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知恵・シャープさん Girvin Strategic Branding & Design

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映画 『The Last Samurai』 を含む数々の映画タイトルのデザインを手がけているグラフィック・デザイナーで、3つ子のお母さんでもある、知恵・シャープさんにお話を伺いました。
※この記事は2004年3月に掲載されたものです。

知恵・シャープ(ちえ しゃーぷ)

1990年 上智大学法学部卒業

1992年 The Art Institute of Seattle 留学

1994年 The Art Institute of Seattle 卒業

同年9月 GIRVIN | Strategic Branding & Design 入社

1998年 AIS 非常勤講師

2002年 三つ子出産、仕事と家庭を両立し、現在に至る

【公式サイト】 www.girvin.com

好きだったアートを仕事にするために渡米を決意

アメリカに来られたきっかけを教えてください。

昔から美術には興味がありましたが、将来の仕事を考えて、画家である母からは、美術大学進学は反対されました。かといって、語学も好きではなく、数学も得意ではなかったことから、消去法で残った法学部へ。卒業後、いったん就職もしましたが、それでもいつかアートを勉強したいと思っていました。日本で美術大学に入学するには高校生の時から予備校に通わなければならない上、美大を卒業しただけでは何にもならないという話を聞き、「それでは、ものになる頃には30歳を過ぎてしまう!」と。そんな時、「アメリカでは専門学校を2年で卒業できる」という話を知人から聞いたことがきっかけとなり、留学することを決めたのです。

留学当初からシアトルに来られたのですか。

そうです。シアトルは日本にも近いですし、日本人には住みやすいところと聞いていましたので、留学先にアート・インスティチュート・オブ・シアトル(以下、AIS)を選びました。当時はグラフィック・デザインという言葉すら知らず、イラストレーターになりたいと思っていました。また、日本の大学では留学生や帰国子女が多く、英語がネックになる人があまりいなかったことから、誰にも英語のことを指摘されず、私は英語を話す必要があることも深く考えず、ELS の存在さえ知らずに渡米したのです。ですから、最初はほとんどクラスの内容を理解できませんでした。でもそんな中、初めからグラフィック・デザインだけは常に成績が良く、「もしかして自分はこれに向いているんじゃないか」と思うようになりました。

日本での就職活動を経て、再び渡米

卒業されてすぐ就職されたのですか。

アメリカに残って仕事をすることができたらいいなという思いは少しありましたが、それに固執してはいませんでした。日本もアメリカもそれほど景気がいいわけではなかったので、どちらで就職活動しても大変だなと思っていたところもあります。卒業式に来てくれた母親とヨーロッパを旅行してから日本に帰国し、日本の小さなデザイン会社などへの就職活動を開始しました。卒業後とりあえずプラクティカル・トレーニング・パーミッションを取得していたのですが、面接でそのことに触れたところ、面接担当の方々に「1年間もアメリカに滞在するチャンスがあるんだったら、それを有効に利用して勉強してから帰ってきてもいいんじゃないか」「チャンスがあれば、私もアメリカやパリやロンドンでデザインを勉強したい」と言われたのをきっかけに、このチャンスを活かそうとアメリカに戻ってきました。

それから就職に結びつくまでを教えてください。

シアトルに戻ってきても生活費を稼がないと生きていけませんので、書店や和食レストランで働きながら、就職活動を開始。現在勤務している GIRVIN | Strategic Branding & Design(当時 Tim Girvin Design)は「ロゴデザインと言えば GIRVIN」と言われていたので在学中から憧れていました。AIS の先輩で GIRVIN に入社した方を通してコネクションを作る機会が2度ほどあったのですが、当時の我社は5年以上のキャリアを持つ人しか雇わないという方針があったので、まず無理だろうと思っていました。しかし、私の前任にあたる日本人デザイナーが日本に帰国することになり、新任者を雇ったもののうまく行かない状態が続いたことから、私のことを思い出し、お電話をくださったのです。改めて受けた面接では、「これは行ける!」というようなはっきりした感触はありませんでしたが、その夜アルバイトから遅くに帰宅すると、「明日から来てください」とメッセージがあり、入社が決定しました。タイミングもよかったと思います。

