シアトル・セントラル・コミュニティ・カレッジの調理師育成プログラムで日本料理とフランス料理を担当し、一般向けのランチ・ビュッフェを監督・指導されている宮田先生にお話を伺いました。
※この記事は2004年6月に掲載されたものです。
宮田 恵司朗(みやた けいじろう)
1967年 渡米・高校入学
1970年 Culinary Institute of America 入学
1972年 Culinary Institute of America 卒業
1976年 シアトルへ
1977年 ホリデー・イン (エベレット) へ
1979年 ミル・クリーク・カントリー・クラブへ
1980年 エベレット・コミュニティ・カレッジへ
1985年 ノース・シアトル・コミュニティ・カレッジへ
1990年 シアトル・セントラル・コミュニティ・カレッジへ 現在に至る
渡米
渡米されたきっかけを教えてください。
1963年ごろに渡米した母が、ニューヨークで日本料理店を開店。姉と一緒に日本に残った私は、中学卒業後に2年ほど中国料理・日本料理の店で丁稚奉公をしてから、1967年に母のいるニューヨークへ渡りました。ちょうど16歳の時でした。
そもそもなぜ丁稚奉公で料理の道へ入られたのですか?
昔から料理が好きでしたが、母が日本にいなかったものですから、姉と交替で料理をし、料理自体が好きになるというよりも、慣れたという感じでしょうか。そして、日本の高校は入学するのが難しく、かと言って学費に充てる資金もないということで、叔母に「料理の道に進めば」と言われ、本格的にやり始めました。料理の道というのは、一歩足を入れてしまうとなかなか抜けられない。当時の日本では職業を簡単に変えることはできませんでしたから、「それじゃあこれ1本でやっていこう」と決心しました。30歳のころにふと思い立って飛行機の整備士を養成する学校に通いましたが、給料の面や子供が2人いたことなどから、また料理に戻りました。
渡米されてからシアトルに来られるまでのことを教えてください。
当時は学生ビザでしたので、こちらの高校とCIA(Culinary Institute of America)を卒業。それから永住権を取得し、ハワイで2年働き、その後ヨーロッパ旅行をし、それからニューヨークで母が経営していたレストランのチーフをやり、コロラドで1年程ベーカーとして働き、1976年ぐらいにシアトルに来ました。シアトルに来たのは、妻の父がハワイからシアトルに移住してきていたからです。しかし、当時はなかなか仕事が見つからず、ニューヨークとシアトルを行ったり来たりしていました。
1970年代後半から1980年代のシアトルの料理界というのはどのようなものでしたか。
今でこそシアトルもサンフランシスコのようになってきましたが、当時は何もありませんでした。日本料理レストランも今ほどありませんでしたし、他の料理では中途半端なものが多く、つまり、シアトルの料理自体がそれほど発達していなかったのです。シアトルに来てからは2~3軒のレストランで働いた後、エベレットの近くにあるホリデー・イン、ミル・クリークのカントリー・クラブを経て、エベレット・コミュニティ・カレッジで5年、ノース・シアトル・コミュニティ・カレッジで5年にわたって料理を教えた後、現在のシアトル・セントラル・コミュニティ・カレッジにリクルートされました。ですから、この学校にはもう15年目になります。
教師として
現在はどのような科目を教えておられるのですか。
夏学期は科目としてアイス・カービング(氷の彫刻)の基本とビュッフェ・ケータリングを教えていますが、春・秋・冬学期は日本料理・フランス料理・パシフィックリム料理を採り入れ、校内のレストランで生徒がシェフとなるCOD(Chef of the Day)というプログラムも教えています。このCODは、自分でレストランを経営するように生徒が自分で作ったレシピでメニューを作成し、調理し、サーブし、片付けるまでを手がけるというものです。こういう職業に入る人は、昔何か他の職業をやっていた人が多く、そういった人はプログラムをきちんと修了します。高校を卒業したばかりの生徒はその半数ぐらいが料理から離れてしまいます。このプログラムに日本人はほとんどおらず、現在も2人ほどしかいないのではないでしょうか。アジア人では韓国人や中国人が1~2人いますが、このシアトル・コミュニティ・カレッジはノース・シアトルとサウス・シアトルの2校と姉妹校になっているため、この地域に住んでいる人が中心となっています。
クラスの内容を教えてください。
私は1学期と4学期を担当しています。私が1学期を教える期間は2週間だけなのですが、その間に肉の扱い方や切り方、検査の仕方、グレードのつけ方、調理法を説明します。その後、鶏肉、魚と続きます。これを2週間で学ぶのはきついかもしれませんが、基本的なものなので大丈夫です。4学期ではまず日本料理、そしてフランス料理と決まっています。日本料理の作り方・単語・材料を教え、そして包丁の研ぎ方、その次にすぐフランス料理の単語・料理法をやります。アメリカン・キュリナリー・フェデレーション(ACF)に所属していますので、その認可を維持するためにはカリキュラムがきちんとしている必要があります。そのため非常に短期間で多くのことを学ぶことになっており、厳しいですが、実行しなければなりません。
教える時に難しいことはありますか。
