日本人のお客様にシアトルのすばらしさを紹介する -シアトルが好きでなければできない、ツアー会社を経営されている向笠さんにお話を伺いました。
※この記事は2001年12月に掲載されたものです。
向笠 陽子 (むかさ・はるこ)
1941年 福岡市に生まれる。
1978年 渡米。ペンシルバニアへ。
1986年 サンフランシスコへ。
1990年 カナダ・バンクーバーへ。
1991年 シアトルへ。
1994年 ジャポニカ株式会社設立。
2001年 アズマノと合併。現在に至る。
渡米
ジャポニカさんの業務内容について教えてください。
各地から来られた日本人の方にシアトルとその近郊をご紹介することです。企業視察などの企業訪問なども設定しますし、通訳・運転も致します。
このお仕事を始めたころはどのような感じでしたか。
1980年に子供3人と私の4人で、ペンシルバニアから姉のいるホノルルへ渡りました。そこで就職したのがJTBのホノルル事務所です。旅行業界は初めてという私はホテルの地下でお客様の荷物を整理・集計し、空港行きのトラックに乗せるという任務につきました。簡単そうで難しいのですよ、この仕事は(笑)。 まず数えるのが大変です。例えば、2個の荷物をハンカチで結んで「荷物は1つです」と言われる場合がよくありますが、毎日1,000人以上のお客様の荷物を扱っていても、そんな荷物があったら「お客様と再確認しよう」という思考回路を持たなければなりません。みんな緊張しながら、いつも良いサービスを提供しようと熱心に取り組んでいました。日本人の良いところですね。しばらくしてオペレーションに配属となり、チームでお客様のサポートにあたるようになりましたが、その頃はコンピュータなんて普及していませんでしたから、電話とFAXが中心。壁には日程表、天井には電話番号表という状態でした。
なぜ本土に移ってこられたのですか。
息子がカリフォルニアの大学に行きたいと言い出したのをきっかけに、みんなで本土へ移ることにしました。子供の年齢から考えて今しかないと思ったのです。ホノルルに行ってから5年後のことでしたね。しかし、ロスはあわないとわかっていたので、サンフランシスコに決定。当時JTBでは支社間の転勤は行っていませんでしたが、私はだめもとで談判し、転勤第1号になりました。サンフランシスコはホノルルのような大観光地ではなく、最初から最後まで同じガイドさんがサポートと、よりパーソナル。これはステキだなと思いました。4年後、カナダのバンクーバーで1年だけ勤務する機会に恵まれましたが、急遽辞めてしまった人の次が来るまでの約5ヶ月の間、アドミニストレーションも担当。親切な同僚のおかげでいろいろな勉強ができました。次の人が来て「やっと解放された!」と嬉しかったですが、その時の経験がジャポニカでの業務にすべて役立っています。
そしていよいよシアトルですね。
JTBがシアトル事務所を開いたのがその約1年前で、今度はそこに転勤しました。しかし、このシアトル事務所もバブルがはじけて閉鎖することになり、私を含むスタッフ全員が解雇されてしまったのです。そこで、当時からJTBの専属ガイドだった林さんと、「一緒に何かをしよう」と考えることになりました。林さんのことは以前からとてもクオリティの高いガイドさんだと思っていたのですよ。まず、人柄がいい。ガイドという仕事は商品を売るのではなく、サービスという目に見えないものを売るわけですから、人柄がよいことがまず大切です。ガイドになくてはならないものですが、学んで得られるものではありません。そして、ガイド業・物事についての知識と経験を兼ね備えているのが林さんだったのです。
最初からツアー会社を続けることを考えて話しあわれたのですか。
いえいえ、最初は輸出入業など、いろいろ考えましたよ。けれど、どんな仕事も楽ではないのです。そうこうするうちにJTBシアトル事務所の業務を引き継がないかという話が来ました。1994年1月半ばのことです。よくよく聞いてみれば「2月から業務を開始してほしい」というではありませんか。林さんと話し合い、ポール・ワタナベさんという方と3人で会社を始めることにしました。承諾してからの半月は初めてのことばかり。会社設立に会社の命名などあっという間に開業の日が来てしまいました。
ジャポニカという名前はどこから来たものですか?
