サイトアイコン junglecity.com

末吉英則さん シアトル・マリナーズ スカウト部長付補佐

safecofield

今年、日本から入団した佐々木投手が大活躍したシアトル・マリナーズ。シアトルの 日本人コミュニティも盛り上がりました。今月は、そのマリナーズでアシスタント・スカウトとして勤務されている末吉英則さんに、お話を伺いました。
※この記事は2000年10月に掲載されたものです。

末吉英則(すえよし ひでのり)

1986年 オレゴン大学で3週間留学

1987年3月 近畿大学卒業後1週間で渡米、オレゴン大学 ESL 入学。

1988年1月 オレゴン大学に正式入学

1990年6月 オレゴン大学卒業

1990年8月 ニューヨークのオリックス・コーポレーション本社で面接

1990年10月 オリックス野球クラブ株式会社入社

1998年1月 3年契約でシアトル・マリナーズに出向

2000年6月 シアトル・マリナーズに正式入社、現在に至る

【公式サイト】 seattle.mariners.mlb.com

少年時代

小さい頃から野球はお好きだったのですか。

強烈に、というわけではありませんでしたが、野球は好きでした。しかし、大阪のど真ん中で生まれたので、野球を思い切りできるような場所は無く、学校に上がる前は道で父親とキャッチボールをしたり、家の壁がボロボロになるまで一人野球したりしてました(笑)。そして、小学校ではソフトボール、中学では野球チームでプレーし、その後、高校では野球部に入部したのですが、想像と違っていたので退部。それからは中学の軟式コーチをしていました。

そのころの将来の夢は何でしたか?

高校の社会科の先生になることでした。それで教員免許も取得しましたし、先生となった暁には、野球部の監督またはコーチになりたいと考えていました。

大学のホームステイ・プログラムで初めて渡米

それがどうしてアメリカへ来られることに?

通っていた近畿大学が、4回生の夏休みに3週間ホームステイ・プログラムを始めました。昔から洋画や洋楽が好きだったので、いつかは海外に行きたいと思っていたので参加を希望しました。あれは1986年で、ちょうど ESL ブームの始まりだったことから参加希望者は山ほどいたのですが、ラッキーなことに、第1回目の20人の中の1人に選ばれ、オレゴン州のユージーンにあるユニバーシティ・オブ・オレゴンへ。ホストファミリーは両親に娘さん2人と息子さん1人で、とても良くしてくれたので、初めてのホームステイもとても楽しく過ごせました。

それから本格的に留学されたわけですね?

「英語をマスターするぞ!」という気持ちが強くなり、日本に戻ってからすぐユニバーシティ・オブ・オレゴンに編入手続きを取りました。翌年3月の大学卒業後1週間でアメリカへ。そして同じホストファミリーのところで3ヵ月ほどお世話になってから、大学近くのアパートへ引越し、アメリカ人のルームメイトを持ちました。ESLを約9ヶ月で終了し、レギュラーのクラスで勉強するようになったのは、その年の冬でした。

アメリカの大学生活はいかがでしたか?

私の大学時代には苦労話というものがないんです。もちろん、1クラスで10週間に4~5冊の本を読まされますから勉強は大変でした。自分でやらないと追いつかない。ですが、自分の中の「やろう!」という気持ち、そして、「英語をマスターするぞ!」という気持ちから、よく学び、よく遊ぶという生活を送りました。野球同好会などに入って友達も簡単にできました。しかし、ユージーンは大学があるだけの小さな町ですから、当時、和食レストランと言えば1軒だけ。和食の食材などはアメリカの食料品スーパーの一角に少し置いてあるだけと、今のシアトルのような雰囲気はまったくありませんでした。私にとっては、それが唯一の問題だったと言えるでしょうか(笑)。

オリックス野球クラブ株式会社に入社

現在の仕事に就かれるまでの経過を教えてください。

卒業が目前に迫った1990年6月、「さてどうしようか」と考え始めました。なんとかアメリカに残りたいと思い、日本語を教えている学校に、片っ端から履歴書を送付。その結果、リンウッドの学校区にある小学校からお呼びがかかりました。さて、「いよいよ就職か」というある日、ESPNを見ていると、元阪神タイガースのフィルダー選手が、日本とアメリカにおける野球や生活様式の違いについて話していたのです。そこで、自分なら野球界のお手伝いをできるのではないか、とピンと来ました。さっそく、中途採用を奨励していたオリックスに、英語ができるということをアピールするべく、英文の手紙を送付。するとそれから約1週間後にオリックス球団代表から自宅に電話がかかってきたのです。驚きました。その電話で、球団代表は、当時ピッチングコーチだったジム・コルボーン氏の通訳というポジションを提示してくださり、ニューヨークのオリックス・コーポレーション本社で面接を受けるように言われました。そして、その年の8月に同社社長との面接後、採用が決定。1990年10月1日付けで、オリックス野球クラブ株式会社に入社しました。

とても積極的な就職活動が大成功ですね。仕事の内容はどのような感じだったのですか?

