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西村治子さん (Degenerate Art Ensemble 芸術監督・振付家・舞踊家)

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西村治子さん (Degenerate Art Ensemble 芸術監督・振付家・舞踊家)

今月11日、2年の歳月をかけて制作した 『Cuckoo Crow』 をムーア・シアターで公演するマルチメディア・パフォーマンス・グループ 『Degenerate Art Ensemble』。今回はその芸術監督で振付師・舞踊家でもある、西村治子さんにお話を伺いました。
※この記事は2006年3月に掲載されたものです。

西村治子(にしむら はるこ)

1970年 日本に生まれる

1972年~1978年 オーストラリア・中近東に在住

1979年 日本帰国

1984年 シアトルのノースウェスト・スクール・オブ・ザ・アーツ入学

1989年 ニューイングランド音楽院入学

1991年 再びシアトルへ

1992年 コーニッシュ・カレッジ・オブ・ザ・アーツ入学

1993年 夫・友人らとパフォーマンス・グループの活動を開始

1994年 コーニッシュ・カレッジ・オブ・ザ・アーツ卒業

2004年 Degenerate Art Ensemble を非営利団体登録

【公式サイト】degenerateartensemble.com

海外・シアトルでの幼少時代

シアトルに来られたきっかけを教えてください。

1984年、14歳の時に父の仕事の関係でシアトルに来ました。日本で生まれましたが、2歳から4歳半までオーストラリア、4歳半から8歳まで中近東、そして8歳から14歳まで日本に住みました。友達を作ったら突然また引っ越しという状況はとても大変でしたし、同時に日本語学校とアメリカン・スクールに通学したため、私の場合は日本とアメリカの両方で中途半端になってしまったかもしれません(笑)。

シアトルに来てからあちこちの学校で学んでおられますね。

シアトルに来てから、リベラル・アーツの学校であるノースウェスト・スクール・オブ・ザ・アーツに入学し、その後、ボストンのニューイングランド音楽院に入学しました。当時は音楽を専門としていましたが、「私はこれでいいのだろうか」と、自分の中でとても激しい葛藤をし続けていた頃です。ある時、壁にぶちあたるような経験をし、学校を中退。今は私の夫であるジョシュアと一緒にシアトルへ戻ってきました。

再びシアトルへ

『Degenerate Art Ensemble』 は、どのようにして生まれたのですか。

シアトルに落ち着いてから、ジョシュアが「僕は学校を終わらせたいから、コーニッシュに行くよ。君も行ってみたら」と提案してくれたのをきっかけに、彼はフルタイムで、私はパートタイムでコーニッシュに通い始めました。現在 『Degenerate Art Ensemble』(以下、デジェネレート)として活動しているマルチメディア・パフォーマンス・グループを始動したのもその頃です。

その頃のコーニッシュにはとてもおもしろい人たちがたくさんいましたね。私だけでなく、ミュージシャンやアーティストなど、周りのいろいろな友人たちがみんな、何かを自分の力で創り上げようとして、がむしゃらに葛藤していました。生徒というのは、学校では先生の下で、言われたとおりの課題や宿題をし、先生のようにならなくてはという気持ちが強いでしょう?自分でそうなっていると気がつかない時もあるかもしれませんが、私やその周りの人たちは、「そこから抜け出したい」と、もがき続けていました。そんな中で、自分で作曲を始めたジョシュアがある日突然、17人のミュージシャンや作曲家を使った室内音楽の楽曲を完成させ、「これをみんなでやってみよう」と言い出したのです。そして17人全員が集まってくれ、何度かその楽曲を練習してみたところ、なんとかうまく行きました。そして、ジョシュアは「僕がこれを観客の前で演奏できる会場を見つけてきたら、みんなはちゃんと一緒にやってくれるか」と聞き、みんなが「OK」と答えました。その他にも、作曲家が参加し、私もパフォーマンスを行い、他の人たちの作品も加えた “共同作品” がこのころに同時に始まりました。デジェネレートは本当にそんなところから生まれたのです。