これは、ポールさんのアイデアでした。椿(つばき)の花の学名はカメリア・ジャポニカといいますが、ただ 『ジャポニカ』 とも呼ばれています。ジャポニカは「日本原産の」という意味で、それが日本原産(?)の私たちにはぴったりだと思い、「じゃあロゴも椿にしよう!」と、”Japonica, Inc.” で登録しました。
設立してからのことを教えてください。
これまでやって来たことをそのままやるわけですから、ビジネス自体に不安はありませんでした。しかし、初めてのこともたくさんありましたね。例えば税金や会計のことなど、四苦八苦しました。でも、信用第一で、広告などは最低限に抑え、口コミの力を信じてやっています。今年になってより大手のアズマノ・インターナショナルと一緒になり、ダウンタウンの少し大きなオフィスに入居しました。
規模が拡大したことで、これまでと変わった点はありますか。
大きくなってシステムに変更は生じますが、それ以外のサービスはこれまでどおりのクオリティをキープしています。強欲にならず、リーズナブルで、まっとうで、正直に商売をしていればどうにかしてやっていけるはず。また、基本的に必要なものを大事にし、余計なものは抱え込まないようにします。私が生まれたのは日本が真珠湾攻撃を行う約1ヶ月前で、生まれたときからどん底の生活でしたから。何もなく、あるのはシラミだけという、飢え死にしそうな中を生き延びたのです。ですから、それ以上悪くなりようがないし、もし元に戻っても生きていける。私のような世代はそんなふうな気持ちを持っているのではないでしょうか。そんな私が、当時は敵国だったアメリカに住み、アメリカ国籍も取得しているなんて思えば不思議なことですね。
向笠さんの毎日の業務でのモットーを教えてください。
1つ目は、システムの中に問題、つまりゴミを見つけたらすぐ取り除く、ということ。見つけたゴミを放って置くと、そこにさらにゴミがたまってくる。そこでゴミを取り除いて流れを良くする。でもシステムを改善しなければ、また同じところにゴミがたまり、ひどい場合は他にも広がっていく。そうならないよう、ひたすら改善の毎日です。1人1人がきちんとやっていれば、それが全体につながり、ビジネスが生き生きとしてくるのです。「おかしい」と思ったら発言すること。それは組織に属しているときの義務だと私は思っています。黙っていてもゴミは残ったまま。それどころかどんどん増えていっているかもしれません。だめと思わずに言ってみるのです。自分が正しいと思ったら、我慢強く、押しが強いのが大事ですよね。でも、絶対に自分が正しいと思いこんではいけません。話し合いの場を設けてもらうようお願いするのです。また、管理者側が、せっかくの発言を無視したり、軽々しく扱ったりするのはいただけません。社員が黙っているのには、以前に発言したときに受け付けてもらえなかったとか理由がある場合もあります。会社を改善するためなのですから、社員に「めんどうだと思いますが、言ってください」とお願いし、一緒に改善策を考えていくべきです。2つ目は、ピンチをチャンスに変えること。戦争や経済停滞などの外因的な要素でピンチになった場合は我々の力が及ぶところではありません。しかし、ピンチになれば、クオリティに問題があるものは淘汰されやすい。ですから、こういう時は会社の健康状態を良好に設定・改善するチャンスと思います。3つ目は、”Mutually Beneficial”(みんなが得をする)な道を見つけること。自分だけが得をして、相手に無理を押しつけるやり方では決して長続きしないと信じているからです。そして、いつも感謝の気持ちを持っていたいと思っています。
わきあいあいとお仕事をされているように見受けられますね。
ジャポニカにとって最も大切な財産はガイドさんです。お客様に気持ちよくお帰りいただけるかどうかは、ガイドのサービスにかかっています。チームワークが良いということも財産の1つ。失敗から学ぼうという向上心があります。ある程度の失敗は避けられませんが、同じ失敗を繰り返すようではいけませんよね。1回目の失敗の後の処理の仕方を変える必要があるでしょう。
今回のテロ事件や経済停滞の影響はどのような感じですか。
テロ事件発生前は、イチロー経済効果で息もつけないほど忙しい毎日でした。経験の長いガイドさんが不足し、ガイド業をやめて看護婦になった人に「お願い!」と電話したぐらいです。それが、事件発生でガラリと変わってしまいました。事件後しばらくは飛行機が飛ばなかったため、シータック空港や市内に足止めになった方々のお世話をしましたが、それが終了したらまるで冬が早く来たみたいな感じになったのです。でも、私はジャポニカなら必ず残ってみせるという気持ちがありました。わたしたちのサービスのクオリティは変わりませんし、それをアズマノさんに買っていただいたのだと考えています。今は、コアとなるスタッフのトレーニングを重ね、システムを細かく改善し、来年のシーズンに備えています。
来年の抱負をお聞かせください。
このような形で来年もがんばります。みなさんのお世話もこれまで以上にきちんと行いますので、安心してシアトルにいらしてください。個人的には、今年5月にカリフォルニアで生まれた初孫に、できるだけ頻繁に会いに行きたいですねえ。そしてもちろん健康で、みんなと仲良く、良い仕事をしていくこと。健康維持のための毎朝2マイルのジョギングはずっと続けていくつもりです。
【関連サイト】
Seattle Mariners
Access Washington
掲載:2001年12月