最初はピッチングコーチの通訳だけをしていれば良かったのですが、1991年のシーズンが始まってからは、選手調査や契約など、さまざまな業務に走り回る毎日。また、選手とその家族のお世話も業務に追加されました。というのは、選手自身は米国内の遠征で旅慣れしていても、選手の家族の多くは初めての外国暮らしを体験するという場合が多いです。その家族が日本を気に入るか気に入らないかが、選手のパフォーマンスに良くも悪くも影響します。最初はとても苦労しましたが、神戸のグリーンスタジアムに移ってからは、神戸の国際的な面に大いに助けられました 。特に1995年の震 災では、選手達とその家族が住んでいた神戸北部が打撃を受けたのですが、全員が神戸の海上にある六甲アイランドのアメリカ人専用マンションなどに引越し。外資系企業に勤める外国人も多く住んでいることから、英語で生活できるようになりました。選手の家族にとっては非常にありがたいことです。

シアトル・マリナーズに入社

シアトル・マリナーズに来られた経過について教えてください。

私が2年間通訳を務めたピッチングコーチ、ジム・コルボーン氏が、1995年から太平洋地区スカウト部長としてシアトル・マリナーズで勤務していました。1997年3月、オリックスとマリナーズの業務提携の話が始まった時、そのコルボーン氏が、「マリナーズの手伝いをしないか」と誘ってくれたのです。それまで行ったこともなかったシアトルを2度ほど訪ね、「ここでならやれるかもしれない」と思いました。そしてその翌年の1998年1月、3年間の契約でマリナーズに出向してきました。

現在のお仕事の内容を教えてください。

現在の役職は Assistant to Director, Pacific Rim Scouting(太平洋地区スカウト部長付補佐)です。私が所属している球団本部はスタッフがたったの7人と、日本では考えられないほど小規模ですが、コンピュータとインターネットのおかげで、各地のスタッフから送られてくる莫大な量の情報を受けて仕事をこなしています。そのぶん、「みんなが同じ舞台に立って、何が起こっているのかわかっている。知らなかったでは済まされない」、そんな緊張感がありますね。

基本的な仕事はこのような感じです。

  1. スカウト部長であるコルボーン氏のアシスタントとして、太平洋地区からの選手を獲得し、マリナーズ選手の日本球団への譲渡をすること。太平洋地区とは、日本・中国・韓国・台湾・オーストラリア等の国々を指し ます。これまでにマリナーズから日本へは1998年にハタド投手(オリックスへ)、今年はバンチ投手(中日へ)、そして日本からマリ ナーズへは今年になって佐々木投手を獲得しました。また、この業務には日本・韓国から来られる球団関係者のサポート等も含まれます。
  2. その他の地区の担当部長との業務ラテン地区(ドミニカ・ベネズエラ・メキシコ等のカリビアン諸国)担当部長や、ヨーロッパ地区担当部長、プロフェッショナル・スカウト部長などをはじめとする各部長の補佐や、各種プロジェクト等のアドミニストレーション・タイプの仕事があります。
  3. マリナーズのホームページや日本語ページのアップデート
  4. シアトルの日本人及び日系人コミュニティとのコミュニケーション

今シーズンを大いに盛り上げてくれた佐々木選手が、シアトルに初めて来られた時のエピソードをお聞かせください。

佐々木選手が初めてシアトルに来られたのは、1999年11月。この時、上司である球団代表から受けた命令は、「他の球団ができないことをやりなさい」。そこで、スコアボードに漢字で名前を表示させたり、佐々木投手のシュミレーション・ ゲームを表示させたりし、また、ミュージック・ビデオも作成するなどして、シアトルがいかに日本人に優しい街かをアピールしました。

日本人選手がアメリカで成功する秘訣はなんだと思われますか?

いろいろな要素がありますが、技術的に優れていること、1日のリズムや行動・生活様式の違いに対する柔軟性、「アメリカではこうなんだ」と違いに慣れることができる人は成功するのではと思います。もちろん失敗もするでしょうが、そこから慣れて行くという前向きで強い姿勢が大事です。

末吉さんは、今年からマリナーズの正社員になられたそうですが。

マリナーズで働いているうちに、アメリカに残りたいと思うようになりました。それもアメリカのどこかというのではなく、このシアトルにある球団本部で、上に登りたい。そんな決意で、マリナーズに正式入社しました。

正社員として働くことは、以前と何か違いはありますか?

特に違いはありません。毎日の仕事内容は同じ。しかし、外国人である私にかかるプレッシャーはものすごいものがあります。しかし、とにかく良い仕事をするようにいつもアンテナを張り巡らせています。

これからの末吉さんの夢を教えてください。

もう亡くなられてしまったのですが、元ドジャーズの Ike Ikuhara (アイク生原)氏のような、日米球界の橋渡し役となりたいです。そして、彼がやれなかったことを実現させたい。そう思っています。

掲載:2000年10月

モバイルバージョンを終了