サイトアイコン junglecity.com

新井宏さん (Big Island Abalone Corporation: Senior Vice President)

日本の高度成長期に入社した株式会社極洋で本社取締役兼極洋 USA 社長まで務め、50代に入って “脱サラ” を実現。現在はハワイ島でのアワビ養殖事業に従事している新井宏さんにお話を伺いました。
※この記事は2003年6月に掲載されたものです。

新井宏(あらい ひろし)

群馬県桐生市生まれ

1963年 慶応大学卒業、株式会社極洋に入社

1974年 シアトル駐在事務所に赴任

1991年 本社取締役兼極洋 USA 社長に就任

1997年 退職

1998年 起業

1999年 アワビ養殖会社 Big Island Abalone 社に参加、現在に至る

【公式サイト】 www.bigislandabalone.com

買い付け担当者として渡米

シアトルに来られたきっかけについて教えてください。

大学卒業と同時に、丸の内に本社がある株式会社極洋に入社しました。当時の極洋は海外での漁業を拡大していたのですが、私は入社翌年の1964年から鮭やニシンなどいろいろな水産物をアラスカから日本市場向けに買い付けるため、シーズンになるとアラスカやシアトルに買い付け担当者として出張するようになったのです。当時は独身でしたから、いったんこちらに来ると半年ほどアラスカの缶詰工場や加工船で魚と共に仕事をしていました。おもしろかったですよ。

大学時代から水産関係に進もうと決められていたのですか。

生まれは海ナシ県の群馬県の山の中ですし、大学でもまったく別のことを勉強していましたから、水産関係に進もうという意図はまったくありませんでした。しかし、自分の中で将来は海外に行きたいという気持ちがありましたので、偶然にも海外事業をやっている極洋に入社して海外に行く仕事を担当することになったのは、やりたいものがタイミングよく見つかったようで幸運でした。そして希望どおりすぐに海外に出るチャンスがめぐってきたわけです。

初めてアメリカに来られたときにカルチャーショックなどはありませんでしたか。

最初に来たときは学校を出たばかりでしたから、英語もそれほどできませんでした。しかし、前からアメリカには憧れていたので英語は嫌いではなく、高校生の時には近所に住んでいたアメリカ人に英語を教えてもらい、こちらに来る前には英会話の学校に通いましたから、初めて来たときはあまり抵抗感というものはなく、比較的スムーズに溶け込んだと思います。まだ来て間もない頃は、英語を話すのが楽しい時期がありますよね。今の若い人たちも同じではないでしょうか。

その後、本格的にシアトルを拠点にされたのですね。

極洋が海外事業を急速に拡大し、アラスカの水産会社を買収した1974年、私は駐在員として家内とまだ幼い長女と一緒にシアトルへ移ってきました。そして1997年に退職するまで23年にわたって駐在員としてシアトルに住んだわけです。最後の10年ほどは現地会社の社長を務めましたが、自分なりにやりがいのある充実した仕事をしたという気持ちがあります。

起業

起業を決心された当時のことを教えてください。

アワビの養殖タンク

私は極洋という大きな組織の中で働き、1991年から最後の6年間は本社の取締役兼子会社である極洋 USA の社長としてシアトルの駐在事務所を切り盛りしましたが、1997年になって役員退任となり、会社からは引き続いて極洋 USA の社長を続けて欲しいとの依頼がありました。そのときに考えたのは、「今後も会社組織の中に残ってしまうと、会社の命令で自分の将来を選択しなければならなくなってくる。この辺で退職して、自分で始めてみるのもいいか」と思ったのです。もともとそういうつもりではなかったのですが、たまたま取締役としての任期が終わって将来の選択を迫られた時に、アメリカに長く住んでいますし、子供もこちらで育ちましたから、アメリカで好きなことをやりたいという気持ちが出てきたのでしょう。幸いにも家内も賛成してくれて、気弱になりかけた私を励ましてくれました。

会社を設立してからどのようなご苦労がありましたか。

私が起業した時は、若い時のような「給料がなくなったら明日の生活も大変」という経済状態ではなかったにせよ、自分で稼がなくてはお金が入ってこないのは大変なことです。また、今までは黙っていても加入されていた医療保険もなくなる。特にアメリカみたいに医療保険を自分で負担しなければならない場合は、心細いですね。今では日本の終身雇用制がどんどん変化し、若い人たちは自分の好きな会社に比較的簡単に移っていくようになっていますが、高度成長期に大会社に入社してから35年間を「寄らば大樹」でやって来た私の場合は、小さな仕事をやるにしても、大組織の中でやるのと、自分1人の会社でやるのとでは大きな違いがあることを実感させられました。今までは部下や秘書にやってもらっていた仕事や細かな実務も、すべて自分でやらないといけない。大変だとは思っていましたが、実際に始めたら想像以上に大変で焦りの毎日が続きました。

