MIT で日本語プログラムを設立し、その後はワシントン大学でもまったく新しい日本語プログラムを設立されるなど、常に日本語教育の第一線におられる筒井通雄先生にお話を伺いました。
※この記事は2006年5月に掲載されたものです。
筒井通雄(つつい みちお)
1970年 大阪大学工学部造船学科卒業、同年4月日本 IBM に入社
1977年 イリノイ大学大学院言語学科に入学
1983年 カリフォルニア大学デービス校で教鞭をとる
1984年 イリノイ大学より言語学博士号を取得
1985年 MIT へ、日本語プログラムを開設
1987年 MIT で科学技術日本語夏季集中プログラムを開設
1991年 ワシントン大学へ、科学技術日本語プログラムを開設
1994年 社会人向け遠隔日本語プログラムを開設
1995年 外国語学習ソフト「ランゲージ・パートナー」を開発
2004年 オンライン日本語講座「ビジネス・ジャパニーズ・オンライン」を開設
社会人経験を経て渡米、MIT で日本語プログラムを設立
イリノイ大学でそれまでの経歴とはまったく異なる言語学科に入学されるまでの経緯を教えてください。
私は日本が造船業で世界のトップを走っていた “造船王国” の時代に大阪に生まれました。造船学科を選んだのは「景気のいい業界で仕事ができる」という単純な理由です。石油の需要増加に伴ってタンカーが巨大化し、当初は10数万トンと言っていたのがみるみるうちに20万トンになり、30万トンになり、私が大学を卒業する時点では50万トン用のドックを造る話が出ていたぐらいの成長ぶりでしたからね。しかし、実際に入ってみるとさまざまな理由から肌にあわず、さらに3年生の時の夏季実習で出向いた造船所で引き合わされた大学の先輩に幻滅し、さっぱりやる気がなくなってしまいました。しかし、日本という国は、いったん決めた路線を変更するのは当時も今も非常に難しいですね。そんな時、たまたま履修した機械計算法の講座でプログラミング言語にのめりこむことになりました。まだ情報学部などというものはない時代でした。そして、当時コンピュータ・アプリケーションをさまざまな業界に導入するビジネスを展開していた IBM 社が、専門分野を持ちながらコンピュータ・システムの知識を持つ人材を大量に募集していたので、大学卒業後システム・エンジニアとして IBM 社に入社しました。
入社してからは三菱重工や川崎重工などがある神戸営業所に配属され、コンピュータのことを一からすべて教育されました。その後は、顧客の企業に派遣され、その近所に住んで現場に常駐し、1週間に1度だけ神戸の営業所に帰って報告するという生活でしたが、6年目になって「自分はビジネスには向いていない」と強く感じるようになりました。と言うのも、当時の私は「そうあるべきだ」という本質論に固執するあまりに、毎日顔をあわせる顧客の側に付きすぎてしまい、上司とうまくいかなくなってしまったのです。今から考えると、ビジネス感覚がなく、学生堅気が抜けていなかったところがあったのですね。また、さまざまな段階でのトラブルシューティングの繰り返しにもだんだん飽きてきて、ある時点から、「コンピュータ言語のような人工言語よりも、自然言語(人間が日常的に使っている言葉)の方がおもしろい。やはり、自分は自然言語の方が好きなのではないか」と思い始めました。そして会社を辞め、アルバイトで英語教師などをしながらアメリカの大学の言語学科に入るに必要な科目を通信教育で履修し、人に勧められたイリノイ大学の言語学科に入学を許可されて渡米しました。アメリカは異色の経歴をむしろ歓迎するところがあるので、入れてもらえたのかもしれません。
MIT で日本語プログラムを設立されたのはどのような背景があったのでしょうか。
まずイリノイ大学で言語学を勉強しながら TA(教育助手)として日本語を教えさせてもらったことが自分の将来を決めたと思います。言語学科の授業はもともと言語が好きでしたし、出された問題には工学的な要素もありましたから、他の学生が四苦八苦していた問題もさほど苦労することがありませんでした。そして1983年から2年間の契約でカリフォルニア大学デービス校で日本語を教え始め、翌年に博士論文を書き上げ、イリノイ大学での言語学博士課程を修了したのです。
