シアトル市が運営する電力会社シアトル・シティ・ライトで、女性としては初めて電気工事スーパーバイザーに就任しご活躍中の富美・ジャンセンさんにお話を伺いました。
※この記事は2002年12月に掲載されたものです。
富美・ジャンセン (ふみ・ジャンセン)
大阪生まれ
1967年 サウス・カロライナ州へ。
1972年 日本帰国。テレビ局でニュース・ディレクターを務める。
1975年 ワシントン州へ。
1980年 シアトル・シティ・ライトへ。現在に至る。
渡米
アメリカに来られたきっかけについて教えてください。
小さい時からアメリカに対する憧れがありました。そして、「留学したい」と思うようになり、3~4年ほどアルバイトをしながら貯金して、自分でアメリカ領事館や文化センターなどに行って留学する方法を調べました。当時は留学斡旋会社がありませんでしたから、すべて自分が学校とやり取りするしか方法がなかったのです。私は末っ子でしたので、特に父親が反対しましたが、2年という約束をようやく取り付け、「2年制で安いところ、そして日本人があまりいないところ」ということで、サウス・カロライナ州のアンダーソンという小さな街にあるジュニア・カレッジに入学が決まりました。1967年のことです。1ドルが360円で、アメリカ領事が学生ビザ申請者を1人1人面接していたような時代でした。
初めてのアメリカはいかがでしたか?
南部は差別が激しくて大変と言われていましたが、実際はみなさんとてもいい人たちで、楽しい学生生活を過ごしました。その学校では私が初めての日本人留学生で、私以外の留学生はインド人とイラン人が1人ずつしかいませんでしたね。また、その大学では、州外から来ている人たちは寮に入らなければならず、寮も男子寮・女子寮と分かれていました。今とは随分違うと思います。また、キリスト教のバプティスト系の学校だったので、教会へ行く時は必ず帽子と手袋を身に付けなければならず、火曜と木曜はバイブル・スタディもありました。
その後、サウス・カロライナ大学へ編入されたわけですね。
当初は2年という約束でしたが、出てきてしまえばこっちのもので、両親も理解してくれました。でも、英語と数学の編入試験は大変で・・・。私の学校から受験した人たちは全員不合格。私も不合格だったのですが、英語の点数が20点ぐらい足らないだけでしたので、サウス・カロライナ大学へ出向き、「アメリカで20年も生活している人と、2年しか生活していない私と同じレベルで見るのは不公平だ」と、教授に談判しました。つまり、「ちょっとまけてください!」と言ったのです(笑)。でも、教授は「あなたはジュニア・カレッジで勉強していたのだから、まけるわけにはいかない」と言いました。わりと押してみましたが、ダメの一点張り。仕方がないので、「じゃあもう1度受けます」と宣言し、試験の準備をしていたところ、「みんなと相談した結果、あなたの入学を認めることにしました」と教授が電話してきたのです。そのようないきさつがあって、入学が決定しました。今から考えると、若かったからできたことですね(笑)。
サウス・カロライナから日本、そしてシアトルへ
大学時代はいかがでしたか?
入学が決定したところで、その前に大阪の万博で通訳をしようと思いつきました。そうすれば、しばらく両親と一緒に過ごすことができる、と。そこでアメリカから応募したのです。その際、「議員の推薦状をもらった方がいい」と言われましたので、サウス・カロライナ州の議員に手紙を書き、推薦状をもらいました。その推薦状はきちんと面接の時に参考にされたそうです。こちらの政治家はそういうところは市民権のない人のためにでもきちんとやってくれるみたいですね。その後、ニューヨークでの面接に合格して万博の通訳として働き、合計9ヶ月ほど大阪に滞在して親とゆっくり過ごしてからサウス・カロライナに戻って来て放送ジャーナリズムを勉強しました。
卒業後からアメリカで仕事をされていたのですか?
