今月は、マウンテンバイク業界では知らない人がいないほど、パワフルかつアドベンチャラスな小野沢さんにお話を伺いました。
※この記事は2002年2月に掲載されたものです。
小野沢昭志(おのざわ しょうじ)
1970年 渡米
1973年 日本帰国
1983年 再渡米 シカゴで SAKAE の自転車部品のマーケティングと営業活動
1985年 米国法人 SAKAE USA をシアトルで設立
1987年 同社年商200億ドル達成
1989年 同社年商1000億ドル達成
1991年 森工業による SAKAE 買収時に SAKAE USA 責任職辞任、シアトルにてサイドトラック社設立、現在に至る
渡米
小野沢さんがアメリカに来られたきっかけは何ですか。
私が小さかった頃と言えばアメリカ文化が猛スピードで日本に流れ込んでいた最中で、自由の象徴であるアメリカに強い憧れを抱いていました。物心ついてからはアメリカの音楽にも影響され、「いつかはアメリカに行きたい」と希望を抱いていたのです。その実現には、今のように簡単ではなかったとは言え、やはり留学がてっとり早い道でした。しかし、もともと勉強が嫌いで、サラリーマンにもなりたくなかった。その上、当時は1ドルが360円で、アメリカ入国には保証人が必要だった。そんな時、当時スタンフォード大学で教授をやっていた従兄が私の保証人になることを申し出てくれたおかげでアメリカ行きが実現したのです。
留学はいかがでしたか。
日本人生徒の数は私を含めて3人ほど。「日本人と親しくなりにきたのではない!」という気持ちを誰もが持っていたので、日本人学生同士は会話すらせず、友人はアメリカ人ばかりでした。自ずと英語が身につきましたね。そうは言っても英語力そのものは拙劣だった。社会的にも日本を抜け出したままの子供でしたから、アメリカの大人の前ではいつも萎縮していました。お金がなかったので見劣りもしていたし、何ひとつ自信につながるものを持っていなかったのです。当時の私には Self-Esteem(自尊心)がなく、あるものは日本人としての誇り、と言えば偉そうに聞こえますが、実際には日本人としての我だけだったと言えます。日本にいた時でも他人と堂々と話すことができないのに、アメリカに来て異なった環境と価値観の中でそれができるわけがなかった。「差別されているのでは」というひがんだ気持ちにもなってストレスがたまり、対人恐怖症におちいって、身体中に発疹が出るという神経性皮膚炎を併発してしまいました。これは帰国後約5年後に自転車に乗り始めるまで治りませんでした。
自転車との出会い
日本に帰国されてからしばらくは「イヤだった」サラリーマン生活を送られたそうですね。
3年半のアメリカ生活の後、アメリカで結婚した妻と産まれた子供を伴って帰国。それからサラリーマンを10年間やることになったのですが、勤めた会社の数はなんと12社。最初の会社では入社後2ヶ月のある晩、部長からの叱責がやまず、思わず「もうわかりました」と言って、部長の口を手でふさいでしまったのです。その挙句、怒り狂った部長に手をあげてしまった。翌日、謝りに行った私に向かって部長は「よくもおめおめと顔を出せたな」と嫌味を一言吐いて、その場でクビ。どこの勤め先もこんな調子で、転職ばかりの20代でした。とにかく会社勤めに向いていなかった。上司達から「経験がないんだから黙っていろ」「余計なことには口出しするな」そんな言葉を投げつけられる度、どんどん自信を喪失し、皮膚炎は悪化して客と握手もできず、視線恐怖症にまで陥っていきました。
それが治ったのはどのようなことがきっかけだったのですか。
12社目の会社サンパックでは、カメラ用ストロボのアメリカ向けマーケティングを担当していました。この会社は4年も続いたのですから、自分にとっては記録的なことです。出張が多く、頻繁に訪れていたボストンの取引先ポラロイド社の社員たちは、週末に私をサイクリングなどに連れて行ってくれるようになりました。それが私とスポーツ自転車の出会いです。その後、ドイツのカメラショーで出会ったドイツ人女性たちが雨の日も自転車通勤していることを知り、自分も帰国後にロードバイクを購入し、自転車通勤をスタート。毎週150キロの距離を雨の日も風の日も乗りつづけました。すると、「車で行くような距離を、自分の力だけで行くことができる」という自信がみなぎってきたのです。周りの人に対しても、自転車のすばらしさを語るようになり、自分が積極的でポジティブな人間に変わってきているのを感じはじめました。すると、それまでの私を悩ませつづけていた皮膚発疹や対人恐怖症、そして視線恐怖症も、見事に消えていったのです。自転車と同時に始めたウエイトトレーニングも私の体を筋肉体質に変え、さらに自信を高めてくれました。
