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アーティスト 市川江津子さん

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ガラスとの運命的な出会いがきっかけとなり、ノースウェスト出身で世界的に有名なガラス・アーティスト、デール・チフーリ氏の下で8年にわたり勤務した後、自分の作品作りに専念するという新しい一歩を踏み出したアーティスト、市川江津子さんにお話を伺いました。
※この記事は2003年12月に掲載されたものです。

市川江津子(いちかわ えつこ)

1963年 東京中野区生まれ

1991年 東京ガラス工芸研究所の合宿でガラスと出会う

1992年 一度目の渡米

1993年 ピルチャック・グラス・スクールでガラスの勉強開始

1994年 チフーリ・スタジオで勤務開始

1997年 チフーリ・スタジオの米国内での展覧会のコーディネーション担当

1998年 チフーリ・スタジオのモックアップ部門に勤務

2003年5月 チフーリ・スタジオ退職、自身の創作活動に専念し、現在に至る

【公式サイト】 www.etsukoichikawa.com

美術との出会いから大学まで

市川さんが美術に興味をもたれるようになったきっかけを教えてください。

父も母も美術が好きで、幼い頃から美術館や親子のためのお絵かき合宿みたいなものに積極的に参加していました。また、父は紳士服の仕立て屋をしているのですが、お客様が工芸作家・絵描き・彫刻家といった芸術系の方が多く、ご自宅までお届けに行くときに作品を見せていただくこともありました。そのようなことがあって、幼い時に美術に目覚めたのです。

美術の方向に進み始めたのはいつからですか。

小学校を卒業後、女子美術大学付属の中学校と高校で本格的に美術の勉強をしました。歴史もあり、織物や染めものなど工芸的なものを学ぶにはすばらしい学校でしたが、多少封建的でしたし、私が希望していたコンテンポラリー・アートの勉強をするには適していませんでしたので、そのまま大学まで進むのはやめ、他の美術大学を受験しました。でも、1年目はすべて落ちてしまい、翌年に再受験するまで新宿3丁目にあった新宿美術学院で勉強を続けました。そこには、私とはかなり年齢の離れた人や、芸大に行きたいがために7年も浪人している人、仕事も家庭も持ちながら芸大に行きたくて勉強している人などがいましたし、それまではずっと女子校でしたから、男子生徒や年齢層の違う生徒との交流で世界が開けました。翌年、東京造形大学に合格。基本的に、私のバックグラウンドは絵画です。中学・高校で油絵もやりましたが、大学に入ってからは水彩の素材を使って作品を作りながら、立体的なものにも興味を持ち、大学卒業直前は半立体の作品や舞台美術を結構作っていましたね。大学を卒業してからは、舞台美術関係や見本市のブースをデザインして作る会社でしばらく働きました。その後はイタリア輸入家具を使ったインテリア・コーディネートや、ステンドガラスのデザインと設置などを手がけましたが、アメリカに来る前の4~5年は、企業イメージを作る会社でプロジェクト・コーディネーターとして働き、同時に企業イメージ研究所というシンクタンクの運営に携わりました。

ガラスとの出会い

ガラスとの出会いについて教えてください。

ガラスに出会ったのは1991年でした。実は、大学入学後に「自分がなぜ作品を作っているのか」「なぜアートが世界に存在するのか」ということを深く考え始めてしまい、「アートを作ることは自分のエゴを満足させるためだけに過ぎないのでは」という葛藤が生まれ、作品がまったく作れなくなってしまった時期があったのです。その結果、大学卒業後に美術系の仕事についたものの、5~6年は自分の作品をまったく作りませんでした。でもいつも「なんかやっぱり違うな」と思って何かを求めて、「自分がやりたいことはなんだろう」と模索していたのです。

そんな時、人間ドックの検査結果で白血病の人にしか出ないような数値が出てしまい、大学病院で精密検査を受けるはめになりました。検査の結果を待つ1ヶ月ほどの間は、「後1年ぐらいで死ぬかもしれない。好きなことをやらないと後悔する」と思い、自分で熱中できるものを探し始めて、乗馬やフラワーアレンジメントなど手当たり次第にいろいろやってみました。でも、どうもしっくりこなくて、たまたまた 『美術手帖 BT』 という美術系の雑誌を、大学卒業以来初めて見ていたら、東京ガラス工芸研究所が主催して吹きガラスの作り方を学ぶという合宿の広告が載っていたのです。「これはいいかも」とピンときて、すぐに申し込み、石川県能登半島にある工房へ向かいました。

