先月、シアトルで開催されたフラワー・アンド・ガーデン・ショーにも出展され、ますます注目を集めている草月生け花1級師範、レルネック 伸子さんにお話を伺いました。
※この記事は2005年3月に掲載されたものです。
レルネック伸子(れるねっく のぶこ)
1966年 草月流 4級師範に
1968年 初渡米
1977~1998年 アメリカン・スクールで職員・保護者向けの生け花教室を開催し、自ら教える
1988~1998年 アメリカン・スクールの職員として勤務
1996年 草月流 1級師範(理事)に
1998年 再渡米し、ウッディンビルに草月流を教えるスタジオをオープン、現在に至る
生け花との出会い
伸子さんはどのようにして生け花と出会われたのですか。
幼い頃から母が生け花をやっていましたが、「一緒にやりなさい」と言われてやらされ当時は、まったく興味が湧きませんでした。本格的に生け花を始めたのは、大学の時に「寮生は無料で生け花を教わることができる」と言われたからです。でも母の生け花を見て育ちましたから違和感はなく、それからは生け花が好きになって自然と続けるようになりました。
結婚して出産した後も子育てと生け花を両立していたのですが、子供が幼い時は稽古に行くのは大変でしたよ。子供を預けてから稽古に行かなくてはなりませんし。ある日、「子供に悪いな」と思って稽古に行かなかったのです。そしたら子供たちが「ママ、今日さぼったでしょ」と言うんですよ。それで「子供たちは “お母さんはお花をやるもんだ” と思っているんだな」とわかったのです。そこで「さぼるなんてとんでもない、子供に遠慮しなくていいんだ」と。子供たちからのそんなサポートはとてもありがたかったです。ですから今になって子供たちには「そう言ってくれたから続けられたんだよ」と話しています。もちろん、夫がサポートしてくれたことも大きかったですね。今でも「夫がサポートしてくれない」と言ってやめていく人もいますから、私はラッキーでした。
草月流を教える
免状を取得されるまでの過程を教えてください。
日本では本部の家元研究会に出ていました。生け花にはいろいろなランクがあり、最初は4級から始まります。そして3級、2級、1級となり、その次は4級師範。2級師範には2段階、1級師範には4段階あり、そして私は1級師範(理事)を1996年にいただきました。アメリカに来ることになった時、アメリカ人でもいただいている人がいるわけだから、日本人のプライドとして負けたくないと思い、取得しました。
生け花を伸子さんの言葉で説明していただけますか。
生け花は、線と空間と塊です。野に咲いている花を切ってきて花瓶に入れて、ただ「きれいな花ね」と言ってもらうなら、切らないこと。そうではなく、そこに自分のクリエイティブさを入れることで、「すてきね」「面白いお花ね」と言ってもらう。それが生け花です。だいたい人間は色などに目が惹かれます。お花はきれいですが、生け花を見る時に「きれいだな」と思っても、お花に惹かれているのか、生け花に惹かれているのか、ちょっと考えてみてください。人間が惹かれるのは、空間がいい時のはずです。ごちゃごちゃとたくさんの展示品がある美術館よりも、閑散としたところにパッと1ついい絵があれば「すてきだ」と思うでしょう。生け花も、枝と枝で人を引き寄せる空間を作っていると、いいお花だということになります。
ご自分の教室を開いておられたのですか。
教え始めたのは、1960年代後半です。自宅のアパートで教室を開いていましたが、早稲田大学を卒業した夫がアメリカの大学院へ入学することになり、1968年に夫婦でアメリカへ。でもアメリカに着く前に、ヒッピーの駆け出しのような感じでバックパックをかついで船で8ヶ月もイランとかアフガニスタンなどたくさんの国を周りました。ですから2人でアメリカに到着した時は、2人あわせても手持ちのお金は28ドル(笑)。そして大学院が始まってからは夫は勉強しながら大学やYMCAで柔道などを教え、私は花屋に勤めながらYWCAなどで生け花を教えるようになりました。