生徒の態度ですね。「これだけの技量を得たいんけど、それに必要な努力はしない」という生徒は少し教えにくいですね。一生懸命教えているのに、返ってこない。身が入ってない人は大変です。また、「他のことができないから、とりあえず料理へ」という人も、何事にも関知しないという態度が見られるので、教えるのは難しいですね。また、そういった人はプログラムの最初の頃に中退してしまいます。やはりよく働く人は本当によく働き、目標を持ってやっている人はプログラムをちゃんと修了します。
食べ放題ビュッフェは人気だそうですね。
食べ放題ビュッフェは秋・冬・春学期は金曜日のみ、夏学期はは毎日となっています。ビュッフェをやるのは、いろいろな一品料理を教える他に、大量に作ることも教える必要があり、生徒は両方の料理の仕方を覚えることができます。評判は結構よいですね。特に今は不景気なので、安くていろいろなものが食べられるというので、賑わっていますから、学生もやりがいがあるでしょう。
アイスカービング
宮田先生はアイスカービング(氷彫刻)でもとても有名だそうですが、どういうきっかけで始められたのですか。
Culinary Institute of Americaにいた時に始め、根本的な基本を学びました。当時アメリカの氷彫刻はあまり発達しておらず、のみも鋸もありませんでしたから、木を切るノコギリや、アイスシェーバーを使ってやっていたのです。そして2~3年ぐらいしてから、氷彫刻で有名な長谷川秀男先生の本を見ながら自分でどんどん勉強していきました。大きくやりだしたのは1986年ごろですね。当時シータックのマリオット・ホテルのチーフを務めておられた方が推薦してくださり、コンペティションに出場。1987年にここシアトルのアイスカービング大会で優勝し、ニューヨークの退会で1位になりました。その賞品としていただいた日本旅行で旭川の大会に出場したのです。当時の旭川ではまだ国際大会が開催されていて、外国人も参加していましたが、日本の氷彫刻家は世界のトップランク。それに刺激を受け、「じゃあ自分もやろう!」と一生懸命がんばりました。この旭川の大会では3年前に団体戦に出場して残念ながら2位になりましたが、ここ2~3年は忙しくて行っていません。
アイスカービングは寒いところでの制作ですし、大変な労力がいるのではないですか?
確かに寒いですし、体にきついですね。3年前に中村純一さんという氷彫刻家のチームに入ってフェアバンクの大会に参加したのですが、アラスカのフェアバンクは旭川よりもはるかに寒い。フェアバンクの団体戦では1つのチームに池からとった1本3,000ポンドの氷12本が与えられますが、もちろん人力では動かせませんのでフォークリフトを使います。旭川の場合は48時間、アンカレッジは36時間、フェアバンクは5日間という制限の中で、構造を作り、デッサンをし、この氷はここ、この部品はここ、と決めて分担作業となります。1本彫りだといいのですが、それでは小さいものしかできませんので、部品を作って組み立てていく形式をとりますが、後で氷が足りなくなったりしないよう、きちんとプランしなければなりません。また、温度さえ低ければ、建物・動物・人間・植物など、なんでもできます。温度が高いと氷同士がくっつきませんので、温度も考慮しながらデザインを決める必要があります。温度が急に上がって壊れてしまうなどのアクシデントもあるでしょう。なかなか大変ですよ。
氷彫刻のどういったところに魅力を感じますか。
準備をして、デッサンして・・・と、いろいろ考えるのは楽しいです。大会に出るかどうかはその人の性格によりますね。好きな人は出場前からいろいろ考えますが、それしか考えないものですから、かえっておもしろい。日常のごたごたから逃避していると思います(笑)。
いろいろ考えながらというのは料理と共通しているところがあるようですね。
そうですね、料理でも7~8コース作る場合は、これがスパイシーだから後にしようなど、濃さ・薄さなどいろいろ考えてメニューを作るのと同じことです。今の時代、世界中の料理の仕方を混ぜて使うようになっていますね。日本料理も寿司を食べる以外にも、材料の面で味噌・オオバ・梅・酢・みりんなどが使われています。これからもっといろいろな料理が交じり合っていくと思いますので、生徒には「こういうふうにしたら、こうなるんだよ」と教えています。
料理はやはりセンスでしょうか。
学生は材料の分量をぴたっと量ろうとしますが、料理はさじで量ることができるものではありません。按配をはかる時の “勘”です。「これを入れたらこうなるだろう」というのが、主婦や料理人にはわかるのです。例えば、火力が少し強すぎると蒸発が多くなり、塩や醤油を少し入れただけでも辛くなってしまうというようなことを、経験がある人はわかっており、材料をうまく使うことができます。「こうすると、こうなる」と。ですから、何かを作る時に、「これとこれとこれがないと、これができない」ではなく、「これとこれとこれがあるから、こういうものができるのではないかな」というのが料理なのです。例えば、鍋焼きうどんを作る時に、鶏肉がないから鍋焼きうどんができない、ではなく、「鶏肉がないから、豚肉で作ってしまおう」ということなのです。鍋焼きなのですから、鍋で料理すれば鍋焼きになります(笑)。何がそこにあり、それをどういうふうに使うかを頭に入れることが、料理の勉強だと思います。
センスを磨くために、どういうことが必要でしょう?