その合宿で初めてガラスで物を作るということをされたのですね。

そうです。ガラス工房で「じゃあ、こういうふうに巻いてね」と言われ、トロトロに溶けているガラスを吹きガラスの棒にクルクルと巻くのですが、その瞬間に全身に鳥肌が立ち、「これだ!」と。「私のやりたいことを、やっと見つけた!」と、嬉しくてたまりませんでした。そして、検査の結果が出たのですが、病気でも何でもなかったことがわかり、それからは日本でガラスを教えているところはほとんど全部まわり、日本のガラス工芸家を訪問し、とにかくガラスのことをものすごいスピードで吸収していきました。そのうち、仕事との両立がだんだんできなくなってしまい、ガラスの勉強だけに専念したいと思いはじめたのです。

初めての渡米で各地を見学

アメリカに来ることになったきっかけはなんでしょう。

そのガラスの合宿に来ていた人が持っていたカタログで、デイル・チフーリが設立した学校、ピルチャック・グラス・スクール(以下、ピルチャック)のことを知りました。さっそくそのカタログを持っていた人と一緒に申し込み、すっかりその学校でクラスをとるつもりで会社から1ヶ月の休暇をもらって準備をしていたら、ピルチャックから「あなたは “WAITING LIST” になっていますので、クラスを取ることができません」という連絡があり、びっくりしました。既に休暇ももらっていましたから、チフーリのスタジオやピルチャックの見学だけをさせてもらい、その後はシカゴやニューヨークなど大都市でガラス作家の工房を周り、美術系の大学院を訪ねたりしました。それが初めての渡米です。その翌年には英語も少し勉強していたのでピルチャックのシステムを理解することができ、ようやく入学が実現しました。

ピルチャックでは申し込んだ人は必ず入学できるのですか。

1クラスあたりの生徒数は10人前後なので、入学の競争率はかなり高いですね。入学コースはレベルや学ぶテクニックによって分かれていて、初心者コースは入学希望者数が定員を超えたら抽選になります。中・上級者コースは作品のスライドを役員と先生が審査して入学の合否を出します。私は初心者のカテゴリで入学。それから1993年、1994年、2000年の3回にわたって生徒として勉強しました。

ピルチャックではどのような形で勉強するのですか。

ピルチャックで受講する1クラスは約18日間で、同じセッション(期間)中に5つの違うクラスを同時に進行します。5月から8月までの約4ヶ月間に、合計5セッションあります。学校自体の環境が日本のガラス工房とはまったく違いますね。シアトルから車で1時間ぐらいのピルチャック・マウンテンの中にある広い敷地がキャンパスで、中央には大きなホット・ショップ(高温で溶かしたガラスで作品を作る場所)、その周りにはガラスをけずったり磨いたりするコード・ショップ、板ガラスを切るフラットショップ、バーナーを使ってガラスを溶かしながら作品を作るウォーム・ショップなどがあります。そして、丘を登ったところには生徒が泊まるコテージがあり、有名レストラン・レベルのシェフが作る料理が食べ放題という大きな食堂があり、まさに至れり尽くせり。危険なまでの別世界です(笑)。

作品を作ることだけを考えられるようにということですね。

そうですね。参加者は自分のスタジオのスペースをもらい、そこにはいつ行って何を作ってもいいようになっていますが、みんなが作品を作ることに集中しています。今年もスタッフとして2ヶ月程滞在しましたが、ピルチャックはいつ行ってもおもしろいですね。アメリカはもちろん、いろいろな国から来た高校生ぐらいから70歳ぐらいまでの生徒がいて、英語を話せない人も来ています。先生もいろいろな国から来ていますが、アーティストで教えるのがあまり上手ではない人から、大学教授で20年間もガラスを教えていますという人までさまざま。全体がすごく混沌としていますが、みんながすごいエネルギーを持って来るので、お互いに刺激され、みんなおもしろい作品を作っていました。

チフーリのスタジオに就職

ピルチャック入学がどのようにして仕事につながったのですか。

1993年に初めてピルチャックで勉強してから、ワシントン大学のESLに入り、英語を勉強していたのですが、ガラス関係の場所で何度かチフーリに会ったことがありました。そしてある時、「どうしてここにいるの」と聞かれ、「シアトルで英語を勉強しているんだ」と答えると、「じゃあ、うちで働きなさいよ」と言われたのです。最初は「冗談のきつい人だなあ。そんな簡単に仕事が決まっていいのかしら?」と思いましたが、結局彼の製作チームにボランティアとして参加。これがチフーリと一緒にした仕事の第1段階です。