その時のポートフォリオはどういったものを用意されていたのですか。

AIS ではポートフォリオにも細かなカテゴリと指定があり、私のポートフォリオもグラフィック・デザイナーとしては一般的な内容でした。出産前までパート・タイムでポートフォリオのクラスを AIS で教えていたのですが、アート系の仕事ですからもう少しフレキシブルでクリエイティブなものにした方がいいと思ってはいるものの、なかなかそうはいかないようです。また、グラフィック・デザイナー志望なのにイラストレーションの作品をポートフォリオに入れたりしましたね。でも、その時に必要なセクションで必要な人材を求めているのがアメリカです。ですから、もっとフォーカスしたスキルを持っている方が就職しやすいと思いますので、今から思えばそんな余分なものを見せる必要はなかったですね。いろいろなスキルはプラスにはなりますが、適材適所のスキルを持っている事を証明できないと、特に不景気の時には就職は難しくなると思います。

知恵さんが採用された理由は何だと思いますか。

私が採用されたのは、日本とのプロジェクトのコーディネーターを緊急に必要としていたことが最大の要因だと思います。なぜかと言うと、就職してから知ったのですが、入社の1週間後に日本へ出張することになったからです。ですから、「デザインの知識があり、日本でも働いた経験があり、入社の1週間後に日本へ出張させても大丈夫だろう」ということで雇われたのだと思います。社長は日本との取引が長く、クライアントも部長クラス以上。ですから、あまりにも年が若く、職務経験もない人だと、言葉遣いなどで失敗するのではないかと心配だったのだと思います。

とても信頼されているという感じですね。

それがアメリカのいいところでもあり、厳しいところでもあると思います。また、日本との大きな違いでもありますね。私の経験からですが、日本では小さな決断も上司の指示を仰がなければならず、失敗も成功も逐次報告しなければなりません。私の場合、その経験のために、アメリカでの仕事に初めは戸惑い、苦労しました。そこではっと気がついたのが、「社長は社長で忙しいわけですから、いちいち部下のことを見ている時間もありませんし、そんなことをするなら社長が自分ですべてやるのと何ら変わらない」ということです。人を雇っている理由というのは、その人にまかせれば成果が出るということで、権限を委任しているわけですよね。ですから、「大変なことがあっても、よほどのことでない限りは自分でとにかく解決し、そして成功した結果を報告するということを1人1人の社員に望んでいるんだ」と思いました。大切なことであればもちろんコミュニケーションをしていかなければなりませんが、やはりその社員の能力の範囲内で解決できることが多ければ多いほど、会社にとっては有益な人材となるわけです。

入社当初はどういったお仕事をされていたのですか。

入社当初は相当な数のプロジェクトが日本から発注されていましたので、クライアントが望んでいることを英語で社内デザイナーに伝えることが最大の仕事でした。また、あまり優雅ではないのですが、雨の中を必要な資料の買い出しに行ったり、1日中コピーを取ったりする仕事もありました。

デザイン・ディレクターになるまでの道のり

デザイン・ディレクターになられるまでの流れを教えてください。

前述のとおり、アメリカでは必要なセクションに必要な人材を雇うのが普通です。日本のように手取り足取り教えてくれるわけではありませんし、当時の我社ではスキルもない新卒を雇い、研修に行かせてあげることもありませんでした。今でこそ我社はインターンも採用して教える体制を整え始め、4~5年前からはアシスタント・デザイナーというポジションも採用していますが、私が入社した頃は社員の大半がシニア・レベル。全員が忙しくて、「人に教える時間はない」「自分で仕事ができない人はいない方がいい」という雰囲気がありました。私は仕事を教えてもらうこともできず、コンピュータもそこまで普及していなかったためにコンピュータも与えられませんでした。辛くてトイレで泣いたこともあります(笑)。でも私はデザインに興味があったわけで、コーディネーションやマーケティングの仕事にそれほど興味があったわけではありませんでした。しばらくするうちに、「これは自分で変えていかなければ」ということがだんだんとわかり始め、GIRVIN の元社員でフリーランスとして働いていたタイプデザイナーにアドバイスをもらううちに、「実際にデザインの仕事が与えられないのに、短い期間で5年のキャリアに勝つのは難しい。それなら、会社に必要でありながら、ほとんどの人が持っていないスキルを身につければ、嫌でも私を使わなくてはならなくなるのでは」ということに気がついたのです。