そして、もう1つは大会社の看板で「取締役の新井」としてやる仕事と、後ろ盾がないまま「個人会社の新井」としてやる仕事では、同じ新井でも相当違いました。水産物を買うにしても資金の工面をしなくてはならない。極洋を通じて知りあった取引先なども、新井個人と取引するのとでは当然、対応が違ってきますよね。その中でやっていけるかという不安はものすごくありました。今はこのアワビの事業に入りましたので、おかげさまでそういった苦労はあまりしなくてすむようになりましたが・・・。私みたいに年を取ってから自分で何かをするという人たちにはよくお会いしますが、特殊な経験や技術があり、どこへ行っても通用するような人でないと、やっていくのは大変な苦労です。

養殖アワビ事業

この養殖アワビ事業に出会ったきっかけはなんだったのでしょうか。

出荷するためにタンクから出されたエゾアワビ

アワビの養殖事業を起業するアイデアも土地もあり、技術者もいるが、資金と販売担当者がいないというグループが人材と投資家を探していた際、私が極洋時代から親しくさせていただいている会社経営者のタルボット氏に「投資をしませんか」と聞いてきたわけです。私はその頃からタルボット氏の事務所内に自分の事務所を構えていたのですが、彼が「こういう話があるんだが、どうだろう」と相談してきました。彼はとにかく新しいことが好きな人で、「2人で見に行ってみよう」と、アワビの養殖用に確保しているハワイのビッグ・アイランドの土地を見に行き、その後、私は養殖アワビの販売の可能性を調査するため、日本へ行きました。そして、水産会社やアワビを扱っている業者から「夢のある仕事だ」「とてもいい」と、予想外にポジティブな反応が返ってきたのです。その年の秋にもまた日本へ行って調査するなどコンサルタントとして約1年間働いた後、投資家集めと販売の担当としてこの事業に参加することを決めました。

新しい事業に参加することはどのように決心されたのですか。

アワビ1つ1つの重さを計って梱包し、出荷します

35年間にわたる会社勤めからようやく脱出したわけですから、今からまた会社に入ることには非常に抵抗がありました。しかし、この会社はまだ始まったばかりで、みんなで一緒にやっていこうという雰囲気があり、少ないけれども自分にもストック・オプションが与えられ、権限は持つが責任はすべて自分で負うという立場は今までの会社人間としての立場と大きな違いがありました。これが、アメリカの会社で単なる販売担当として雇われるなら断ったと思いますが、責任をきっちり果たすという同じようなプレッシャーがありながら、今までにない自由な中で仕事ができるのは新鮮でした。

資金集めは大変だったのでは。

事業計画ができて、テスト生産も始まり、本格的に事業に着手するという段階で相当の資金が必要となりましたが、会社を創設したグループの人たちのほとんどは経済学の教授や水産学者たちで資金の裏づけはまったくありませんでした。当初はハワイでパイナップルを生産している”Dole”という会社が出資をしてくれるはずだったのですが、景気が悪くなり、さらに社長が体調を崩して退任してしまい、新しい社長が将来の事業への投資は見合わせることを決定したため、資金が出なくなったのです。そして、私が市場調査を進めながら、アメリカや日本で友人や知人に声をかけたところ、夢のある事業だからと出資に応じてくれる人が集まり、なんとかスタート資金が集まりました。アワビは人工孵化から出荷できる状態になるまで3年かかりますが、まず工場が完成するまで2年という予定が3年に伸びたため、結局、事業が始まった最初の年である1998年後半から2002年の3年間は資金集めに奔走することになりました。最初は計画だけでしたから資金はなかなか集まりませんでしたが、工場ができ、アワビができてくると、だんだんと投資先として魅力が出てきて、おかげさまで何回かの投資家募集で資金が集まり、ようやく今年に入って生産も軌道に乗りつつあるところです。

