シアトルの空の玄関口、シアトル・タコマ国際空港の航空マーケティング部副部長、石渡和恵さんにお話を伺いました。
※この記事は2001年9月に掲載されたものです。
石渡和恵(いしわた かずえ)
1960年 東京生まれ
1983年 慶応大学卒業後、米国ワシントン州・タコマ港湾局へ
1984年 シアトル港湾局で広報・観光関連担当
1994年 シアトル・タコマ国際空港・航空マーケティング部へ
【公式サイト】 www.portseattle.org
日本にはない仕事・航空マーケティング
航空マーケティングというお仕事について教えてください。
航空マーケティングは、地元経済の活性化となるエンジンを作り出す仕事です。さまざまな業務がありますが、最も重要なのは国際線の誘致と既存路線の維持です。アメリカは大きな国なので、どの都市にどの路線が入るかが、発展の鍵の1つ。何もしなくても多数の航空会社が乗り入れてくれるニューヨークやロサンゼルスのような大都市とは異なり、シアトルのような中級都市は、乗り入れによって想定されるメリットを航空会社にアピールしなければ路線が取れません。航空会社側は細かい利潤計算をもとに、乗り入れるか否かを決定するからです。例えば、東京-シアトル間は3社が乗り入れています。通常なら供給過多に近い状態なので、維持するにはチャレンジがあります。また、シアトルから東京へのフライトに乗る乗客の平均6割が東京から上海・バンコク・香港などへの経由便に乗る乗客であることを見てみると、その都市がどの都市への中継地点となっているかも、経済の活性化に重要なポイントです。業界のネットワーク・各エアラインの発着予定表・航空機の種類なども含め、さまざまな事柄を考慮に入れる必要があります。
日本で大学を卒業されて、アメリカへ来られたのはなぜですか。
もともと海外で仕事をしたいと考えていました。というのも、当時の日本は女性に対して決まった路線しか与えない傾向にあったからです。例えば、私は中学・高校を通じて英語の成績が良かったので、周りが薦めた英文科に入りましたが、がっかりでした。あれは英文学が好きな人が行くところで、英語が得意だからといって行くところではないですね。文学は好きですが、だからと言ってシェイクスピアを英語で読むことが楽しいとは思わない。そこで、専攻を文学部社会学科に変更し、経済学や社会学のクラスを履修し、主に消費者行動について勉強しました。今から考えてみても、私が男性だったら、「じゃあ英文科へ」などと言われなかったはず。アメリカに来ることが決まってからも、参考までに日本企業や外資企業の就職説明会に行ってみましたが、女性社員の8割が当時の言葉で言う事務職。私はそういうことは受け入れられないタイプで、「どうして?」と議論したくなります(笑)。
当時では珍しいタイプだったのではないでしょうか。
そうだったのかもしれません。周りにいた女性たちも、シンデレラや白雪姫のように、「王子様が迎えに来てくれる」「誰と結婚するかが自分の人生を決める」と考えている人が大半でした。それはそれで良いですが、もともと自立心が旺盛な私には馴染めないものです。私は平均的な家庭で育ちましたが、母にはいつも「自分の仕事を持つように」と言われて育ちました。ですから、他人の運命に左右されるよりも、失敗してもいいから自分の人生は自分が作ったと言えるものにしたいと考えています。これも一種の自己防衛なのかもしれません。せっかく王子様と結婚しても、王子様が他の人を愛してしまったり、死んだりしたらお終いでしょう。そこで、大学を卒業後は1年間の企業研修プログラムに参加することに決めました。
なぜ企業研修プログラムを選ばれたのですか。
大学時代に海外から日本の企業へ研修しに来る人たちと交流があったのと、もともと英語が得意だったので、「言葉は単に言葉ではなく文化。せっかくなら言葉を使って何かをしたい」と思っていたからです。英語を話す国ならアメリカでなくても良かったのですが、このプログラムではアメリカを選びました。
企業研修から正式な就職のチャンスをつかむ
企業研修の内容について教えてください。
勤務地はシアトルの南にあるタコマの港湾局。日本企業の倉庫、および設備誘致のサポートが主な仕事でした。