知恵さんにとってそれは何だったのですか。

驚かれるかもしれませんが、デザイン会社でもフォントのデザインやタイプをカスタマイズしてデザインできる人はほとんど存在しません。私はそこに目をつけ、同僚の帰宅後にコンピュータを使わせてもらって操作方法を習得しました。それからはアルファベットをデザインするたびに社長に送り続けました。まだ若かったからそれだけのエネルギーがあったのでしょうね(笑)。社長はもともとカリグラファー&タイプデザイナーなのですが、約半年ぐらいたった頃でしょうか、「社外からタイプのデザイナーを雇わなくてもいいかもしれない」と言われ、やっと映画 『Eye for An Eye』 のタイトルをデザインする仕事をもらいました。それが、デザイナーとしての最初の仕事です。

努力が実ったのですね!

今から思えば本当に簡単な仕事ですが、当時の私にとっては非常に難しいものでした。映画自体はあまりヒットしなかったものの、社長が私をプロジェクトに使ってくれるようになると、他のデザイナーたちも「この人はこういうこともできるんだ」と認めてくれ、徐々に広告デザインといった他の分野のデザインの仕事もまかせてもらえるようになりました。

映画のタイトル・デザインを手がける

映画のタイトル・デザインに戻りますが、最近ではあの 『The Matrix』のデザインも手がけられたとか。

我社が手がけたのは、最初の 『The Matrix (邦題:マトリックス)』 でした。最近では子供たちの間でとても人気があり、ハリー・ポッターと並ぶヒットが予想されている 『A Series of Unfortunate Events』 のタイトル・デザインを手がけました。これまで映画のタイトルは50以上やっていますが、タイトル・デザインの良し悪しよりも、映画がヒットするかしないか、出演者が有名かどうかで、デザイナーの知名度に相当な差ができます。最近のヒット作は、『Tomb Raider (邦題: トゥーム・レイダー)』、そして 『The Last Samurai』 です。

『The Last Samurai』 も手がけられたのですか。世間は狭いですね!

渡辺謙がとても良かったですよね!ずっと見たくて見たくて、会社を休んで子供をデイケアに預けて見に行きました。子供がいたら映画などは見に行くことができませんので(笑)。製作に関しては、日本のプロダクションの影響が大きかったので、難しかったです。ハリウッドと仕事をするのも難しいのですが、やはり今回は日本人のプライドが関わっていましたので、日本のプロダクションと我社の間に入っていたハリウッドも大変だったと思います。実際、我社と契約したのはハリウッドなのですが、我社の案をハリウッドが気に入っても、「日本のサムライ魂の話なのに、アメリカ人にデザインさせるわけにはいかない」ということで、最終的には「日本で手直し」ということになりました。日本での興業も重要でしたし、日本側にも大変な思い入れがあったので、いつも強気なハリウッドが押し切れなかったようです。しかし、最終的なタイトルは、我社が提出したものとほとんど同じでした。

タイトルのデザインというのは、いつ頃できあがるものなのですか?