それから再び渡米されるわけですが、そのような決心をされるに至った経過を教えてください。
私は、会社や社長の悪口とか同僚の詮索ばかりというサラリーマン社会の典型的な人間関係に嫌悪感を持っていました。昼飯時、そして退社後の一杯で、いつも後ろ向きな話や愚痴が多かったからです。その結果、私は彼らの輪から離れ、昼休み時と退社後は1人でウエイトトレーニングに励むことを日課とするようになりました。一匹狼といえば聞こえも良いのですが、現実には “はぐれ狼” だったと思います。それはシアトルに住む今でも同じです。
26歳の頃、『マーフィーの法則』 という1冊の本に出会いました。前だけを見て、物事を良い方にとらえる。単純な私は、この本が伝える内容をすぐに実行に移しました。するとどうしたことでしょう、仕事などすべてがうまく行くようになったではありませんか。仕事・自転車・筋力などのすべてが相乗効果を生み出し、前向きで、高い Self-Esteem (自尊心)を持つ自分に変化したのです。そうなると、ますます自転車などでも自信をつけ、「日本の自転車環境は極悪だ、シアトルで自転車三昧の生活に入ろう!」そう思い込むようになってしまいました。
ちょうどその頃、ボーイング不況を引きずっていたシアトルでは不動産の価格停滞が続いていました。しかし、環太平洋の経済成長がシアトルの不動産価格を伸ばすと信じていた私は、「自分の家を持つには今がチャンス」と考えました。「湖畔の家を15万ドル前後で買うなら今しかない!」というわけです。4人目の子供が産まれようとしていましたが、そう思い立った翌日、会社に辞表を提出し、その1年後にはアメリカに移住してしまいました。
辞表を出したあと、「アメリカで何をするんだ」と皆から質問されましたが、自転車が好きだった私は思わず「自転車の商売!」と答えていました。誰もが馬鹿なやつだと思っていたようです。それから、日本の自転車関係メーカー各社に「米国支社を作りませんか」と売り込みに行き、栄輪業(現 SR SUNTOUR)と契約するに至りました。これらはすべて、マーフィーの法則が教えてくれたポジティブな思い込みの実践によるものだったと思っています。
自転車の商売に携わるきっかけを作り出したわけですね。
最初はシカゴの三井物産で間借りをし、営業とマーケティングの仕事をすることになりました。栄輪業が、米国法人を興す前にとりあえず実力を見せてくれと言ったからです。主な仕事は、自転車の完成車メーカーに栄の部品を使用してもらうための売り込みでした。そして、2年という短期間で、競争メーカーから押され気味だった栄のシェアを大きく変えることに成功したのです。そこで「この実績なら文句はないだろう」と、米国支社 SAKAE USA をシアトルに興すことを提案しました。
この提案はすぐに受け入れられたものの、資金として提示した50万ドルはもらえず、捨て金のような10万ドルが送られてきただけ。「10万ドルでうまくいけば儲けもの、失敗しても傷は浅い」という判断が栄にはあったのでしょう。しかし、ハンバーガー・ショップすら起こせないわずかな資金を元手に、SAKAE USA は設立から2年目にはシアトルの倉庫出しの卸商売で年商200億ドルの企業に成長し、米国の自転車業界も注目し始めました。その頃には社員の数は20人になっていましたが、当時雇った中にはその後 ROCKSHOX、SCHWINN、そして SPECIALIZED といった米国大手企業のエグゼクティブになった人たちがいます。彼らは、後に私が SAKAE USA を去ったすぐ後に飛躍転職をしていったのです。
シアトル地域に起こした新事業の急成長は米国自転車業界の注目の的となり、当時の私は米国自転車業界のトレード・ショーなどにスピーカーとしてかりだされたり、ディスカッションのパネラーとしても出席を求められたりするようになりました。私の意見が頻繁に雑誌に掲載されるなど、マウンテンバイクの成長とともに、私自身も米国自転車業界で成長し続けたことになります。また、私がマウンテンバイクのパイオニアたちと関わっていた1983年頃、日本でもマウンテンバイクが注目され始めました。最初は私が日本のメディアに取材を受けていたのが、すぐに私自身がライターとなって取材などの仕事を依頼されるようにもなりました。今では日本の一般雑誌向けにビジネスやライフスタイル、そしてアウトドア系の原稿書きもやらせていただいていますが、すべてサンパックを辞めてから3年後に副業的な仕事となったものばかりです。当然、第一の目的であった自転車三昧と湖畔の生活は、実現させていました。こうした実績や望んでいたライフスタイルの実現が、私に更なる自信を与えてくれたことは確かでしょう。
シアトルで起業
ご自分で興された SAKAE USA を辞め、現在のサイドトラック社を設立されたのはどうしてですか?