そこからシアトル港湾局へ来られるまでの道のりを教えてください。
研修プログラムが終わった後もアメリカで仕事をしたいと考えていたので、1年が終わる前から就職活動を始めていました。当時のビザは J ビザという交換プログラム・ビザでしたから、J ビザの人が働ける企業は限られていましたが、日本と関係のありそうなマイクロソフトやウェアハウザーなどの大企業にレジュメを持って話に行き、そこからまたいろいろな人を紹介していただきました。1983年のことですから、マイクロソフトがあまり知られていなかった時代ですよ(笑)。 そんなある日、新聞を読んでいると、「シアトル港湾局は日本向けのマーケティングを強化する予定」という記事が目に入ったのです。すぐにその記事の中でコメントをしていたディレクターの方に手紙を書き、「その役には私が適任」と、直談判しに行きました。私はゴールに向かって突進するタイプです(笑)。 ちょうど日本の PR 会社と提携するところだったので、私はその窓口として雇ってもらうことができました。
その頃、日本人職員と言えば石渡さんぐらいだったのでは。
今でもそうです(笑)。でも当時は全体的にもっと日本人が少なく、日本の新聞も1週間遅れで来るような有り様。日本の雑誌やテレビ番組もありませんでした。今はインターネットで日本の新聞が読めますが、それだってここまで普及したのは1990年代後半ですものね。
それから10年間は観光関係にも携わったそうですが。
広報・観光も担当しました。州や市の観光局や航空会社と仕事をし、シアトルの PR を行う仕事です。その頃のシアトルはもっと小さな都市だったので、知名度アップのキャンペーンが中心でしたが、遊んでいるみたいで楽しかったですよ。有名人では元関取の竜虎さんや役所広司さん、三田佳子さんや関口宏さんなど、NHK の大河ドラマや旅番組、そして雑誌の旅特集で訪れた方々に出会うことができました。そして、カメラマン・ディレクター・プロデューサーを始めとするスタッフの方々との出会いも、本当に勉強になりました。
そして現在の航空マーケティングに就かれるわけですが、その醍醐味とは。
私の場合、日本人だからといって日本だけを対象にしているのではなく、イギリス・ドイツ・フランスなど、ヨーロッパのマーケットも担当しています。そのため、今年の1月から8月までの間にヨーロッパへ2回、アジアへ4回の海外出張がありました。国内出張も含めると、毎月出張しています。そのおかげで、シアトルの位置を世界的な視野から見ることができる上、日米に限らず、いろいろな人に関わることができるので、各国の文化を体験できるのが嬉しいです。おもしろい、でも忙しい。出張も好き、でも子供が幼いのでこれ以上出張したくない。長所が短所ですね。
育児と仕事の両立 - 一人の人間として
子供さんはまだ幼いと言われましたが、育児と仕事の両立は大変では。
子供は今3歳半ですが、ラッキーなことにうちは夫がハウス・ハズバンドをしてくれています。出産前からそのようにすると2人で決めていました。こちらはデイケアが非常に高いですから、1人が仕事をせずに子供の面倒を見てくれて、普通の家に住み、変に普段の生活にお金をかけないようにすれば、それで十分やっていけると思います。とは言え、多少の贅沢は許しているのが本当のところです。1つは車。5年前に BMW の本社があるミュンヘンに行った時に BMW ドライビング・スクールに入って以来、はまってしまいました。どうやら、はまりやすいタイプみたいです。それで車だけはちょっとだけ贅沢タイプを運転していますが、子供の将来の学費が心配で、しばらく買い換えるのは控えようと思っています。もうひとつは旅行です。子供がいるからと言って減らすことなく、我が子も連れて日本には6回ほど、他にイギリス・フランス・中国・メキシコに行きました。
仕事は自分のために大切ということですね。