ちょうどその頃、MIT(マサチューセッツ工科大学)の一部で日本語プログラムを設置して日本との言葉の壁を破ろうという声が高まっていました。日本の経済がとても強くなり、その技術が脚光を浴びていた1980年代に、たくさんの日本人が学生や研究者として渡米し、膨大な知識を学んで日本に持ち帰っていたにも関わらず、アメリカは「日本語」が壁になって日本からは何も学ぶことができていなかったことが問題視されるようになっていたのです。当時、同大学には日本でのインターンシップ・プログラムはあったものの、日本語クラスはなく、学生たちはハーバード大学まで行って日本語のクラスを履修していました。そして、1985年、MIT はついに独自の日本語プログラムを設置することにし、私を採用したのです。日本語以外の技術や知識がある人間の方が先々におもしろいことができるだろうと考えたからのようです。
どのような日本語プログラムを設立されたのですか。
そのプログラムの主任として、まったくゼロから日本語を学ぶ学生を対象にした初級・中級クラスを始めました。初年度から100人以上の希望者がいましたので、翌年には教員も増員してもらい、今から考えても非常に強力なプログラムになったと思います。日本での実習に参加するにはこの日本語クラスを1年履修することが条件とされていましたが、やはり MIT の学生はよく勉強しますし、学ぶスピードも速い。1年の日本語教育の後、2~6ヶ月にわたる日本での実習で、日本の技術を学び、日本語力を飛躍的に伸ばしていました。受け入れる日本企業もそうそうたる企業ばかりでしたが、学生から得られることも多かったようで、ギブ・アンド・テイクがうまく成立しました。毎年10数人が日本に行っていましたから、累積すると相当な数になりますね。
その学生たちは、なぜ日本語を学ぼうと思ったのでしょう。
今から考えるに、彼らは日本の伝統や文化に興味があったのではなく、日本という国が先端技術を生み出しているということに惹かれていたのだと思います。そういう国を見たい、優れた製品を作り出している会社の中を見てみたいということだったのでしょう。また、受け入れる側の企業は、純粋に「アメリカへのお返し」という気持ちもあったようです。この実習プログラムが始まったのは、アメリカで学んだ人達が中堅かそれよりさらに上の役職について企業をリードする立場になっていたころで、後から聞いてみると、「もらうばかりでは、アメリカに対してフェアではない」というその世代の考えがあったようですね。
日本語プログラムを実施してから、何らかの改良が必要でしたか。
学生たちが3年生になって専門分野での勉強に集中するようになると、日本語クラスを履修することは時間の面で難しくなることがわかりました。しかし、日本語のような言語を実際に役立つレベルにまで持っていくには、2年の勉強ではまだまだです。そこで、日本語の履修経験が3年以上という上級者を対象にした科学技術日本語の夏季集中コースを全米科学財団(NSF)からの助成金を得て設置し、全米から工学系の学生を募集することにしました。旅費・宿舎・食費もすべて賄う奨学金も出し、至れり尽くせりですよ。このようなコースは、世界で初めてだったと思います。しかし、やってみて分かったのは、その条件に合う人間はものすごく少ないということ。今ならもう少しいるでしょうがね。結局、工学部とは無関係の専攻でも受け入れるようにしたら、年齢もバックグラウンドもさまざまな人が集まってきました。
どのような結果になりましたか。
「日本語はなんとかできるという程度で専門分野が強い学生」と、「日本語は相当できるが専門分野ではなんとか引っかかっている程度の学生」と、どちらが良い結果を出したと思いますか。おもしろいことに、前者の方が、読解力においても理解力においても後者をはるかに上回っていました。前者は専門知識がありますから、日本語に苦労はしても「ここはこういう意味のはずだ」と文章の分かる部分をつなぎあわせて理解できますが、後者は専門知識がないため、日本語は読めても言っていることが何も理解できないのです。日本語しかできない日本人が特許に関する書類を読んでも理解できないのと同じですから、これは当たり前のことですね。専門用語というのは、文学鑑賞や社会事情の言葉とは本質的に違います。その専門分野の日本語が伝えるメッセージや情報を理解できなければなりません。従って、「日本語を何年勉強したか」ではなく、「そういった内容を消化できる人間であるか」が最低条件のはずで、それを満たしていなければ、いくら日本語の教育をしたところでモノになりません。人間の言語というのはあいまいなもので、専門用語もいろいろな使い方がありますから、内容を正しく理解できるということは、当然その分野に特化した意味も知っているし、言葉に表された概念を理解しているということ。ただ辞書をひっぱってその言葉の英語訳だけを知っても、内容が分かっていなければ正しい解釈は得られない。ちゃんと理解できたと思ったら見事に間違っていたという場合もあります。
