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イラストレーター 高橋英子さん

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フリーランスのイラストレーターとして米国永住権を取得し、多数の絵本や学校教材などのイラストを手がけている高橋英子さんにお話を伺いました
※この記事は2005年6月に掲載されたものです。

高橋 英子(たかはし ひでこ)

1979年 同志社大学在学中にワシントン大学で1ヶ月滞在
1990年秋 ワシントン大学のESLへ
1991年1月 Otis College of Art and Design 入学
1994年5月 Otis College of Art and Design 卒業、『Kidspace』でパートタイムで働きながら、フリーランスを目指す
1995年 イラストレーターとして最初の学校教材の仕事受注
1996年 イラストレーターとして最初の絵本の仕事受注
1998年1月 米国永住権申請
1998年 最初の本出版
2000年6月 米国永住権取得
2001年 シアトル移住、現在に至る

最初の渡米

アメリカに来たいといつごろから考えておられたのですか。

アメリカに来たいと思ったのは、中学校時代でした。そのころになるとたいていみなさん外国の曲などを聴くようになると思うのですが、私もその1人でサイモン&ガーファンクルを聴いていました。彼らの歌詞にはニューヨークがよく登場するので、「ニューヨークはどういうところかな」と考えるようになったのです。そして、小学校の卒業記念にもらった英和辞典を使って歌詞カードにある単語をすべて調べたりして英語が好きになり、「アメリカに行きたいな」と思うようになりました。

最初に渡米されたのはいつですか。

アメリカの大学の寮に1ヶ月間滞在して勉強するというプログラムをある教育団体がアメリカ各地の大学と提携して開催し、私はそれに参加することに決めました。そして、同じ大学の同じ英文学科に在籍していた親友の英会話の先生が「シアトルはいいところだよ」と言ったこと、このプログラムでは最も料金が安かったことから、シアトルのワシントン大学を選びました。そのようなわけで、初めての渡米でシアトルに来たのです。

シアトルの印象はどうでしたか。

最初からめちゃくちゃ好きになり、「絶対ここに住みたい!」と思いました。1ヶ月のシアトル滞在はあっという間に過ぎて日本に帰り、大学卒業後には就職して家庭用品の商品企画をする会社員になりましたが、どうも私は会社でずっと働くことはあまり向いていないように思われたので、もっと自分で好きなことをしたい、アメリカに行きたいというのをあわせて何かできないかと考えるようになりました。そして、自分でできることで、どこにでも住むことができて、年齢制限がない仕事・・・それならアメリカのアート・スクールへ行ってイラストレーターになろう、と決めたのです。幼いころから絵を描くのは大好きで、たいていの女の子と同様、小学校から友達と少女漫画を描いていました。

アメリカに移住

アート・スクールに合格するまでのことを教えてください。

当時はインターネットなどありませんでしたから、良さそうな学校にいちいち手紙を書いてカタログを請求し、結局はロサンゼルスにあるオーティス・カレッジ・オフ・アート・アンド・デザインに決め、願書や作品など指定されたものを送って合格の通知を受け取りました。でも、いきなりアメリカに行って大学に飛び込むのは不安でしたから、「この際、シアトルに行かなくては」と、3ヶ月間にわたってワシントン大学のESLで英語を勉強しました。そこで習った論文の書き方などはとても役に立ちましたよ。そしてシアトルからロサンゼルスに移動してオーティスへ移りました。

ロサンゼルスはどうでしたか。

現在のオーティスはロサンゼルス国際空港の近くにありますが、当時のオーティスは非常に治安の悪いダウンタウンにありました。シアトルのようにのどかできれいなところから、突然かなり怖い地域へ行ったので、慣れるのにとても時間がかかりました。結局はそれから10年もロサンゼルスにいたのですが、私にとってロサンゼルスのいいところは、日系マーケットがいろいろある、日本語のテレビも普通のチャンネルで見ることができる、日本語の無料コミュニティ誌でも日本の雑誌のように立派なものがたくさんある、という点です。でも、ロサンゼルスのように天気が毎日いいと腹が立ちます。毎日晴れていたら「雨ぐらい降れ!」と思うでしょう。毎日が夏で短パンをはいて、季節感がありません。シアトルだったら過去を振り返った時に「あの時は寒かったな」「あれは何月やったね」と思い出せますが、ロサンゼルスはなかなか思い出せないのです。紅葉もない。私にとって季節感は大事なので、季節の変化があるシアトルのような土地のほうが良いですね。でもとりあえず卒業するまではがんばろうと。また、ロサンゼルスでは日本人の友達はたくさんできましたので、ありがたかったです。学校では課題がたくさん与えられ、連日が徹夜。アメリカの大学はどこもそうだと思いますが、「すごいなあ、寝るひまもないなあ」という感じでした。