ハワイのどのような土地で養殖をされているのですか。

ハワイ島コナ地区

ハワイ島のコナ地区にある広さ10エーカー(約1万2,500坪)の溶岩でできた土地を整地し、アワビを養殖するタンクと、そのアワビの飼料に使う海草を育てる長さ約50メートルほどのプールみたいなタンクを30個並べて養殖しています。タンクで使っている水は、コナ地区の岸壁付近の水深約2,000フィート(約600メートル)から汲み上げた、栄養分が豊かな、海洋深層水と呼ばれる海水で、ハワイ州が深海から汲み上げたものを我々が買っているわけです。その海洋深層水で育てた海草を食べながら、海洋深層水の中でアワビが育ちます。良い餌を食べることで味も殻の色合いも良くなります。今のところは配合飼料のような人工的なものは使っていません。最初はカリフォルニア産のアカネアワビを育てていましたが、現在は日本市場で価値が高いエゾアワビのみを育てています。エゾアワビは日本では最も食用に向いた種類で、味・風味共に優れています。我々の養殖しているエゾアワビは清浄な深層水で育てているため、殻も非常にきれいで身が厚く盛り上がっていますので、買う側にとっては非常に魅力的です。

年間の生産量はどのぐらいになるのでしょう。

養殖ですから、人工孵化して日本市場に販売できるサイズに育つまで3年かかります。そして、大きくなった順に出荷していきますが、現在の生産量は年間100トンです。他の魚では100トンという数字は決して大きくありませんが、オーストラリア・南アフリカ・チリ・アイスランド・日本・中国などアワビの養殖が行っている国では中国を除き、100トンを生産できるところはまずありません。養殖のポイントは土地・水・餌です。ハワイの州政府が持っている溶岩だらけの殺風景な土地ですが広大な敷地と、良質で栄養素の高い海洋深層水と、その豊富な日光の下で育てた良質の海草という、非常に条件に恵まれている環境があってこその事業なのです。

現在のお仕事は主に販売方面になりますか。

現在は基本的に販売を担当し、市場作りを一生懸命に進めています。最大規模の市場である日本では1年前から販売し、今は東京・伊豆・千葉・関西・北陸などに集中的に出荷しています。今後はアメリカ各地での販売も拡大する方針で、現在は毎週ホノルルとニューヨークへ空輸していますが、シアトルの宇和島屋にも卸す予定です。

アメリカのレストランにも卸していますか。

アメリカのレストランでは、まだまだこれからですね。アワビを使いたいレストランはたくさんあっても、商社の社用に使われるレストランばかりではありませんし、不景気で高価な外食ができる人が少ない状況では商売にならないからです。アワビは鮨の中では1番高いものですし、私だって日本に行っても鮨屋でアワビは食べられません(笑)。安ければ売れると思いますが、天然資源が減り、養殖でも需要に追いつくぐらいの供給がなかなか実現しないアワビはまだまだ高級品です。

今のお仕事をとても楽しまれているのを感じます。

アワビの食用に育てている海草

今の会社が始まった頃、資金がどんどんなくなっていくのに、やれ水だ、やれタンクだ、やれ給料だと出費がかさみ、何回挫折しそうになったかわかりません。しかし、「この事業は物ができれば成功する」という信念だけを頼りにやってきました。サラリーマンとして組織の中でやってきた仕事にはそれほどの危機感を持ったことはありませんでしたが、不思議と、どうにかなるものですね。こうやって話をしながら自分に言い聞かせている部分もあるのですが、やはり諦めてはいけません。大変だろうと思ってやらなかったら、何も進歩がない。一生懸命やっていると、どんどん乗り越えて、いろいろと開けてくるものです。これは組織の中にいるとわからない感覚ですが、私自身、そういう中でやってきたことは決してムダだったとは思っていませんし、それとはまったく違うことをやれるチャンスがあって、別の世界を見ることができたことで、辞めて良かったという気持ちがしますね。いかんせん、立ち上がったばかりの会社ですからチャレンジの連続ですが、おもしろい。どんなに条件が良くても、組織の中には戻りたくないと思います。

これからの抱負をお聞かせください。

1年前にハワイの旅行社とタイアップして、ツアー客用の土産として売り出しました。アイデアは良かったのですが、生きたアワビをタンクから取り出してパック詰めするというやり方は突発的な注文のキャンセルに対応しにくく、中間業者が入ると仕入れ値と売値の差が非常に大きくなるという問題が発生し、なかなか思うように行きません。将来ホノルル空港で土産品として売ることも考えていますが、空港に入り込むのは非常に難しい。日本向けの販売がさらに増大し、日本人が『ハワイのアワビ』として注目してくれるようになったら、ワイキキの通りに出店してタンクを置き、注文をとって空港に届けたり、日本に宅配することも考えています。また、インターネットを使って個人の家庭にアワビを直売することも実現したいですね。インターネットであれば、ハワイで注文をとって、まとめて成田へ送って運送業者が宅配することも早晩来るでしょう。そんなことをいろいろ考えるとおもしろいですし、そういった夢を追いかけながら、毎日がんばっています。

掲載:2003年6月

モバイルバージョンを終了