それは言語の教育全般に言えるような気がしますね。
言えますね。一般的な語学教育だけでは、ある程度までしか習得できません。ですから、学生にも「専門分野がなくて、日本語だけ強くてもだめだ」とよく言います。「まず自分の本来やるべきことがきちんとできていて、それで日本語というスキルがあって初めて、人より一歩先に立つことができるんだよ」と。ただ日本語を話せるだけであれば、ただの日本人と同じです。また、ちょっと言語をかじった程度で気軽に「翻訳」なんて言う人がいますが、本当の翻訳は、両方の言語における相当な言語センス、対象となる分野の専門知識とそれを消化できる能力、そしてそれを蓄積できるだけの能力がなければ無理です。これに関しておもしろい話があります。以前ある学会で、専門分野の翻訳に関するプレゼンテーションをしたある翻訳家が大きな壷に入れたジェリービーンを会場の人に配り始めました。何をするのかなと思っていたら、「どうぞ召し上がってください。ただし、その中に1つ、毒が入っているものがあります」と言うのです。彼女が言わんとしたのは、「その中に1つでも間違いがある」可能性のある翻訳は使えないということなのです。そこのところを理解せず、「この翻訳は90%はあっている」と言うのは何たるナンセンスというわけ。今は完全な機械翻訳は夢のまた夢というのはわかっています。今やっている機械翻訳では、人間がまず機械が読める形にして、機械が翻訳し終わったらまたそこで校正するのですよ(笑)。と言うことは、つきつめていくと、翻訳というものは右から左に機械のようにできるものではない、内容がわかっている人間がいて初めてできることだということです。特に、日本語と英語のようにギャップの大きい言語は、このギャップを埋めてくれる専門家が必要です。
語学はとにかく終わりがないですね。
語学の天才の子供が自動的にその語学の才能を受け継ぐかというとそうではなく、赤ん坊の脳はすべてリセットされてしまいます。身体的形質と違って個人間のトランスファーができない、これも言語の本質的なもの。ですから1人1人がゼロからやるしかありません。バイリンガル教育にしても、いくら親が優秀でも子供は自分でやるしかない。親が子供をできるだけそういう環境に置き、いいインプットを与え、いろいろなプラスの要因を配慮して育てても、ある程度までしか行きません。だから、みなさんが苦労されるわけです。少しできるという普通の人はたくさんいますが、それ以上となるとどんどん少なくなっていく。トップまで行ったら10人もいないなんてことになってしまう。今、アメリカ政府はアラビア語と英語がネイティブ並みにできる人というのがいなくて困っています。聞き取りにくい機密情報を傍受して、それを理解し、さらにそれを別の言語にするなんてことは、5年やそこらでできるわけがない。また、日本の企業も、日本で生まれた特許を世界で維持するために日本語で書かれた特許の内容を理解し、英語での特許申請を行ってくれる英語ネイティブを探していますが、そんな人がゴロゴロいるわけがない。言語習得というのはそういうものです。しかし、いくらこういう専門家の需要が大きくなっても、少しずつ養成していくしかないですね。
シアトルへ
ワシントン大学に移られたのはどのようなきっかけがあったのですか。
MIT の日本語プログラムが始動してしばらくしてから、ワシントン大学でも同じようなプログラムを始めようという動きが出てきました。同大学で機械工学を専攻し、スタンフォード大学で MBA を取得、後にフォードの会長に就任したドナルド・E・ピーターセンという人とワシントン州が出資し、その基金で教授のポジションを作りました(プロフェッサーシップ制度)。ピーターセン氏は技術提携をしていた当時の東洋工業(今のマツダ)に派遣したフォード社の社員が言葉の壁のために仕事の成果が上がらず苦労した経験などから、アメリカの技術者は学生時代から日本語を学びコミュニケーション能力を持たなければだめだと考えられたのです。この教授職(ピーターセン・プロフェッサーシップ)は、ワシントン大学に日本語に堪能なエンジニアを育てるプログラムを開設するために特別に作られたもので、この職に私が採用されたというわけです。
これはアメリカ政府の思惑とも関係していましたね。当時はアメリカの車産業が伸び悩み、アメリカ政府は政治的な圧力をかける方法と、日本について学ぶ方法で、解決策を編み出そうとしたのです。政治的な方法では、例えば、フォード・クライスラー・GM の “Big 3” が日本まで出向き、輸出を自主規制したり、自動車部品をアメリカから購入するよう政府に圧力をかけました。そして、日本について学ぶ方法では、日本の技術管理に関する情報にアクセスできるように、科学技術者の日本語教育・日本企業でのインターンシップ・日本への使節団派遣・日本の技術管理法の講座設置などに、国防総省が主体となって毎年1千万ドルという補助金を出すことになり、あちこちの大学が手を挙げました。ワシントン大学も1993年にその助成金を受け、遠隔日本語教育を中心にした社会人対象のプログラムを設立し、これは助成金の切れる2000年まで続きました。