料理人は食べることですね。私の叔母は料理に対して非常に傲慢で、私が日本に行くといろいろなおいしいところに連れていってくれます。そういうものを食べていると、まずいものは食べられないですよ。舌の肥えていない人は、ちょっとおいしければ「ものすごくおいしい」と言いますが、舌の肥えている人は、「これはちょっと味がおかしい、これが足りないのではないか」ということがわかる。「いや、これは違う、これはもっとおいしくなれる」というわけです。料理人は上に行かないと、おいしいものができません。中途半端なところで満足するのではなく、追求していくのです。材料自体にいいものがない場合は、ちゃんと調理できなければなんともなりませんから。
料理人としてどういうことを心がけていますか。
食べ物がおいしいというのは体を使うからなんですね。体力を使うと、食べ物がおいしく感じます。何もしないでだらだらしていると、おいしくてもおいしくない。体が動いていないから、欲していないのです。ですから、料理人としてはバランスの取れた生活をしないといけませんね。きちんと食事を作る、規律正しい生活を送る、ということが必要です。
宮田先生は食べ物のお話をされるときはやはりとても嬉しそうですね。
食べ物というのは人生の楽しみですね。シアトルには四季があり、農産物も海産物も豊富な方です。海岸に沿っているところはいいですね。ししゃもも安く手に入りますが、あんなものは昔は1ポンド40セント以下、ミル貝も昔は1ポンドで1ドルちょっとだったんですよ。最近は食べる人が増えて値段も上がってしまいましたね。しかし、海産物はもっと豊富でもいいでしょう。普段では鮭・ハリバット・ロックフィッシュ・ダンジネスクラブなど以外はあまり売れないので、漁業関係者もあまり獲らないのでしょう。学校なんかには特に材料が回ってきません。時たま魚を1匹買いますが、臭くて何もできないような状態のものがあったりします。そういう面で、日本とは違いますね。日本では食材が新鮮で、2~3日で消費します。アメリカでは産地から届くまでに2~3日経っています。魚に関しては設備もありませんしね。生きている魚でも捕獲してからは食べさせないので、かえって品質が悪い時もあります。また、1週間も水槽に入っているとあまり物を食べませんので、1週間後には体も衰えておいしくない。ロブスターもまだ動いているのに、作ってみると衰えてブヨブヨしていたということがありました。
今後の抱負を教えてください。
昔は4年に1度ドイツで開催される料理オリンピック大会に、1984年と1988年にワシントン州代表として参加しました。当時は好きで大会に出たりしていましたが、今は生徒にもっと料理を教えて、彼らにも大会に出るような方向にも行ってもらいたい。これからは自分自身で賞を取るのではなく、教育者としてがんばっていきたい。ですから、生徒のロール・モデルになるよう心がけています。
また、自分で野菜を育て、それを料理に入れることをしてみたいですね。野菜もいいものが手に入ると、とてもおいしく味わえます。アメリカは大量生産が多いですが、大量生産されたものはおいしくない。地元のものを使ってこそ料理です。シアトルの料理人トム・ダグラスなどは農家と契約して作るものを決め、そこから料理をするらしいですね。今ではベトナムからの移住してきた農家の人たちが自分たちがこれまで食べてきたものをシアトルで作って販売するなどしているので、新しい食材をが出回っています。それを使ってまた自分の味を作ってみましょう。そうでないと、ニンジン・ブロッコリー・ジャガイモなどと、決まりきった野菜ばかりでつまりませんね。うちの生徒でも豆腐を大豆から作った人がいました。その味がどうこうではなく、やってみることに意義があります。興味がある人は、いろいろ工夫しますので、これから伸びるでしょう。
【関連サイト】
Seattle Central Community College/Culinary Art
Culinary Institute of America
CEC: Certified Executive Chef
CCE: Certified Culinary Educator
AAC: American Academy of Chefs
掲載:2004年6月