卒業後の仕事に向けてどのようなことをされましたか。

私はイラストレーション専攻でしたから、普通に就職するという会社員の道は少なかったので、卒業前から自分の売り込みに使う作品の制作を開始しました。そして、フリーランスの方面では自分で描いた絵の写真をカメラで撮影し、それをスーパーマーケットで焼き増しし、郵便で出版社に送りました。出版社はだいたいニューヨークに集中していますが、イラストレーション・マーケットなどのような業界誌や書店で見つけた絵本で出版社の連絡先を書き写したものです。また、出版社に直接電話して「どなた宛にお送りすればよいですか?」「アート・ディレクターの名前を教えて」と言って受取人の確認をしました。就職という面では、パサデナにある 『Kidspace』というチルドレンズ・ミュージアムで、イン・ハウス・アーティストとしてパート・タイムの仕事をもらいました。ここはミュージアムの中で子供が遊びながら学べるようになっていて、私の仕事は絵を描くこと。例えばミュージアム内に消防署を作るのであれば、屋根は大工さんが作り、イン・ハウス・アーティストである私が消防署の向こうに見えている町などの背景を描いたりしましたね。虫の勉強をする教材であれば、虫の絵を描いたりもしました。給料は安かったですが、とても楽しかったです。そういうところで働いていると、子供たちがたくさん来ているので、絵のモデルがたくさんいるようなもの。裏方の仕事でしたから子供たちに会うことはあまりありませんでしたが、たまに表に出ることがあれば、どんなおもちゃを持っているか、何に興味があるか、いろいろ話してくれるので、それが絵を描くときの参考になりました。また、おもちゃと子供の大きさの比例がわかるのも重要です。きれいな景色を見ていなかったらきれいな景色を描けないのと同じで、イラストレーターはいろいろな経験をしなくてはならないなと思いました。

高橋さんはフリーランスのイラストレーターとして永住権を取得されたそうですね。

学校を卒業してすぐはオプショナル・プラクティカル・トレーニング・パーミッション(労働許可証:OPT)で働いていましたが、OPTが終わる前に前述の『Kidspace』がスポンサーになってくれてH1Bビザ(専門職ビザ)を申請しました。しかし、この申請は2~3ヶ月で却下されてしまったのです。私と同じ学校を出て普通のギャラリーで働いていた友達が難なくH1Bを取得することができたことから、弁護士さんは「これはおかしい」と、司法省に上訴して再審査してもらうことになりました。しかし、幸運なことにその再審査の結果を待っていた間に、ニューヨークの出版社から「これから出版される絵本の絵を描いてくれないか」という話が来たのです。それをきっかけに、立て続けに出版の話が来ましたが、その人たちはなんと学校卒業時に私が焼き増しして送った作品の写真を見て、連絡してきてくれていたのです。自分の絵が出版されるということはとても大きなことなので、その弁護士さんに話したところ、「フリーのカメラマンがあるミュージシャンのアルバム用に写真を撮影した。そのアルバムがグラミー賞を獲得し、そのおかげでそのカメラマンは永住権を取得している。だから君も永住権を取得できる」と。その時、弁護士がそういう道があることを知っていることがとても重要なんだと思いましたね。それからすぐに申請を始めました。そして、2年半で永住権を取得することができたのです。

永住権を取得されて、どういうお気持ちでしたか。

「やったー!」という反面、「ついに来たか」と、気持ちが引き締しまるような感じでした。もちろん、それまでも一生懸命やってきましたが、これからは1人前の立場でもっとちゃんとやらなくてはならないと感じたのです。そして、翌年の夏に念願のシアトルへの引越しを実現しました。

絵本ができるまで

最初に出版の話が来たときはどういう気持ちでしたか。

今にしてみればそんな出版の話なんてすぐに来るわけないとわかるのですが、出版社に問い合わせを続けていた当時は「やってもやっても成果がない」と、しょげていました。そしたらある日、電話が鳴り、ヘンリー・ホルト社から出版の話が来たのです。同社は児童書専門の会社で、私のあこがれの会社だったので、「信じられない!」と、受話器を握り締めてコチコチに緊張しました(笑)。