ほとんどの映画の場合、タイトルはトレーラーやスタッフの T シャツ、台本にも印刷しなければなりませんので、映画の公開日から2年前ぐらいにデザインが完成します。『Matrix』 は公開から3年ぐらい前に完成していました。ものすごく急ぐ場合は公開の半年から10ヶ月前ですね。『The Last Samurai』 はわりとぎりぎりで、ニュージーランドの撮影に行く直前、そして私の産休中に完成しました。ちなみに、ハリウッドにはハリウッド御用達のポスター会社やロゴ会社がありますので、通常はハリウッド内でそういった製作を済ませ、わざわざ外部に発注することはないのです。我社はそこに無理矢理に入りこんでいるため、ハリウッドの関係制作会社が外部に発注が行くのを防ごうとするような状況になっています。でも、映画監督や配給会社プロデューサーが最後の最後までタイトル・デザインを気に入らない場合は、ぎりぎりで我社にまわってくることもあります。

デザインができあがるまでのプロセスを教えてください。

まだ台本しかない状態でデザインを考え始めるのが普通です。台本を読み、ほとんどイメージも与えられず、誰が役者なのか知らないまま、デザインをすることが多いです。『Sleepy Hollow (邦題:スリーピー・ホロウ)』 の場合は、監督がティム・バートンだとわかっていたのでわりとイメージがわきやすく、メル・ギブソン主演の映画は彼が主役とわかっていたのでプラスになりましたが、何もわからないままのケースが7割ぐらいですね。最近はコンピュータが普及しているので、ハリウッドのプロダクション会社は市販のフォントにフォトショップでちょっと効果を与えたものを使用する方向にあります。でも、我社は1文字1文字をカスタム・デザインしますので、本当に映画の内容にあったタイプを製作することができるのです。それを理解してくれるプロデューサーがいる限り、仕事があると思います。

仕事と育児の両立 – 個人を尊重するが、個人の責任が大きいアメリカ

日本人としてとアメリカで働くことについて、何か特に考えられたことはありますか。

すわってしっかり考えたことはありませんが、日本での仕事の仕方との違いで、最初は相当大変な思いをしました。日本では新入社員が上司に自分の意見を言うなんてことは、私が卒業した頃には特に考えられないことでしたので、みんながどんどん先に進んでいるのに、「アメリカではどういうふうに仕事をしたらいいのか」を理解するのに最初の1年を費やしてしまい、とても出遅れてしまったという気持ちがありました。そういう意味で、日本から来てアメリカで働くのは難しかったなという思いはあります。人によってアメリカにあう・あわないがあると思いますが、私がアメリカで仕事をする方が自分にあっていると思う理由は、「自分が努力をしていれば、自分がやりたいと思うことをやるチャンスは必ずやってくるから」です。チャレンジする人を信じてチャンスをくれる体制がアメリカにはあると思います。もちろん、失敗すればすべて自分にかかってきますので、会社が責任を多少は持ってくれたとしても、それが理由で解雇という事もあります。それがやりがいにつながる人もいれば、ストレスになってしまう人もいるのではないでしょうか。

アメリカでは個人を尊重する分、それぞれの責任が大きいですね。

そうですね。日本も徐々に変わってきていると思いますが、まだ年功序列がありますし、女性は男性より仕事がしにくいということがあります。入社したての頃のことですが、私がデザイナーとして出張に行っても、部長級の男性は私のことを「秘書さん」と呼び、何の話をしても私には決定権がないと勘違いされることはしょっちゅうでした。そういった男性が、キャリアを積んでがんばっている女性をぞんざいに扱う様子を何度も目の当たりにしています。日本では会社がゼロから教育してくれたり、失敗をしても容易には解雇されなかったりと、いい面もたくさんあると思いますが、何か目的を達成したいと思っている女性にはすごく大変なところではないかと思いました。また、私は3つ子の母親ですので、出社は午前6時、退社は午後4時半頃と、時間的に相当な制限があります。でも、期限内と予算内に自分の仕事をこなし、成果をあげてさえいれば、上司より早く帰宅しても文句を言われないどころか、みんなが協力してくれます。子育てと仕事を両立するなら、アメリカはいいところではないでしょうか。