夫は「仕事に関してはもうやりたいことはやった」という感じですが、私は仕事が大好きで、もっとやりたいことがある。また、子供にも自分を1人の人間として見てもらいたいと常々思っていますから、私が自分の人生を楽しみ、自分のゴールに向かって努力することが大切です。日本は受験社会で、子供の受験や子供の人生が、自分の成功や人生と同化している母親が多いです。親のエゴや希望が、子供の人生に転嫁されている。私はそんな親になりたくない。子供がある程度大きくなったら、自分で自分の人生を切り開いてほしいのです。でも、今は子供といるときが1番楽しいです。もっと子供といる時間がほしいと思っています。
今はこのようにバリバリ仕事をされている石渡さんですが、渡米当時はお仕事で苦労がありましたか。
私は最初からアメリカ人ばかりの職場で働いていますが、小さな違いはあっても、決定的な問題に至ったことはありません。性差別は多少あるかもしれませんが、表面的には感じられません。ポジションが上になると人を使うことになりますが、これはどこの国でも難しいことでしょう。新卒が一斉に入社し、同期という考え方がある日本とは異なり、アメリカでは必要な時に必要な能力を持った人を雇いますので、性別や年齢は関係ありません。その分、アメリカの方が楽かもしれませんね。
アメリカと日本では大きな違いがありますね。
アメリカでは、そのポジションに向くように誰かを育てるのではなく、そのポジションに向いている人を雇います。もちろん、育てる部分もある程度はありますが、日本のような長期に渡る教育プランはありません。私がこのマーケティング部に入った1994年に、39歳の女性が空港長になりました。彼女の下には男性はもちろん、彼女よりも年上の人がたくさんいましたが、彼女のことを1人の人間として深く信頼し、尊敬していました。また、私の場合もそうです。ある時期、自分が日本人であることから、日本担当にこだわっていたことがありました。そんな時、上司に「あの国もやってみよう、この国もやってみよう」と提案され、自分で自分を小さくしていたことに気づきました。上司は、私を日本人として見ていたのではなく、1人の人間として見てくれていたのです。それからはますます仕事がおもしろくなりました。
渡米当時の普段の生活ではどうでしたか?
私は、「せっかく来たんだから、何でも学ぼう」という好奇心旺盛なタイプです。最初は知り合いはほとんどいませんでしたが、アメリカ人が取るスピーチのクラスやスキーのクラスなどに通い、友達を作りました。アメリカ人の友達を作る場はどこにでもあります。でも、自分から出て行くタイプじゃないと難しいでしょう。日本人の友達もたくさんいます。でも、日本のテレビやビデオだけを見て日本人とだけいることは日本でもできますから、それなら日本でアメリカ人相手の仕事をしていた方がいい。日本人というのはアイデンティティです。そのアイデンティティに自らを縛るような生活も仕事もしたくない。せっかくの人生、もったいないです。
これからの石渡さんのゴールは何でしょう?
将来の展望として、はっきりとしたゴールはまだありませんが、全く考えていないわけではありません。例えば、今の仕事の延長線上に可能なこととして、国際路線の開発・誘致といったことを、将来発展してくるような国の空港や航空会社向けに、コンサルタントとして貢献できるのではないかというのが1つです。日本とアメリカの業界はかなり成熟していますが、ベトナム・インドネシア・ロシアなど、これからという国にとっては路線の予想集客数の算出・戦略に見合った機種の選択・アライアンスの均衡性・ネットワークのスケジューリング・プロフォーマ P&L の作成など、経験者からのアドバイスが必要です。と言っても、どこかの国や空港に勤務し、その空港だけを担当するというのではなく、アメリカやヨーロッパにあるこの手のことを専門とするコンサルタント会社に入り、世界各地にクライアントが持てたらおもしろいでしょうね。でも、これをしていたら今の毎月出張の辛さが倍増しそうですから、少し考えます(笑)。
近い将来にできたらいいなと思っていることはありますか。
正直言って、もっと子供と一緒に過ごしたいとも思います。でも、私はやはり子供にとって、”母親” である以前に、一人の人間としての姿を見てもらいたい。それは必ずしもキャリアを持つことに限らないとは思いますが、今のところは自分の仕事の話を子供にするのも楽しみにしています。
掲載:2003年7月