だということで、入居希望者を探していた際、私たちと村上さんの共通の友人が「”Kobo” と “Higo” は、とてもあうと思う。興味はないか」と電話してきてくれたのが、そもそもの始まりでした。
私の最初のリアクションは「え、でもあの場所はとても大きいし、私たちにはできると思わない。大変すぎる仕事だわ」というものでした。でもとりあえずポールさんと一緒にここに来てみたところ、「これは歴史を保存する1つの方法であり、なされなくてはならない仕事だ」と感じたのです。そして、ここにあったものを完全に消し去るのではなく、私たちがこれまでやってきたことと融合させる形が、私たちには見えました。ジョンは建築家なので、スペースを見れば「完成したらどうなるか」を見ることができますし、フロア・プランニングや完成に至るまでのプロセス考えることができます。私自身はそこに入るものを選び、アーティストと仕事をし、展示を考え、運営をするのが専門です。このように、私たちが1993年からやってきたことを役立てながら、ポールさんを始めとするたくさんの人が毎日手伝ってくれたおかげで、先月19日には予定通り第1段階のオープニングを実現することができました。私たち2人だけではとてもできることではありませんでした。とても光栄に思います。
ジョン:
私たちは “Kobo” を経営し、家賃や電気代などの支払いをするぐらいの収入はあります。でも、大儲けをしているわけではありません。この “Kobo at Higo” も「大きなスペースを借りたから、あそこは儲かっている」っていうことではないんですよ。時間と労力はたくさん使い、大金は使っていないというだけなのです。つまり、たくさんの人々が “Kobo” に成功してほしいと思ってくれています。”Kobo” のアーティストに出会い、そのアーティストを通していろいろな作品に出会いたいのです。
大きなスペースの中で、リテールとギャラリーがすてきな感じに仕上がっていますね。
びんこ:
このスペースは3,700平方フィート以上あります。先月19日にオープンした時は、その半分にあたるリテールとギャラリーがオープンしました。リテール・スペースはキャピトル・ヒルの”Kobo”とは違う趣きになっています。それぞれのロケーションにはそれぞれの顔があり、ここは “Kobo at Higo” として、残りの半分のスペースには “Higo” で使われていたキャビネットなどを再利用し、埋もれていた家具や記念品などのさまざまな品々を展示し始めています。そうすることによって、来店する人にも “Higo” 、そして日系アメリカ人が強制収容所へ送られるまでこの周辺に栄えていた日本町の歴史を知っていただけるようになれば嬉しいです。
ジョン:
ガラス・ケースに使われているガラス自体も古いもので、すこしぼこぼこしているため、はっきり見えません。まさに、未来をはっきり見ることができないのと同じです。また、”Higo” や倉庫に埋もれていた品々は、そのままではどういうものなのかよくわからないかもしれませんが、この1930年代のケースにいれることによって、その歴史を体で感じることができます。今後、ケースには各品物についての説明文を貼付するつもりです。
びんこ:
例えば、強制収容所の限られた素材から作られたスツールがあります。木はクレートを分解して作ったもので、クッションは誰かのコートを切って作ったもののようです。
ジョン:
それについて何も知らなければ、ただのスツールとして放っておくかもしれません。でも、1930年代のガラスのケースに入れると、突然それが特別なものであることが見えてくるのです。
シアトルの日本町
びんこさんご自身もその日本町を実際に訪れたことがありますか。
びんこ:
私たちが初めてシアトルに来た1960年代に営業が続けられていた和菓子屋の 『相模屋』(さがみや)を覚えています。そこで私の従姉が働いていたんですよ。最盛期の頃の写真は Panama Tea and Coffee にも展示されています。強制収容所のことはとても暗い事実です。でも、私たちがこの新しいスペースで伝えたいのは、その強制収容所の前に何がここで起こっていたのか、です。今のシニアには日本町で過ごした幼少時代の楽しい思い出がたくさんあります。彼らと話をすれば、そういった話がたくさん出てきますよ。
ジョン:
当時の日本町に住んでいた人が記憶を頼りに描いた日本町の地図があります。最盛期にはジャクソン・ストリートの東西南北に数ブロックの地域で、日本人がたくさんの店を経営していました。この “Higo” がある大きな建物はもともと小さな店舗に分割され、周辺にはたくさんの店が並んでいたのです。でも戦争が始まって、日本人は強制収容所へ送られることになり、店をたたまざるを得なくなったのです。