1990年になって、栄輪業が森工業に買収されることになりました。森工業は日本の一部上場企業です。そのまま SAKAE USA の責任者の立場にいたら、大企業の転勤の対象になってしまう。そもそも私の目的はシアトルで湖畔の家に住み、自転車三昧の生活をすることでしたから、転勤は困るわけです。決断の早い私は、悩むこともなく SAKAE USA の責任者のポジションを投げ棄てて、現在のサイドトラック社を興しました。1991年のことです。会社名の意味は「横道にそれた」というふざけたものでしたが、マウンテンバイクっぽいということで、市場ではすぐに受け入れられるようになりました。しかし、私が去ってから3年後、SAKAE USA は倒産。経営責任を経理担当者に譲ったことが誤りでした。餅は餅屋、マーケティング・営業は経理タイプの人には向かない場合の方が多いようです。
サイドトラックの設立当時のことについて教えてください。
SAKAE USA 時代、日課としてイサクアからシアトルの南のケント市まで片道32キロの道のりを自転車通勤したおかげで、ネオプレンのタイツやブーティーズ(靴のつま先から脛まですっぽりと覆うもの)などを自分で考え付きました。そういった製品を開発し、量産を開始。最初はウェスト・シアトルのコンドミニアムを事務所として使っていましたが、この商品のヒットで、1993年には現在のタクゥィラに引っ越すことを余儀なくされました。
とてもポジティブに、前へ進んでいるという感じです。
留学していた当時は「差別されているのでは」といじけていた自分でした。しかし、二度目のアメリカ生活に入ると、自分に接するアメリカ人の態度は自分の鏡だと思うようになりました。自分が明るく挨拶をすれば、相手も明るく挨拶を返してくる。堂々と話せば、相手も対等に扱ってくれる。しかし、卑屈な態度やおどおどした態度で相手に接すると、相手もなんだか居心地が悪くなり、明るく接することができず、対等に話ができなくなる。つまり、自分の態度が相手の態度を作ってしまうのです。そんな悪循環を生み出すのではなく、明るくポジティブに推し進めていくと、すべてがうまく行くようになりました。バカにされるかもしれませんが、わたしはポジティブに、前向きに考えようと自己暗示をかけるようにしています。例えば「自転車に乗るぞ」「湖畔に住むぞ」と、自分だけでなく他人にも言い聞かせるのです。すると、お経だとか写経のように、それらのアイデアが頭に焼き付けられていきます。試験前の暗記と同じですね。逆に、悪口とか愚痴は、後ろ向きな自分を作る訓練になります・・・。自己暗示です。自己洗脳と言ってもいいかな。焼き付けられた思い込みが情熱を生み、アイデアを行動に移させます。このパワーの凄さを知った私は、後ろ向きな態度や陰口を言うことが嫌い。昔から思い込みが激しい性格でした・・・(笑)。
しかし、行動に移すことができるというのは、また別の能力が必要ですよね。
そうです。私が最近考えているのは、”PQ” という言葉です。”IQ (Intelligence Quality)” 知能指数 や “EQ (Emotional Quality)” 感性指数という言葉は聞いたことがあると思いますが、この “PQ” とは “Physical Quality”、体力指数のことです。私の考えでは、IQ・EQ・PQ、この3つがバランスしていないと、生活や仕事上の判断が狂うことが多くあるということです。IQ 偏重になると、言うだけの頭でっかちな博識症候群に陥ってしまいます。日本にはそういう人が多いように思います。IQ の上にさらに EQ があれば「それに対して何をするべきなのか」という感情導入が起こり、さらに PQ があれば、それを「行動に移す」ことができるはずです。
自転車中心の生活
今も変わらず自転車に乗られているとか。