デザイン・ディレクターという責任の大きいお仕事と、3つ子の育児というこれまたすごいお仕事をどのようにして両立されているのでしょうか。

そうですね。「眠らないといけない」と思っていれば、眠れなかった場合にストレスになりますよね。ですから、出産してからは「眠る時間はない。大変なのは当たり前」と思ってやってきました。これが初めての出産で最初から3人を育てていますので、1人しか出産しなかった場合と比べられませんが、3つ子とは言え、当然それぞれ別々に行動します。ですから、私は家にいても自分が行きたい時にトイレに行ったり、ご飯を食べたりすることさえできず、ほとんどすわることはありません。たまに夫が子供2人を家で見てくれている時に、子供1人だけを連れて外出すると、「ああなんて楽なんだろう!」と思います(笑)。子供たちが1歳2ヶ月になった今もそうですが、「大変だ、どうしよう」ではなく、「いくら大変でも死ぬことはないだろう」と思ってやっています。私はわりとポジティブなんですよ(笑)。また、私が「仕事と育児は両立した方がいいんじゃないか」と思うのは、会社にいれば仕事であっても自分の時間がありますし、自分のために何かをしているので、気分転換にもなるからです。平日には子供と一緒に過ごす時間はあまりありませんので、仕事で疲れていても子供と過ごす時間は格別。これでもしずっと家にいたら、私はいつもイライラして、何かが不満で、嫌なお母さんになっているのではないでしょうか(笑)。

とてもパワフルでポジティブですね。

たとえそれが大変なことであっても、何か新しいことがあったり、チャレンジがあったりする方が、ずっと同じ生活を漫然と続けているよりも楽しいと思うのです。3つ子は大変ですが、誰でも体験できることではありませんし、おもしろいことだとも思っています。それに、デザインはすべての経験が生きてくる仕事なので、これは神様のくれたチャンスだと。今偶然にもベビー服を作っている会社のブランディングやデザイン製作のためのプロポーザルを書いているところなのですが、子供がいない時とは違った、消費者の目で見ることもできますので、とてもよかったと思っています。

人を育てる仕事 – やりがいと大変さ

子育てと同時に、ディレクターとして社員を育てていくこともお仕事に含まれると思います。キャリアを伸ばしてあげる面で、どういったことが重要でしょうか。

AIS のポートフォリオのクラスで教えた経験や会社での経験を通してですが、日本人はまじめで努力家が多い一方で、チャレンジをしたり、リスクがあっても自分を賭けて何かをすることを遠慮したり怖がるシャイな人が多いと思います。でも、アメリカではそれぐらいの気持ちがある方が成功します。また、才能があるだけでは物足りないですね。デザインでもそうですが、相手に情熱を持って訴える能力があれば、人を動かすことができると思いますので、自分がやる気さえあれば会社の中で自分を伸ばしていくチャンスをつかめると思います。アメリカでは転職をするのが当たり前で、その都度自分のゴールを持って自分のキャリアを伸ばしたり、変えたりしていくことが可能です。ですから「この会社は有名じゃないからやめておこう」「この会社は小さすぎるからやめておこう」といったブランドやイメージで選ぶのではなく、「人生で何をやりたいのか。どうやったらそこへつなげていけるのか」という大きなビジョンを持つことで、もっと選択が増え、チャンスを活かせると思います。学校を卒業してから最初の仕事に就くまでが一番大変なので、チャンスがあれば、それは出会いであり、運命だと思ってそこからスタートしてみればいいのではないでしょうか。そして、学べるものはすべて学び、もうここで学ぶものはないと思ったら、それまで学んだことをすべて活かして次のステップにチャレンジしていくのです。

現在我社でインターンとして働いてくれている方は、自分から率先して提案もしてくれますし、いちいち細かいことを頼まなくても、「たぶんこれが必要じゃないか」と自分で考えてきちんと揃えていてくれたりします。やはり上司も同僚もそういう人と仕事をしたいですし、仕事をまかせたい。会社側ももっとその人を必要とし、盛りたててあげようと思います。アメリカでは、与えられたチャンスを最大限に活かし、それプラス自分が今やりたい、または将来的にやりたいことをアピールできる人を「この人は自分の意思があり、自分のビジョンがある」として尊敬します。これは日本の文化との大きな違いだと思います。

語学の面ではどうでしょう?