びんこ:
所有品や土地や建物の世話を知人に頼んで、店をたたんで・・・。ポールさん一家もこの建物の世話をユダヤ人の家族に頼んだそうです。そしてすべての窓やドアが木の板でふさがれ、日本町は誰もいないゴースト・タウンのようになってしまいました。そして、戦争が終わり、日系人たちは強制収容所から釈放されましたが、この日本町が再び栄えることはありませんでした。日本町についての本はいくつかありますが、”Devided Destiny” というシアトルの日本町についての本によると、1930年代にシアトルにあったホテルの65%は日本人が所有していたそうです。その他にも、日本町は小さなコミュニティではなく、とてもパワフルでアクティブなコミュニティだったことを示すいろいろな統計が掲載されていますので、ご参考になるかと思います。
その日本町の歴史を後世に伝えることは、お2人にとってどういうことを意味していますか。
ジョン:
インターナショナル・ディストリクトの現状からは、大事な歴史の一面であるその日本町のことは忘れ去られているため、日本町があったことを知らない人は「なぜ今、日本町なのか」と疑問に思うかもしれません。しかし、そこの所有者が亡くなったり、ビジネスをやめてしまったり、別の土地へ引越したりしてしまっても、ここは日系アメリカ人の歴史がある日本町が栄えたところなのです。ですから、このエリアが日本町だったことを伝えようという動きが生まれました。私はシアトルで育ちましたが、日本町があったことは知りませんでした。でも、最近この仕事を始めて、日本町が想像を超えるすごいものだったことを感じるようになりました。かつてのような日本町を復興させることはできないでしょうが、歴史を称え、それを展示することはできます。私たちがここでしようとしているのはそういうことなのです。毎日ここで仕事をしていると、1930年代などの新聞や包装紙、ガラス・ケースなどが出てきます。そういうものを発見すると、胸がいっぱいになります。
びんこ:
中には、ポールさん一家が別の店で使っていたガラス・ケースもあります。急いで立ち去る時に倉庫に入れられたようで、1930年代の新聞に包まれたままの写真などが無造作に置かれていました。それをジョンと他のボランティアが発見したのですよ。
ジョン:
考えてみてください。急いで強制的に引越ししなければならなくなり、収容所から釈放されて戻ってきてからいろいろなことが起こり、なかなかそれを紐解くチャンスがない。そのガラス・ケースはそのようなわけでそのままになっていたようです。また、ある箱からは、1930年代の帽子が出てきました。まったく虫に食われていない、新品のままで。また、家族のポートレート写真も出てきました。そのようなつもりはなかったのでしょうが、生活に追われて、そのままにされていたのでしょう。ここにはたくさんのメモリーがあります。ですから、”Higo” という名前を残しました。私たちがここに入居できたのは、とても幸運なことです。
びんこさんご自身のご家族も日系アメリカ人だったのですか。
びんこ:
母方の祖父母がそうです。1910年に和歌山県からアメリカへ移住し、日系アメリカ人となった日本人でした。祖父には兄弟姉妹が10人いたのですが、そのうち5人がアメリカに移住しています。祖父の弟妹で和歌山で暮らした人も5人いますが、実際に日本へ行ってその親戚に会うまでは「祖父母は和歌山での暮らしがひどかったから、アメリカに来たのだ」と思っていましたが、それは大きな誤解でした。曽祖父は、子供たちを新天地に送り出したかったのです。その目的は冒険をさせること、働いてお金を貯めること、よい人生を送ることだったのかもしれません。曽祖父もアメリカに移住した5人の息子たちを訪ねて何度かアメリカに来たことがあるのですよ。あの時代に新しい国へ行くことを想像してみてください。今なら飛行機もクレジット・カードもあり、旅をするのはとても簡単です。でも、当時の旅と言えば船です。クレジット・カードもありません。ですからあの時代の日本人がアメリカに来て、ビジネスを経営し、その土地の経済力を支える1つのコミュニティになるということは、とても大変なことだったことがわかります。
では、ご家族は強制収容所に収容された経験をお持ちなのですね。
びんこ:
母方の祖父母は和歌山県からカリフォルニア州に移住した後、ナーサリーを経営しながら長女である私の母を含む3人の子供を育てました。しかし、祖父はまだ若いうちに自動車事故で亡くなり、祖母はそれほど英語ができませんでしたので、私の母が一家の長のように家族をとりまとめていたそうです。第2次世界大戦が始まり、1942年に日本人を強制収容所へ送るようにとの命令が出された際、私の母は6ヶ月にわたってセント・アニタの家族用強制収容所(ファミリー・キャンプ)に住み、叔父2人と叔母、祖母、そして近所の人たちは2台の車に乗り、カリフォルニア州を出てテキサス州に所有していた土地へ引っ越しました。ご存知かもしれませんが、カリフォルニア州に住んでいた一部の日系アメリカ人には、「他州にある住所に引っ越すのであれば、強制収容所へ行かなくてもいい」というチャンスが与えられたのです。私の家族の場合、テキサス州に土地を所有しており、その土地を借りていた人たちと話し合い、私の家族らがその土地へ引っ越すことになりました。しかし、入居を予定していた建物はちゃんとした住居ではなかったこと、当時のテキサス州は差別が根強くて居心地が悪かったことなどが理由で、今度はシカゴの大学を卒業した叔父の知人を頼ってシカゴへ移ることになりました。戦時中のことですから、すべて人とのつながりで動いていました。
その後、シカゴで私の叔母が結婚した相手を通じて、私の母は私の父となる人に出会いました。叔母の結婚相手と私の父はどちらも台湾人。父は日本の占領下の台湾で初等教育を受け、12歳で日本に渡り、同志社高校を卒業した後、大学に進学するためにアメリカへ来ていたのです。ですから、日本語も話すことができました。2人が結婚した後、父は米軍に入隊し、第2次世界大戦が終了した後は占領軍として日本へ。同伴した母は日本で私と妹を出産しました。しかし、父が日本で亡くなったため、母は自分の妹が住むシアトルへ移住することを決めました。そのようにして、母と私たち姉妹はシアトルにやって来たのです。1964年のことでした。それからは前述のとおりです。
今後の抱負
今後、”Kobo at Higo” はどのように発展していくのでしょうか。
ジョン:
先月19日のオープニングは新しい店のオープニングと同じ意味でのオープニングではありません。次の段階へ行くためのマイルストーンです。現在は入って右手の半分がリテールおよびギャラリーとしてオープンしていますが、全体がオープンするのは来年4月。その時には、この大きなスペースに、村上さん一家と日本町の歴史とを融合させたコミュニティ・スペースを設けることを予定しています。人に出会って、話して、歴史と今とを体験する、インターアクションを作りたいと思います。
また、村上さん一家を称えるため、村上さんご一家の許可を得て、ご家族の歴史も展示します。先月の時点で1990年代にこの店を切り盛りしたマサさんともう1人の女性がチベット・モスクワ・スイス・香港・スカンジナビア半島など世界中を旅して集めたマッチのカバーを展示していますが、今後は2人が家族や友人に送ったポストカードを集めて、”Kobo” らしいスタイルで展示するつもりです。季節ごとに展示や雰囲気を変えていきたいですね。そして、窓際は来店される方々がすわってくつろぐスペース、パフォーミング・アートや朗読会をするステージにすることも考えています。村上さんは、この店舗を中に入っている商品と一緒に売り払うこともできたわけですが、ここを私たちと一緒に生まれ変わらせることを選んでくださいました。私たちはこれまで培ってきた知識や技術を使って、意味があることをする機会を与えられたことを、本当に嬉しく、誇りに思います。
びんこ:
将来はこの周辺のお店と一緒にブロック・パーティーもしたいですね。昔はここで盆踊りが開催されていたのですから、ここでパーティーをすることは大きな意味があります。
たくさんの人々の力で1つのものを生み出すことができるのはすばらしいと思います。
ジョン:
ボランティアの力はすばらしいです。たくさんの友人がずっと手伝ってくれています。ある友人は昨晩も遅くまで手伝ってくれたのに、今日も仕事を終えてから来てくれました。日本の建築家の友人もわざわざ日本から来てくれています。また、アーティストの友人は色の選択などやその他のアドバイスをしてくれる上、塗料の種類も教えてくれます。ですから、数週間かけて塗料を選ぶなんてことをせずに済みました。
びんこ:
隣の家に住んでいる人が来てくれたり、学校時代の友達が電話をくれたりもします。誰でも手伝うことができるのです。
ジョン:
そういった人たちがサウンディング・ボードとなって、これがみんなのグループ・プロジェクトになっています。もし私たちだけしかいなかったら、短期間でオープンすることはできなかったでしょう。とても “Amazing” です。この記事を読んでくださる方も、電話やメールでボランティアをしたいと伝えてくだされば、どなたでも参加していただけます。日本語でも英語でも、お気軽にご連絡下さい。
【関連サイト】
“Kobo” & “Kobo at Higo”
The Wing Luke Asian Museum
掲載:2004年12月