卒業後は、一旦日本へ帰り、英語専門の放送をしているテレビ局でニュース・ディレクターとして3年ほど勤務しました。そこで前の夫と出会い、彼の故郷であるワシントン州へやって来たのです。まず、彼の勤めていたラジオ局があるポート・エンジェルスに住み、それからキングストンへ引越し、シアトルの日本の銀行で1年ほど働きました。そう、フェリーで通勤していたのです。でも、1年ほどして日本のシステムに自分があわないことがわかり、シアトル・シティ・ライトで事務の仕事を始めました。もう20年以上もここで働いていることになります。
シアトル・シティ・ライトでのキャリア
現在のお仕事について教えてください。
この部門はカスタム・エンジニアリングと言って、例えば家やビルなど建物を建てる時、電気はここから来て、メーターはここ、と設置して検査をし、電気の線をつなぐところまでインスペクションをして、オーダーを出すというのが仕事です。また、お客様のご希望と、こちらでできることが異なる場合に、交渉することも必要になります。私たちが一番嫌なのは、検査に合格し、オーダーも出したのに、いざ電気工事師が来てみると、「こんなところに電気を入れられるか!」と、拒否されること。そうなるとすべてがやり直しになるんですよ。
大変なお仕事ですね。
この仕事に就くにはテストに合格する必要があります。最初はテクニカルな内容の筆記テストでした。事務をしていた時、せっかく「電力会社にいるのだから、電気のことを知っている方がいいかな」と思ってノース・シアトル・コミュニティ・カレッジで電気のクラスを受けていたのが役に立ちました。その後、さらに面接がありましたが、無事に合格。なんとこの部門で女性は私で2人目だったんですよ。当時は “Equal Employment Opportunity”(EEO:男女雇用機会均等法)が厳しくなっており、女性でマイノリティということが幸いしたのかもしれません。
女性としてこの仕事をされることについて、いかがですか?
電気工事会社の人たちは、最初は驚いていたようです。女性で、しかも小さな日本人ですし(笑)。でも、この仕事はかえって女性にいいかもしれません。テクニカルな知識が必要ですが、現場の仕事でも力仕事はありませんし。とは言え、今では女性が増えているものの、それまではまったくの男社会でしたから、私の前にこの仕事に就いた女性は1番苦労されたと思います。私の場合は2番目だったため、最初の女性がどうしてうまく行かないかを見ることができましたし、また、私が入った当時働いていた日本人の男性やその他たくさんの方々が親切にいろいろなことを教えてくださいましたので助かりました。というわけで、私の場合は女性だからといって、ひどいことをされた経験はありません。私が最初に昇進しても、意地悪されたこともないですね。しかし、ここは市の電力会社ですから、給料は段階別になっていても、1番上に来たら同じです。ですから、人を押しのけて、という風潮はありません。このオフィスは和気藹々としていて、仕事がしやすいですね。
スーパーバイザーとして責任も増え、また違った経験をなされていると思いますが。
EEOのおかげでマイノリティの女性にも門戸が開かれ、女性では初めてスーパーバイザーになってから、もう15年ほどになります。私って、昔から “Right Place, Right Time” で、運がいいのです。当時の面接ではテクニカルな質問と、「こういう場合にはどうするか」という状況的なトラブル・シューティングをさせられました。例えば、いつも遅れてくる社員に対してどのような対策をとるか、とかですね。また、正しい答えがないような質問もあります。今は私もインタビューする立場なのですが、そういう質問をして、その人の考え方の査定します。スーパーバイザーとなると、そういった管理職的な面もありますが、今でも小さな地域を管轄し、現場のことを忘れないようにする努力をしています。
今後の抱負を教えてください。
今後はあと2年ぐらいで退職し、ボランティアに専念したいと考えています。今でもインターナショナル・ディストリクトにアジア人女性の会や精神面で問題を抱える子供たちをケアしているチルドレンズ・ハウスでボランティアをしていますが、退職したら、そういったボランティアにもっと時間を費やしたいですね。
【関連サイト】
Seattle City Light
掲載:2002年12月