当時、チフーリは作品の部品を作るチームを4つぐらい運営し、メンバーがシフト制で働いていたのですが、私はウィッビー・アイランドにあったスタジオでシャンデリアのパーツを作るチームに入りました。チームのメンバーとマカティオから毎朝7時のフェリーに乗って朝日を見ながら出勤し、午後3時までガラスを吹いて、またフェリーに乗って夕日を見ながら帰宅。既にワシントン大学でのESLは終わっていたので、仕事をしていない時間にKAPLANで英語を自主的に勉強していました。毎日くたくたで、プライベートな時間もほとんどなく、結構ボロボロでしたね(笑)。そんな生活を半年ぐらい続けたころ、専門職ビザ(H-1B)の申請が決定し、それをきっかけに、ガラスを吹くという一般的な仕事ではなく、マーケティング担当者のアシスタントとして展覧会のコーディネーションを手がけることになりました。ガラスを吹くチームから離れることに未練はありましたが、好景気のおかげで無数に展覧会が行われていたため、すぐに新しい仕事に没頭するようになりました。これがチフーリと一緒にした仕事の第2段階ですね。

展覧会のコーディネーションとは、どういった仕事ですか。

作品の輸送・スケジュール調整・通訳・翻訳・プロモーションの打ち合わせ・カタログの制作・作品のクリーニング・作品の設置など、展覧会に関わることなら何でもやりました。最初の出張は台湾の台北。そして日本へ年に7~8回、オーストラリアへ年に3~4回行くという調子で飛び回っていたのです。チフーリやその友人たちと一緒に京都などに旅行したりもしましたね。チフーリはものすごくおもしろい人で、笑い話がたくさんあります。

それから日本の景気が悪くなり、展覧会のキャンセルが相次ぐようになりました。日本がだめになるとアジア諸国すべてがだめになり、台湾・シンガポールを周って韓国に行く予定だった展覧会もすべてキャンセルされ、私の仕事がなくなってしまったのです。その後しばらくは建築家を対象にマーケティングをやってみましたが、そこからあまり歳入がない状態が何ヶ月も続き、結局アジア向けのマーケティング部門はアメリカとその他のインターナショナル向けの部門に統合されました。これがチフーリと一緒にした仕事の第3段階です。

仕事の内容はどのようなものだったのですか。

基本的な内容は同じでしたが、主に担当していたのは、美術館やギャラリーに展示した作品を撤去して次の場所へ送るという仕事でした。アメリカ国内の展示が多かったですが、ヨーロッパへも何度か行きました。でも、今度はアメリカの景気も悪くなってきてしまい、チフーリ・スタジオ内でも組織編成があり、それから今年5月に退職するまで、実物大の作品を組み立てるモックアップという部門で仕事をしました。いくつものパーツを組み立てて作るシャンデリアなどの大きな作品は、吹きガラスの責任者、作品の構造を作るエンジニア、デザイナー、チフーリが描いたドローイングを具体化する人など、いろいろな人が関わっていますが、私はこれらの人々の間に入ってガラスのコーディネーションをしていました。例えば「長さ10フィートで、幅5フィートの青いシャンデリア」という依頼が来たとします。そうしたら、どういう形のパーツを作って、20種類以上ある青をどのように組み合わせるかを考えるのです。また、クオリティ・コントロールも大事です。シャンデリアは頭上に下がるものですから、できあがってきた部品にひびが入っていないか確認します。もちろん、2002年に完成したタコマのガラス・ミュージアムにも関わりました。あれが私が携わった最後の大仕事でしたね。

今年チフーリ・スタジオを辞められたのは、何がきっかけになったのですか。

自分の作品を作ることに専念したくなったからです。ボランティアとして初めてチフーリ・スタジオに入ってから、弁護士費用は自分で出したものの、チフーリには6年にわたる専門職ビザを取得してもらい、その間に永住権の申請・取得をし、合計8年間もお世話になりました。

