出産をきっかけに、10年以上にわたる銀行でのキャリアに終止符。その後、子育てと国際ビジネス関連会社を同時進行されている清水さんにお話を伺いました。
※この記事は2003年8月に掲載されたものです。
鈴木 美知留(すずき みちる)
1982年 ワシントン州立大学に留学
1983年 関西外国語大学を卒業 、鉄鋼関連会社に就職
1984年 テキサス州ヒューストンで駐在
1986年 鉄鋼関連会社を辞め、シアトルへ、シーファースト・バンク(現バンク・オブ・アメリカ)に入行、国際業務に就く
1990年 国際営業業務へ
1998年 バンク・オブ・アメリカを辞職、子育てに専念しながらプロジェクト単位の仕事を少しずつ請けおう
2003年 International Business Services インターナショナル・ビジネス・サービス設立、 現在に至る
渡米
アメリカに来られたきっかけについて教えてください。
日本で通っていた大学のプログラムで、1982年にワシントン州立大学(Washington State University)に1年間留学したのが、海外生活の始まりでした。その時は主に言語学などを勉強しましたが、1年後に日本に戻って大学を卒業して日本の鉄鋼関連の貿易会社に就職。そして、入社とほぼ同時に、その会社がテキサス州のヒューストンに持っていたアメリカ子会社に駐在として赴任し、再びアメリカに来たのです。アメリカの顧客から注文をとり、日本で製造したものを輸出するという業務を行っていたこの会社での私の業務は、主に取引先・本社・現地の各関連先をつなげるリエゾン的なものでした。それに加えて、顧客・会社・税関などが円滑に業務を行うことができるよう、オフィス・マネジャーの仕事も担当し、オフィス業務をコンピュータ化するためのプロジェクトも手がけました。
ヒューストンでの生活はいかがでしたか?
80年代に入ってからのヒューストンはビジネス・ブームの終わりを迎えて景気が落ちてきた頃だったので、私が行ったころはほとんど下火になるかなという状態でした。でも、鉄鋼・建設・石油・金融・銀行がたくさん進出していましたし、チャンスがあったら海外で働いてみたいと思っていたので、「どこでも行きます!」と(笑)。そのために当時はまだ珍しかった女性駐在員を送るという変わったことをしてくれる中小企業を選んだのです。
既にアメリカでの生活を1年間経験されていたわけですが、カルチャー・ショックはありましたか?
(カルチャー・ショックは)ないと思っていたのですが、当時のテキサス州ヒューストンという土地は、ワシントン州とはまったく異なる文化でしたので、それにはやはり驚きました。とても保守的でしたし、いろいろな人種がいるのにシアトルとは正反対の白人主義の文化だったからです。これには馴染めず、多文化、多言語の環境が好きな私は「西海岸からも東海岸からも遠い」「ここに長くは住めない」と思わせられました。
そしてシアトルへ引越しをされたわけですが、なぜシアトルを選ばれたのでしょうか?
ヒューストンでの景気がさらに低迷することが見えたので、駐在も2年目になった時から先のことを考え始めました。銀行・乙中・顧客との関わりを通してアメリカでのビジネスの進め方がわかったこともあり、やはり西海岸に引っ越してビジネスに関わりたいと思うようになったのです。そこで、サンフランシスコとシアトルのどちらかにしようと考えました。1986年当時のサンフランシスコはもうしっかりできあがった都市でしたが、アメリカン・プレジデント・ラインという船会社が就航することで海外貿易産業が急成長しつつあったシアトルに、「今からかな」という可能性を感じ、引越しを決心しました。シアトルには大学時代に遊びに来たことがあり、特に大学時代の友達がシアトルに多かったことも心強かったですね。その会社でグリーンカードを取得していたことも強みでした。そして、そのまま会社を辞め、シアトルへ引っ越してきたのです。
シーファースト・バンク(現バンク・オブ・アメリカ)に入行
仕事は既に見つけておられたのですか?
シアトルに行けば仕事も見つかるだろうと思って、就職活動はしていませんでした。でも、アメリカでは自分が働く分野で学位を取得していることはとても大事であるとすぐに気づかされたのです。私の大学での専攻は英語でしたが、ビジネスの分野では学位が必要で、今までの2年間の仕事の経験だけではだめなのだと。でも、それから3ヶ月ほど就職活動をし、シーファースト・バンク(現バンク・オブ・アメリカ)での面接にこぎつけました。もともと銀行に入る気はなかったのですが、ヒューストン時代に銀行の広範囲な業務については理解していましたので、「シアトルでどんな企業が国際ビジネスで活躍していて、どんなおもしろいことが起こっているのか調べるには、銀行の貿易関係で働くことができればいいのではないか」と思ったのです。そして、ちょうど貿易部で人手が足りないということで、就職が決定しました。
どのような仕事を担当されたのですか?