私が AIS で教えていた時も、「私は英語ができないから不利だ」と言う生徒がいました。もちろん、ある程度の英語のレベルがないときついですが、一応コミュニケーションをとることができれば、単語をちょっと間違っていようが、発音が変だろうが、ほとんどネックにならないと思います。特にデザインは技術を要する分野なので、エントリー・レベルでしたら、クライアントにプレゼンテーションをするほどの英語力がなくても、技術があれば一応仕事をこなしていくことができます。ですから「英語がしゃべれないから、面接でもあまり話せない」というのではなく、もっと自分に自信をもってくれればいいなと思います。実は、そう言う私も英語にはコンプレックスがあります。そのことを自分のレビューで話したところ、私の上司は本当にいい上司で、「私は外国語のアクセントがある英語を話すデザイナーの方が、すごいデザイナーだという気がする。知識を買われて世界各国から NASA に集められた一流の科学者は、かなりアクセントの強い英語を話しているでしょう」と言ってくれました。それで「そうか!」と思い、めっきり気楽になりましたね(笑)。最初の頃はクライアントとのミーティングでも緊張していましたが、クライアントは私を英語の先生としてではなく、デザイナーとして見ているので、多少「え?」と聞き返されたとしても、それで「この人は仕事ができない」という態度を取られたことは1度もありません。これは日本でもアメリカでもそうだと思いますが、どのような仕事でも、ただ商品がいいだけとか、物を売るだけではなく、相手の心に訴え、精神的なコネクションを作っていくことで、人は動いてくれます。どんなに小さなクライアントでも、その時はまったく可能性がなさそうな人でも、貴重な出会いだと思って、精神的なコネクションを作るようになるべく努力しています。就職の面接も、採用担当者がリードするのではなく、自分から積極的にコネクションを作るようにすれば、その時はチャンスがなくても、後でふっと思い出してもらえることがあるかもしれません。

今後の抱負を教えてください。

子供ができる前はすべての時間をほとんど自分のためだけに使うことができたので、技術や知識の習得に時間を費やしていましたが、子供ができてからは人生に対する考え方が変わりました。個人として、そして仕事のプロフェッショナルとして、私が社会に貢献できるものは何かを考える時期に来たのではないかと思います。どういう形で貢献できるかはまだはっきりとはわかりません。でも、デザインにしても、見栄えのいいデザインだけではなく、それを使ってくれる人の人生や毎日が少しでも良い方向に向かうような物を作り上げたい。つまり、社会への恩返しをしていく方向で、人生を考えることができればいいなと思います。

もちろん、たまには「私はいったい何をしてるんだろう!?」と考えることもあります。でも、私は「人生は楽しく、幸せでなくては」と思っています。考え方によっては、チャレンジが辛いものになることもありますよね。「こんな大変なことが起きてしまって、どうしよう」と思ったり、「1日、1日をとにかくがんばらないと生きていけない」と思ってしまうこともあるでしょう。でも、「長い人生においてこれはとてもエキサイティングでチャレンジングな出来事の1つ」と思えば、それを乗り越えた先が楽しみになりますし、困難にあうとなぜかいつも「大丈夫、必ず乗り越えられる」という強い信念が生まれます。もちろん努力しないと、その状況を乗り越えることはできないのですが、そういうふうに考えると、「これまでも何とか乗り越えてきたから、今度も大丈夫」と思えるのです。

私はその時にやりたいと思ったことには前向きに取り組んでいく方です。人生もそんなに長いわけではありませんし、その瞬間瞬間に悔いが残らないようにできることがあれば、デザインという仕事ではなくても、やっていきたいなと思っています。結局、それが自分が死ぬまでの大きなビジョンみたいな感じです。その一環として、そろそろ AIS に戻ってクラスを教えたいとも思っています。やはり、学生と社会人のレベルや知識の差には私自身が非常に苦労しましたので、少しでもその橋渡しをしてあげることができるかもしれません。私もいろいろな人にお世話になってここまで来ることができました。これからは私が少し何かをすることで、誰かの人生が楽に前進できればいいなと思います。

掲載:2004年3月

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