アーティストとして独立

フルタイムのアーティストとして活動するということはどういう感じなのでしょう。

とても大変です(笑)。今はちょうどトランジションのような時期で、自分でも模索しているところなのですが、ようやく自分の作品だけに集中できる時間ができたので、ポートフォリオを更新し、援助金や奨学金などのサポートを申し込み、自分の作品をきちんと展示してくれるギャラリーを見つけ、積極的にマーケティングしていこうとしています。

市川さんの作品のコレクターが日本・スウェーデン・台湾などにおられるということですが。

コレクターとの縁は、人づてです。大学時代の縁もあれば、チフーリ・スタジオでの仕事を通しての縁で、私に興味を持ってくれ、作品を購入してくれました。

シアトルにいることは創作活動に影響しますか。

初めてシアトルに来た時、肩の力が抜けた感じがしました。私は美術系の大学や仕事ばかりしていたので日本の封建的な社会をあまり経験していませんが、例えば30歳を過ぎたら結婚しないといけないとか、「こういうふうにしないといけない」「こういうふうにしたほうがいい」ということを、私自身よりも周りが気にしていましたね。私はそういった枠にどうしてもあわせることができませんでしたが、シアトルに来てホッとしてしまったんです。別にそれを求めてここに来たわけではなく、たまたまここにピルチャックがあり、たまたまガラスを勉強したかったので来たわけですが、日常生活やいろいろなことが気楽で、心が開放されました。もし、ピルチャックがヨーロッパのどこかにあったら、多分そこに私は行っていたでしょう。とは言っても、やはり私は日本人ですから、日本人のコミュニティがあり、和食もあり、日本にも帰りやすいというシアトルに来たことは恵まれていたと思います。

先日開催された “Art Detour” で Seattle Post-Intelligencer 紙の取材を受けておられましたが、「私はガラス・アーティストではなく、ガラスを表現の媒体としているアーティストだ」と言われていたのが印象的でした。

“Art Detour” はおもしろかったです。新聞記事のおかげで、コレクターやアーティスト、ギャラリーの人がたくさん来てくれて、新しい出会いもありました。新聞記事の内容は間違ってはいないものの、私が使った言葉よりも語調がきつくなっていましたね。記事を書いてくれた記者は批判的な記事を書くこともあるので心配でしたが、変なことは書かれていなかったので良かったです(笑)。取材では、”Are you a glass artist?” 、”Do you consider yourself a glass artist?” と何度も聞かれたのですが、私にとってアーティストを使う素材によって分類しようとすることには違和感があります。ペインターとしてペイントをしているアーティストは自分をペインターと呼ぶでしょうがが、「今回はこういう形で伝えたいから、こういう素材を使ってやりたい」「以前に3Dで作ったものを今度はプリントで作ってみよう」というアプローチをするアーティストもおり、私は後者の方です。ガラスがあったからシアトルに来ましたし、自分の人生でガラスがすごく大きな部分を占めているのは間違いないのですが、ガラス・アーティストと規定されてしまうと困ります。呼びたいように呼べばいいのではと思いますが、私自身の答えは “Yes, I’m partially a glass artist, but…” です。

市川さんの作品はどのように評価されていますか。

いろいろな形の作品を作っていますので、いろいろな評価が返ってきます。このプラスチックで作った作品は、新しい感じがする、空間を演出できる、おもしろい、わくわくする、とよく言われます。それはとてもうれしい評価です。この素材は新しいですし、軽い上、照明を使って影を作ったりするなど、空間の中でいろいろな見せ方ができますよ。

今後の抱負を教えてください。

今後はもっと積極的に自分の作品をどんどん出していきたいと思っています。今までは自分の計画に沿ってというよりは、「展覧会をしよう」と言われたら参加してきたという監感じでした。これからは1年に1つは大きなソロ・ショーをし、自分の作品を展示販売してくれるギャラリーとのパートナーシップを強化していきたいと思っています。現在は東京に1つギャラリーがありますが、今後はシアトルやポートランドなどアメリカ国内のギャラリーとも関係作りをしていきたい。また、他のアーティストとのコラボレーションもやっていきたいですね。シアトルとポートランドは若いアーティストたちが作品を発表する場所やサポートが少ないという点が共通しています。シアトルのアーティストたちは “COCA” や “SOIL” など、自分たちで運営し、オークションで資金を集めるなど、ここ1~2年新しい動きを生み出そうとしているのですが、それがとてもおもしろい。自分の作品を発表することとは違った意味で、コミュニティにも積極的に参加していきたいと思っています。

掲載:2003年12月

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