これまで出版された本について教えてください。

最初に私が手がけた本は、『Beach Play』です。この仕事は1996年にいただきましたが、出版されたのは1998年。私が絵を描くのに1年、出版者が製本するのに1年かかっています。この絵本では、子供が感じるビーチの広さを出そうと、高いところから、低いところからと、いろいろな視点から見た絵にしてみました。ある日、この絵本を見ていた友人が、「ビーチで脱いだサンダルがきちんと揃えてあるところが日本人だ」と言っていましたね。この絵本では犬を登場させましたが、そのおかげで犬の絵を描く仕事をたくさんいただきました。例えばこの5月に出版されたばかりのこの『Hotdog on TV』ですが、この編集者は 『Beach Play』をご覧になって「君に頼みたい」と言ってきてくださったのです。犬は日本で飼っていましたので、動きがよくわかるのです。散歩に行きたい時のちょっとした足の様子とか、細かいところがポイントになりました。実はこの絵本には自分と日本で飼っていた犬をこっそり登場させています。昔の髪型なのですが、ちょっと探してみるとわかります(笑)。また、『Hotdog on TV』ではテレビ局が舞台に出てきますので、シアトルのテレビ局 King 5 に電話をして状況を説明し、見学させてもらいました。『Hotdog on TV』が11冊目の本で、年内には12冊目の本『Princess Fun』が出ます。『Princess Fun』は子供が数字を覚えるための小型本ですが、1から10まで数えるのではなく、10から1まで数えるというユニークなものです。

絵本が出版されるまでの基本的な手順はありますか。

『Beach Play』 は、1996年に描き始め、出版されたのは1998年です。1996年の前半には着手していました。出版までの流れというのは基本的に、ライターが物語を完成させ、次にイラストレーターが絵を完成させ、そして出版社が製本をして出版します。私はまず鉛筆の下書きを出し、細かな調整をして、理想的には2回目のスケッチで承認をいただいて、色を入れていきます。最初から大きい絵を描くと時間も労力も無駄になることがありますから、下書きは小さいもの。承認されたらイラストレーション・ボードという硬い紙のボードを使って絵をトレースし、アクリルで塗っていきます。編集者はニューヨークにいますので、やり取りは最近はメールでのやり取りが中心ですね。でも横幅10インチの絵では絵本だと開いたら20インチになりますから、メールでは無理な場合があります。そういったときは運送会社を利用して臨機応変にやっています。

イラストレーターの手元にはどのような形で物語が送られてくるのですか。

イラストレーターの手元に物語が来る時点では、もちろん絵も何もなく、文章はタイプしただけ。『Beach Play』の文章を読んでいただいたらわかりますが、物語ではなく言葉遊びの本なので、ほんの数十行の言葉から自分で人物設定や状況を考えて描きました。主人公が女の子であることも、お父さんもお母さんも犬も私の創作です。たまに編集者から「女の子がいい」などのような希望が来ることはありますが、たいていは「好きにやって」と言われます。一方、学校教材に使われる絵は指定がとても多いですね。例えば白人2人、黒人2人、黄色人種2人、など、人種の割合などにもとても厳しいです。

また、ページ割りまでイラストレーターがすることもあります。例えば『Hotdog on TV』であれば、文章にすれば数ページですが、「絵を入れて何ページになる本」と出版社が指示してきました。そして私が物語を読んで行数をページ数で割って平均を出し、これは何ページにいれよう、ここに絵を入れよう、と決めたのです。

1冊にかける時間はどのぐらいですか。また、煮詰まった時にはどのように対応していますか。

私の場合、絵本の最初の図案を考えるのにかかる時間もさまざまです。どれだけ主人公に感情移入できるかが重要ですね。私の場合はひょうきん系の方が進むようで、現在手がけている仕事は第1段階のスケッチを32ページ分考えるのに2時間しかかかりませんでした。しかし、物によってはものすごく考えないといけないことがあり、煮詰まった時は書店で写真集を見るのが好きです。アイデアには直接結びつかなくても、目を刺激してくれるものが必要。また、幼いころからテレビを見ながら絵を描いていたので、いつもテレビを見ながら仕事をする習慣は変えられません。

これからの抱負をお聞かせください。

ロサンゼルスでは学校へ行き、『Kidspace』 でも働いていましたから、周りにアート関係の仕事をしている友人がたくさんいましたし、知り合いも作りやすかったですが、シアトルでは特に家で働いていますのでまだ知り合いが少ないです。これからは知り合いを増やしていきたいと考えていますので、その一環としてシアトル水族館で週に1日ボランティアをしています。そのボランティアの仕事は水族館のウェブサイトで見つけて応募しました。ボランティアになるために8週間の週末に朝から夕方まで勉強し、人前で話す練習をするなどトレーニングを受けなくてはなりませんでしたが、今は水族館に入ってすぐのところにあるタイドプールという海洋生物に触れるところで来館者と話をしたり、餌を作ったりしています。そこで初めて、ウニが海草を食べることを知りました。何でも経験ですね。

また、これからは日本でもイラストレーターとして活動してみたいですね。将来は物語やコンセプトから手がけることもできればいいなと思います。

掲載:2005年6月

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