最初は事務の補佐として就職しましたので、高卒の学歴程度で十分なパートタイム的な内容でした。その仕事を始めた時に私が気づいてなかったのは、最初に事務として入ってしまったら、「この人はこういう仕事しかできない」と見られてしまい、事務の人は一生事務、上のポジションに行く人はきちんと学位を持って最初から上の方に入っていくというランクの差があるということです。後になって、「これは大変なことをしてしまった!」と思い、これではいけないと、チャンスがあったら自分でどんどん売り込んでいきました。アメリカは自分の意志を言葉で伝えなくてはならない国です。日本みたいにコツコツやっていれば誰かがどこかで見ていてくれるというのはあまりないでしょう。私は周りの人のやり方を見て、「こういうふうにやるんだ」と理解すれば躊躇しない性格なので、自分で自分を売り込むことには抵抗を感じませんでした。とは言え、就職した当時はそういうやり方がまったくわかりませんでしたので、躊躇せずに実行できるようになるまで2年ほどかかりました。
具体的にはどのように売り込んでいかれたのですか?
まず、「ここをもう少しこうしてみるといいのではないか」など、自分なりの改善点を上司にどんどん提案し、「この人はやる気があり、考える頭を持っている」と、少しずつ認めてもらったのです。そして、最初の4年間で3~4のポジションを経験し、80年代の終わりにコンピュータを1人に1台導入する時のトレーニング担当も買って出るなど、さまざまな業務を担当。4年目になって、国際部の営業サポートをしないかという話が舞い込んだ時には、それなりの知識もできていました。そしてその半年後の1990年に、国際部で日系企業の営業担当者が辞めることになり、私がそのポジションに抜擢されたのです。日本語を話すことは前提条件でしたが、銀行の業務を理解していることが必須条件だったので、ほんの半年しか営業サポートをしていない私が営業を担当することは珍しく、私にとってはこれが銀行でのキャリアの始まりとなりました。
それから8年間銀行にお勤めになられたわけですが、鈴木さんの主な業務はどのようなものでしたか?
貸付、投資、キャッシュ・マネージメントなど、日系企業と日本の銀行相手のものがほとんどでしたが、プライベート・バンキングなど個人顧客に関わる業務や、米国企業の日本マーケット進出におけるアドバイスや手助けも行いました。銀行のローンや投資といった部門は航空やハイテクなど産業別になっていますが、国際部では日本・中国・スペインなど、言語別となっていましたので、私はもちろん日系を担当。当時はバブル経済の絶頂期を過ぎ、これから下るかなというところだったので、大きな投資は下火になるかと思われましたが、半導体などの産業では桁違いの投資が入ってきていました。そういう投資が入ってくるというのを聞くと、たくさんの営業担当者が慌てて飛びつくわけです。でも、私は上司が「そんなに落ち着いていていいのか?」というぐらい、まったく慌てずにいました。と言うのも、日本関係はつながりが大事であることを身にしみて理解していましたから、日頃から現地の会計事務所や弁護士事務所、日系の銀行などと常にネットワーキングをしてお互いに顧客を紹介するなど、双方にメリットのある関係を築き、ワシントン州に大企業が進出してくるなどといったニュースは、メディアよりも早く知っていたのです。また、進出してくる企業の銀行業務はもちろん、駐在員の銀行業務までもお世話するという珍しい存在だったことから、新しいお客様と契約することにかけては、銀行内でも上位でした。
また、大小さまざまな国際業務をしている会社のすべてを見る国際業務は、とても面白かったです。特に銀行業務の中で国際業務をやりたいという人は国際関係の情報に長けている人、アメリカ人・外国人に限らず多言語を話すことができるキャリア・インターナショナル・バンカーが揃っていて、とてもユニークでした。また、上司にもとても恵まれていましたね。アメリカの普通の企業は短気で、とにかく結果がすぐ見えないとどんどん首も切られる文化があります。例えば、向こう3ヶ月の計画を立てたら、3ヵ月後にはそれを達成しなければならない。でも、文化の違う国の企業や個人を顧客とする国際業務ではそうはいきませんので、それを上司がよく理解していないと「3ヶ月もたってるのに、何をやってるんだ?」と、内部からのサポートが得られないことになってしまいます。私の場合はそういうことはなく、長期での結果を出すことで認められていきました。
子育てと仕事の両立
その銀行を辞められたのは、どういうきっかけがあったのでしょうか?