そして再び日本に戻ってからは、生け花を英語でも教えることができたため、子供たちが通っていたアメリカン・スクールの先生たちが通ってくるようになりました。そして、1番下の娘が中学1年生の時にそのアメリカン・スクールで働かないかというお誘いを受けたのです。面接を受けて採用していただき、学生課で仕事を始めてからは自分の生け花を職場に飾るようになったのですが、先生方から生け花を教えてくれと言われて放課後に教室を開くようになりました。そうすると「英語の勉強になる」と日本人も参加するようになり、約20人ぐらいに増えてしまいました。本部では外国人向けの英語での生け花クラスも開催されていましたが、本部まで通うのは遠いということで学校が会場になったのです。
渡米
再び渡米して来られたのはどういうきっかけだったのですか。
1980年代後半からレドモンドの友人を訪ねて何度か来るうちに気に入ってしまって、現在の家を購入し、家族で夏と冬に遊びに来るようになりました。しばらくは貸家にしていたのですが、その後に始めたリモデルが完成したので、1998年に再び渡米してきました。夫は40年近くも日本に住み、日本語も流暢ですし、日本を受け入れ、近所の人とも居心地よくなっていましたが、初めて会う人からは完全に外国人として扱われてしまいます。お箸を使えば「なぜお箸が使えるのですか」、日本語を話せば「日本語がお上手ですね」と言われ、ついにそれが嫌になってしまったのです。私の息子の孫の時代になってもそれは変わらないでしょう。私はどこに住んでもいいので、夫が居心地がいいところに行こうということになってアメリカに来ました。アメリカに住んでいるとそういうふうに扱われることはありませんからね。子供たちも大学はアメリカの大学に行っていましたから、同じ国にいるのも良かったです。
現在はこのご自宅のスタジオで教えておられるわけですね。
この自宅と、ガン患者のサポート団体キャンサー・ライフ・ライン・センターで、生け花を癒しのアートとして教えています。また、今月から陶芸教室ポタリー・ノースウェストでも教えます。
また、Ikebana Internationalシアトル支部の会長を2001-2003年にお勤めになったそうですね。
生け花を学んだ人たちは世界各地にいるわけですが、それがみんなで集まって生け花を学ぼうということで1956年に設立されたのが Ikebana International です。今ではイギリスやロシア、中国など46カ国に支部があり、本部の先生が各地の支部へ行って一般向けのデモンストレーションなどの開催を通して、生け花を広める活動をしています。シアトルには15ぐらいの流派がありますが、そういったデモンストレーションに来られるのは日本人よりもアメリカ人の方が多いですね。皆さんとても一生懸命ですよ。
Seattle Post-Intelligencer の記事では、ご自分でお花を取りに行かれるということでしたが。
日本の生け花のお師匠さんはお花屋さんとのコミュニケーションがよく取れています。昔は、お花屋さんに8人ぐらいのお花のお師匠さんがつけば店をやっていけたそうです。1人のお師匠さんには何十人ものお弟子さんがおられましたからそれで注文を取ることができたのでしょう。草月流では4冊の教科書がありますが、どの花を何杯、というように大量に注文が出され、お花屋さんは必ず毎週異なったお花を持ってくるのです。少なくとも私の使っていたお花屋さんは、覚えている限りいつも新しいお花を持ってきてくれました。日本のお花屋さんはお金さえ出せば何でも持ってきてくれましたよ。自分で探す必要はなく、「今日は何を持ってきてくれるのかな」と楽しみでしたね。でも、アメリカのお花屋にはそういうことはできませんから、先生が自分で探してくるか、生徒が自分で探して持ってくるかしなければなりません。ですからいつどこでいい花やいい素材が見つかるかわかりませんから、常にバケツとハサミと新聞紙とタオルを持っています。そしていい物を見つけると、その家の人に「あそこに倒れている木をいただいていいでしょうか」などと尋ねて許可をもらい、持ち帰ってきます。このように自分で探すのは本当に大変ですが、最近ではあちこちの人から「何々があるが、いらないか」と連絡してきてくれたりしますので、とてもありがたいです。
古武道との出会い
古武道と出会われたのはいつのことですか。