ワシントン大学のプログラムはどのようなものですか。
当大学のプログラムは、専門教育と日本語教育とインターンシップを組み合わせたものです。最初のうちは工学系の大学院生のみを対象にしていましたが、2000年から技術系以外の学生にも門戸を開いたため、いろいろな学生が入り、内容も技術とビジネスをからめた内容に変えました。入ってくる学生は最低3年の日本語学習歴を持っています。入る前にテストをして最低線の日本語力をチェックしてから入れます。教える日本語は、1年目は上司への話し方、同僚との話し方、電話の受け方など職場で使う日本語会話とそれに関係する文化、テクノロジー関係の文章の精読法のほか、簡単なスピーチなども教えます。2年目には、精読から長文の読み方に移り、ディスカッションも多くなります。また、日本語でのリサーチの仕方や口頭報告、プレゼンテーション、要約文、報告文、フォーマルな電子メールの書き方も教えます。現在、常時30人前後の学生がいます。実習は普通1年目と2年目の間にさせます。日本での実習では2~6ヶ月にわたって自分の専門を活かした形で日本の会社でプロジェクトを手伝うのが基本です。まだ正社員として働いたことのない学生の場合は、実社会の一員として日本で働くことを経験する良い機会にもなります。自分の専門以外のことをしなくてはならないこともありますし、時には人間関係がうまくいかないこともありますが、得られるものは非常に大きいです。私も実習で人生の方向が変わりましたが、日本に実習に行くと行かないとでは大きな違いがあります。
最も成功した実習の例は、ボーイング社で複合材料を専門にしていた社会人学生のケースです。今、航空機は軽量化・強度増加のため、金属でできている部分を減らし、グラスファイバーなどを使ったいわゆる複合材料で翼や胴体を製造しています。日本はこの分野では世界で最も進んでいる国で、日本の企業が材料と部品を提供し、ボーイング社がエベレット工場などで航空機を組み立てています。しかし、日本企業とボーイング社が共同で行うメンテナンスでは、お互いの事情を知らないことからコミュニケーションの問題が生じ、お互いに言いたいことが伝わらないことがある。この学生は我々のプログラムで1年勉強した後、ボーイング社の代表としてではなく、当大学を通してベンダーである複合材料の会社の研究所で実習したため、日本側の実情や現状、技術的な問題をつぶさに見ることができ、ボーイング社に戻ってとても良い結果を生み出しました。双方にとっていいことになった、すばらしい一例です。他にもいろいろな面白いケースがありますよ。
日本語力が伸びる学生に共通した特徴はありますか。
最も大切なことは、文法の基本がしっかりしていること。よくできる学生はこの基本の上にいろいろな技能を積み上げていきます。話し言葉では、基本的な文型をしっかり理解し、繰り返し練習して身に付けます。ピアノやギター、アイススケートなどと同じく、まず、基本の型をしっかりやることが大切。いきなり大曲を弾こうとしたりジャンプをしようとしたりするのではなく、基本をしっかりやっていれば、応用や積み上げが利く。そして、耳が良く、新しい言葉を蓄積する吸収力があり、意味やニュアンスの違いに敏感であれば伸びは速いです。
独自に開発された言語学習ソフトウェア 『ランゲージ・パートナー』 について教えてください。
我々がここで教えているのは上級レベルの日本語ですから、一般に出版されている教材をそのまま使うことはほとんど不可能です。それで必要に迫られて開発しました。教科書を読んで覚えた会話、あるいは耳だけで聞く会話と、顔をつきあわせてやる会話というのは本質的に異なるもの。学生が精一杯準備してきたとしても、それはほとんどの場合、丸覚えにしか過ぎませんので、少し違うことを言うとわからなくなってしまいます。例えば、教科書は「田中さん」「ブラウンさん」だったとしても、実際に教室でやる場合は「グリーンさん」「マシューさん」のように学生の本当の名前に変えさせる。ところが、二人でやらせると「田中さん」「ブラウンさん」になってしまう。また「この本」で練習してきたものを、「あの本」になるようにシチュエーションを変えてしまっても、まだ「この本」と言う。これが何を意味するかというと、「全然わかって言っていない」ということなんです。ただ覚えてきたことをそのまま言っているだけですね。だから、ましてや内容を変えたりしたらさっぱりできません。これは日本の英語教育にも言えることです。わけもわからずにただ教科書の文の真似をしているだけでは、だめなんですよ。もっと現実に近い練習を個人レベルでさせないといけないんです。しかし、教室でそれをするには時間が限られているので、どこでも1人でそういう練習ができるようにと、人が画面に登場して1人で模擬会話練習ができるプログラムを開発することにしました。