華やかな世界で、仕事としてはおもしろかったのですが、銀行業務自体をおもしろいと思ったことはありませんでした。つまり、貸付をすることや契約をすること自体に面白さを感じたことはなかったのです。ただ、私の業務では上司・同僚・顧客を含め内外で業務やシステムについて教育をする機会が多かったので、そういうことには面白さを感じていました。でも、「もっとやれ、もっとやれ、ここまでできたなら、次はここまでできる」と、英語で言う”rat race”(生存競争)に勝ち残るためにゴールがどんどん上がっていくの対し、予算はどんどん削減されていく。就職した当時はスタッフ1人に秘書1人という環境でしたが、私が辞めた頃にはスタッフ10人に秘書1人という環境になってしまい、私はそういうことにも疑問がありました。また、私を含め同僚も疲れていましたね。最後に私は副社長(Vice President)となり、そのまま続けてうまくいけば次は上級副社長(Senior Vice President)、そしてその次は取締役副社長(Executive Vice President)と昇進していくわけですが、「そういったことを私はやりたいんだろうか?」と、考え始めたのです。でも、それまでのすべてを辞めて新しいことをやるという、そこまでの勇気もありませんでしたし、きっかけもなく、「例えばレイオフされたら、それがきっかけになるかも」と思うところまで来ていました。そして、何がきっかけになったかというと、子供が生まれたことです。生まれる前は漠然と「産休があけたら仕事に戻るだろう」と考えていましたが、いざ生まれてみると、「私の場合は子育てだけに集中する必要がある」と思いました。そして、3ヶ月の産休を6ヶ月に延長してもらいましたが、それが終わる頃には「とてもじゃないが、こんなに小さな人間を他人に預けて仕事に戻るなんて、私にはできない」と考えるようになりました。そういうふうにされている方もたくさんおられるのは承知していますが、私にはできなかったのです。そして、腹をくくって、銀行に「辞めます」と言おうと決めました。当時、バンク・オブ・アメリカはネイションズ・バンクと合併したばかりで、人事も業務も大きな変化を迎えていた時期でしたので、業務引継ぎやプロジェクトで必要な時にコンサルタントとして携わることにして仕事を辞めたのです。
その後、ご自分の会社を設立されるわけですね。
しばらくは子育てに専念していましたが、将来他の仕事につながるかもしれないと思い、社員の異文化教育トレーニングなどおもしろそうなプロジェクトは、できるだけ受けるようにしました。また、昔から音楽や教育が好きで、大学時代も演奏をしていたことから、出産して1年半ぐらいたった頃に 『こりすクラブ』 というプリスクールで音楽を主体に先生を担当することに。週1回だけでしたが、音楽を通しての子供とのつながりを少しずつ学び、とても良い経験となりました。そして、私の息子も 『こりすクラブ』 に入れたのですが、2年目になって息子に「他の子供はお母さんがついているのに、僕のお母さんはどうして先生なの?」と言われてしまい、昨年はお母さんとして参加しました。今年で息子は 『こりすクラブ』 を卒業したので、今秋からはまた先生として復活します。
現在のお仕事について教えてください。
今年から本格的な業務を始め、現在は生命保険および投資関連の会社と長期契約を結び、そのアンダーライティング業務を中心に、さまざまなプロジェクトを手がけています。日本のマーケットをターゲットとした仕事が主で、教育関係のビデオ製作や企業宣伝用DVD製作、ハイテク関係のプロジェクトなどがあります。いろいろな分野が見えるのがおもしろいですし、勉強の機会もたくさんあり、楽しいですね。また、それとは別に、音楽でも仕事を受けるようになりました。今では結婚式での歌や演奏、そして80人の子供が参加した1週間のサマー・キャンプでミュージック・ディレクターの仕事もしています。
今後の抱負をお聞かせください。
自分にとって何が大切なのかを知り、それを無視しないこと。私の場合はそれが音楽でした。学生時代は演奏もしていたのに、銀行での仕事を始めてから10年以上も何もやっていなかったので、もうだめかなと思いましたが、趣味でいいと思って再開したのが仕事につながっています。「銀行にいた間にも毎日練習していたらもっとうまくなっていたのに」と思うこともできますが、今なら昔は歌えなかった歌も歌うことができますし、今のほうが観客と上手につながることができます。ブランクがあったことで、音楽に対して深い感謝の気持ちがあり、自分にとって本当に大切なことなのだと思えるようになりました。自分が本当に好きなことをやっているとバイタリティも湧いて来ますね。また、考え方によっては銀行での時間は何だったのだろうとも言えますが、今のビジネスのノウハウやネットワークはそこで培ったものですから、一生懸命やっていれば何事も無駄にはならないですね。今後は、自分と家族との生活を充実させながら、自分が本当に心の底からやりたくて楽しめることもやっていきたい。欲張りなんですが、「できない」と思ったらいつまでもできないままになってしまう。やりたいことを、「できる」と思って始めたら、後は自然とついてくると思います。
掲載:2003年8月