私が古武道と出会ったのは、古武道の勉強で日本に来ていた夫との出会いがきっかけとなりました。夫は高校卒業後に米軍に入隊して青森に駐留した当時、町道場で見た柔道に心を打たれ、自分も習うことを決心したそうです。今は日本語を流暢に話しますが、当時はまったく日本語ができなかったので、その道場の先生と身振り手振りで会話したところ「胴着を買って来たら教えてやる」と言われたんですね。胴着を買って来て道場に戻ったところ、先生は彼が本当に来ると思っていなかったので驚いたそうですが、夫は入門させてもらって稽古を受け、初段をいただいてからアメリカに戻ったそうです。その後、どうしてもまた柔道を勉強したかった夫は退役してから働いて貯金し、再び日本へ。1961年当時でしたから飛行機ではなく、安い船旅で3週間ほどかけて日本に来たそうですよ。そして日本と日本語について勉強しながら武道を学んでいた時に、あるアメリカ人の先輩に出会ったのです。その方が熱心に習っていたのが神道夢想流杖(しんとうむそうりゅうじょう)と、日本で最も歴史が長く、発祥地の千葉県からは無形文化財にも指定されている天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)でした。
どのようにしてそれを教えるに至ったのですか。
インターネットで見ると、アメリカでは古武道を1年ぐらい勉強した人が先生のように教える道場がたくさんあり、古武道が間違った形で伝えられている状態です。これに驚いた日本の師匠らからの依頼で、夫は神道夢想流杖を約10年前から、神道流を約5年前から教えるようになりました。古武道を学び始めてから40年近くになる今日まで、夫は神道夢想流杖と天真正伝香取神道流を学び、教え続けています。これはいつでも始められるものですが、誰でも入門できるわけではありません。古武道に対する正しい理解が必要です。
アメリカでは幼い頃から「質問はありませんか」と聞かれて育ちますから、日本のように「まず千回やってから聞け」というやり方は効かないようです。技を教えると、まだやりもしないうちから質問をしてきます。なぜこう極端なのでしょうね。でも、まだ夫と出会って間もないころ、「どうしてそんなことがわからないの」と私が言うと、彼が「わからないから聞くんだ。聞いてわかって前に進んだ方がいいだろう。なんで質問しちゃいけないんだ」と言われ、バーンと殴られたような衝撃を受けたことを覚えています。「そうか、この人はそのようにして育ってきたのだ。わからないのを抑えてないで、聞いて理解しないと前に進まない人なのだ。いいことだなあ」と思いました。これは生け花も同じです。質問がとてもたくさん出されるので、こちらもその質問に答えられるよう、勉強しなくてはなりません。教えて始めて自分が勉強できるようになるのです。ですから生徒さんが稽古をさぼった時は「私の勉強にならないから、さぼらないで」と言います。教えるということをしている人は、みなさんそうではないでしょうか。
これからの抱負
これからの抱負を教えてください。
日本の師匠から免状をもらったきりで、何十年も前の生け花を続けてしまうことにならないよう、私は毎年日本に帰って本部の展覧会に出品して刺激を受けています。また、時間があれば美術館や展覧会、演劇やバレエなどを見て周っています。ここは刺激が少なすぎます。生け花のようなアートを追求するには、居心地が良くなってしまってはいけません。いつも緊張して、いろいろなところを見なければ。ですからいろいろなところで生けさせてもらって、たくさんいい刺激を受けています。 私の使命は、草月のお花を正しく伝えて、みなさんに楽しんでもらうことです。西洋のフラワー・アレンジメントを見ていると、ものすごくたくさんのお花を使っていることに気づきます。お花屋さんはああいうアレンジメントを推奨しないとビジネスが成り立たないのでしょう。でも、日本みたいに生け花人口が多ければ、お花屋さんは1本ずつ売ってくれます。お花を束で売るアメリカのお花屋さんのメンタリティを変えるぐらい、草月の生け花を広めていきたいと思います。
【関連サイト】
レルネックさんの公式サイト
草月流本部
Ikebana International
神道夢想流杖
天真正伝香取神道流
掲載:2005年3月