『ランゲージ・パートナー』 では、ある状況を設定し、基本の会話のやり取りを覚えさせ、次に、少し状況を変えて練習させる。単に文が正しく言えるだけでなく、なぜ新しい状況ではそう言うのか、なぜこう言わないのかというところまでいくと文化的なものが相当入ってきます。また、音を聞く・目で見るだけではまだ不十分ですから、さらに本番に近いものにするため、自分が登場人物の1人になって会話の練習をすることもできます。言うべき内容を表示したり、自分の発言を録音して聞き、発音を直すこともできます。録音したファイルはサウンド・ファイルとしてメールで先生に送り、それを先生は「ここの発音に問題がある」と指摘することもできます。モチベーションも高くなりますし、ネイティブ・スピーカーが前に立ってもそれほど怖くなくなりますよ。
これからの抱負を教えてください。
現在やり始めていることは、オンラインで日本語を学ぶプログラム 『Business Japanese Online』 の開発です。日本語を学びたいけれども地理的・時間的な理由から大学に行くことができないといったいわゆる社会人などに、できるだけ学習機会を提供したいというのが大きな理由です。まだ技術的に解決しなくてはならないことがいろいろありますが、我々の開発した 『カンバセーション・パートナー』 というプログラムを使って、オンラインで会話練習をすることができます。このプログラムは、他にも、テキストを同時に見ることができる、2人の会話を録画して復習できる、それを先生に送ることもできる、ロールプレイもできるといったさまざまな機能があります。既に試験的なプログラムを始めています。出張先から練習をする人もいます。出張が多いビジネスマンには便利になりますよ。
個人的には、問題だらけの日本の英語教育もなんとかしたいですね。先日、ある日本のドラマを見ていたら、英語の授業でいまだに “This is a pen.” のような無意味な文をコーラスで言わせるようなことをやっていました。かわいそうに、生徒たちはそれで「英語を勉強している」と思っているんでしょうが、そんなことを何年やろうが英語は習得できません。さらに、英語圏では使われない「日本独特の英語」が存在し、実際に使えないものを教え続けている。入試があることも1つの原因だと思いますが、要するに、本当の英語習得にまったく真剣に取り組んでいませんね。そして、言葉の本質に関する教育がおざなりなため、日本語力も衰え、だから英語力も伸びない。「日本語はこうですが、英語はこうですよ」と教え、日本語のおもしろさも教えてほしいと思います。日本語力が低いのに「英語はこうだ」と英語の文法を押し付けて、わかる方がおかしいでしょう。日本人は「英語を中学から大学までやったけどできない」とよく言いますが、実際のところは、できるようになるようなことをまったくやっていない。英語習得を現実のものにするために必要なことの認識が欠落していて、それで「中学から大学までやった」というところだけを見ている。やるべきことをやっていないのだから、できるようになるわけがない。世の中がこんなに変わっているのに、日本の英語教育は何十年来、信じがたいほど変わっていないのです。
しかし、国際社会では今、英語がスタンダードです。ごく普通のレベルで受信・発信ができないと、これからの日本は危ない。例えば、せっかくいい商品を売りに来ても、プレゼンテーションが下手であれば、その商品の価値が下がってしまいます。ひと昔前と違って、今は国内にいても英語に触れる機会はいくらでもあります。外国に出ることも本当に簡単になりました。ちょっとした工夫でうまく教えられる方法、1人でも上手になる方法はいくらもあります。最近、日本の英語教育について相談を受けることがちょくちょくあります。まずは、こういう機会を通して自分に何かできればと思っています。
【関連サイト】
University of Illinois
MIT
UW: Technical Japanese Program
掲載:2006年5月