最初の公演はどうでしたか。

ジョシュアが OK Hotel Club(212 Alaskan Way South, Seattle)と契約し、初めてのライブが決定。チケットは完売し、公演は成功しました。パフォーマンスをして収入を得たのはそれが初めてのことです。収入といっても、大人数のグループでしたから、1人あたり15ドル程度にしかならなかったように記憶していますが(笑)、初めて自分たちで力をあわせて何かを実現させたことでが、私たちの原動力となりました。それからはコーニッシュ内のさまざまなデパートメントの生徒たちに「一緒に何かをやろう!」と呼びかけ始めました。当時の先生方も共同制作を勧める傾向があり、「おおいにやりなさい」と応援してくれました。本当にいい先生たちでした。私たちはとても幸運だったと思います。

その最初のギグから勢いがついて、自分たちで一生懸命にテープやフライヤーを配り、次の会場からも次々と誘いが来るようになりました。私たちの周りに、アバンギャルドというのか、「新しいものを生み出していこう」という雰囲気があったのです。そして、ジョシュアが作曲をし、私がキューレーター(学芸員)になり、常に違うもの・新しいものを見せるようなパフォーマンスをしていこうとしていました。コーニッシュの生徒もいますが、ワシントン大学の生徒もプロもおり、年代も幅広い。いろいろな人とのネットワークを築いているので、例えば「チェロが必要だ」となると、「チェロを弾く人を知りませんか?」とあちこちに電話をかけて誘いをかけるという感じでした。

最新公演 『Cuckoo Crow』

『Degenerate Art Ensemble』 の生まれた過程について教えて下さい。

西村治子さん (Degenerate Art Ensemble 芸術監督・振付家・舞踊家)

3月11日公演の 『Cuckoo Crow』
写真© Steven Miller

そのアバンギャルドなオーケストラがどんどん変わっていき、『Degenerate Art Ensemble』 になりました。あまり大勢のアーティストを集めようとするのではなく、コアなもの、濃縮したものを生み出すために、「もっとこういうことをしたい」「こういう人がほしい」と、突き詰めていったのが非営利団体『Degenerate Art Ensemble』。ですから、今は最初のころとはまったく違うものです。1999年ごろ、自分たちで運営していく方法を模索した時、非営利団体になる切り替えが必要になりました。そして、観客とのインタラクティブ性を活かした作品をいろいろプロデュースし、2001年・2002年・2003年・2005年と、ヨーロッパ各地を回るツアーを開催。2005年の始めから半ばまでは4人組バンド、その後は45人のオーケストラになり、他の作曲家の作品もやりました。いろいろなことを同時にやった時期です。ですが、今月11日の公演は、その意味で私たちの頂点のようなもの。現在は、舞台の大黒柱であるステージ関係の技術者、そして外部から参加をお願いしているゲスト・アーティストたちも含めると、30人ぐらいが一緒に活動しています。

『Cuckoo Crow』 の発想はどこから生まれたのですか。

ジョシュアが公共テレビ番組の 『Animal Kingdom』 でカッコーの話を見たのがそもそものきっかけでした。カッコーの親は他の鳥の巣に自分の卵を産みつけ、自分の代わりに卵を育ててもらうのですが、そのカッコーの雛は生まれた時に、まだかえっていない他の卵を巣の外に落とすのです。彼はその生命力に打たれて(ショックを受けた方が大きいかもしれませんが・・・)、舞台のヒントを得たのだと思います。また、カッコーが他の鳥の鳴き方をすぐに真似できるというのも、ミュージシャンと共通していますので、ピンと来たのでしょう。

どういった内容なのか、少し教えていただけますか。

この舞台では、カッコーはカラスの巣に卵を産みつけます。そして、カッコーの世界とカラスの世界が同時進行し、カッコーとカラスの世界がインタラクティブになる場面もあるのです。巣から落とされながらも生きているカラスの卵に対し、カッコーは「殺したと思ったのに!」と攻撃をし、カラスは「ここで死んでなるものか!」とがんばる。観客は誰かに感情移入したいと思いますが、まずカラスに感情移入するでしょう。でも、私は、カッコーにも感情移入していただきたいですね。より長生きしよう、より生き抜こうとしているカッコーは、意外にも人間に似ています。動物の世界は生存競争が激しく、残酷かもしれませんが、みんなが平等。人間が1番偉いと思っている人間もいますが、実際のところはそうではありませんから。

芸術監督という立場はどのようなものですか。

芸術監督は、舞台の骨組みを作り上げることが第1の仕事。1人だとアイデアが限られていますので、最初に自分で基盤となるものを作り、経験豊富なアーティストであるメンバーとブレーンストームをしながら発展させていきます。みんなで実験し、研究しながら、共同作品を作るのを、バラバラにならないよう、まとめてガイドしていくのが私の役目と言えます。それがうまくいくと、とても素晴らしいものが生まれるので、観客のみなさんにも楽しんでいただけます。でも、アーティストは意見を強く言いますから、それをまとめていくのは、簡単ではありません。コミュニケーションの問題や、エゴのぶつかりあいなど、過去にはさまざまな失敗もありました。昔だったら、1人で泣いていたかもしれません(笑)。でも、そういう人たちの中にいられることは、私として最高に嬉しく、特別で、名誉あることだと考えています。私たちは非営利団体なので、補助金が追いつかずに財政難になっても、一生懸命にプロジェクトを信じ、時間を費やしてくれるメンバーのことを思うと、とてもじ~んと来ます。

今のお仕事で楽しいこと、苦労していることはありますか。

作品を作っている間は、何にでも敏感になります。例えばカフェで飲んでいるラテの泡からも「あ、これは!」ということもあり、また、何でも見に行ったり、何でも聞きにいったりします。自分自身がブロックされている時もありますけど、ブロックされている時は、それに無理に抗うのではなく、ブロックされているノリに乗っていくと、何かが生まれていくようです。

一番楽しいのは、みんなで作品を作っている時。一緒にアイデアを交換したり、議論したり、「いや違う!」「こうでなきゃいけない!」と、情熱的なぶつかりあいを見るのも好きです。みんながインディペンデントなので、そういう人たちと仕事をしていると、コミュニケーションの仕方や、制作の仕方など、学ぶことがたくさんあります。それぞれが専門的にやっていることに自分も入っていけば入っていくほど、いろいろなことを学びます。

システムが確立している伝統的なものは、自分が理解していなくても、「こういう時はこうする」「今日はAからB」「もうここは終えたから次はこれ」といった決まった流れがありますが、前例のないコンテンポラリなものはそうはいきませんので、自発性と自制心がないと何も起きないのです。方向性を決めて誰かがまとめていかないと何も動きません。ですから、私がプッシュしていかないと何も始まらないことがあります。また、私自身もダンサーやミュージシャンとして舞台に出るわけですから、芸術監督という仕事にあまりにもたくさん時間を取られてしまうと、自分の芸術を磨く時間がなくなってしまいます。今月の舞台に関しては、2月の時点でもまだ財政的な問題や技術的な問題がいくつか解決しておらず、恐怖感も焦りもありました。時間が足りないと感じることが何度もありましたが、私たちは、英語では “emerging artist” と呼ばれる、まだ確立されていない新進アーティスト。現在はステージ・マネジャーがいて、みんなが役割をきちんと果たしてくれるようになり、私自身も自分のクリエイティブ方面に焦点をあてることができるようになってきました。

舞台美術は市川江津子さんが手がけているとのことですが。

市川江津子さんとは約2年前に知りあい、その後の私のショーにも彼女が来てくれたりしたこともあり、ジョシュアと私は「将来、彼女と何か良い物を作ることができそうだ」と、話していたのです。人を安心させる彼女のその人柄が、私にもとてもあっているようです。1月に招待客のみのプレビューを行った時は、踊りも音楽も舞台美術もまだまだ変更途中でしたので、当日を楽しみにしていてください。

今後の抱負を教えてください。

3月11日の公演は、伝統的なものや一般的なものに飽きてきた人、新しいものを見たい人、冒険的な人におすすめします。そして、今回の公演が終わったら、まったく違うものを探求したいですね。ステージから少し離れ、サイト・スペシフィック、インタレーション的なものを考えています。まだモヤモヤしている状態ですが、きっと何かが生まれると思います。

掲載:2006年3月

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