7~8年前、米国マウンテンバイク界に生き残っている数少ないフリークな連中の1人として、雑誌社の特集記事に掲載されたことがありました。ヘリで遠くの氷河まで行き、自転車で数日かけて戻ってくるなんてこともしました。崖から落ちもしました。指の骨や肋骨など、骨折者続出の上、なおもバイクで進む。我々のエキストリームなライドは、通称 “Death March” (死の行進)とか “Shit Happens”(ヤバイことが起きる)などと呼ばれています。
しかし、そんな私もしばらく自転車に乗らなかった時期がありました。愛犬バンディットを飼いはじめてから、犬と一緒の自動車通勤を始めたからです。車だから帰り道に一杯ひっかけたりするようになった結果、”横方向からの挑戦を受ける体型”、つまり太ってしまったのです。しかし、2年前の夏、1980年冬季オリンピックの全米女子チーム選手だった友人と再会し、彼女と週1で自転車に乗り始め、またロードバイクで走るようになりました。アメリカ人選手としては初めてジロ・デ・イタリアというツール・ド・フランスのイタリア版自転車レースに出場したティムとは日曜にレイク・ワシントン一周、世界チャンピオンのシャン・レイレイ選手とは平日のランチタイム、カリフォルニアから移ってきたジェ二ースとは夕方に走っています。夏の間は1日に60kmくらい走りますが、冬の今は5時になると自分で開発した防寒グッズを身にまとい、ライトをつけて雨の日も風の日も32キロは走ります。事務所の裏がトレイルですから、アクセスは最高。自分はライダーとしてはたいしたことはありませんが、仲間は世界クラスの選手ばかり。WAR というバンドでハーモニカ吹いていたリーとも毎週土曜日に走ります。
以前、我社で単純作業を担当していたインターンがいました。サッカーをやるくせに喫煙をするような、極めて典型的な留学生でしたが、彼の留学生活が終える頃、「卒業記念に自転車でアメリカ横断をやれ!」と命令したら、本当にやってしまったのです。それも3ヶ月もかけて。ギネスブックでは9日間と16時間の距離ですが・・・。今では東京で仕事についている彼。アメリカ横断を成し遂げたという根性を買って採用したんだぞ、と上司から裏話を聞かされたそうです。「小野沢さんとの出会いがなかったらありえなかったこと」と言われた時は嬉しかったですね。
中央・南アメリカへの旅
最近は中央・南アメリカにもよく行かれているそうですね。
数年前、妻に離婚宣言をされ、私の人生観はすっかり変わってしまいました。自分では家族を支えるために懸命に働いてきたと思っていたものですから、離婚によって今まで築いてきたものの価値が喪失すると考えた時、私の頭は混乱してしまいました。仕事への動機すら失った私はグアテマラに飛び、内戦が終わったばかりで山賊が出没していたジャングルを10日間歩きつづけたのです。そして、ジャングル奥地にある神殿の上で1999年の誕生日を迎え、「人生とは何か、命とは何か」を考えました。そこで出た結論は「命とは時間である」。時間こそが命なのです。時は金なり、といわれますが、私にとってみると、時こそが命であって、それは金銭に置き換えられるものではありません。人それぞれだと思いますが、あと10年で死ぬとしたら、今日一日は3,650日分の1の命です。それをどのように過ごすかが大切です。仕事の奴隷になるのではなく、情熱を持てることをしなければならないと信じています。
昨年はアマゾンのジャングルとアンデス山脈へ行ってきました。自転車仲間の1人で、ジャングルの社会学研究では第1人者であるジョージ・ドレイク博士が、アマゾンの人々が長い間つちかってきたジャングルの知識と文化を保存するため、元国連本部部長のグスターボ・ペレス博士とアマゾンに住むキチュア族と “ジャングル・メディシン・セミナー” を始めるということで、そのセットアップに参加させてもらったのです。キチュア族のシャーマン(祈祷師)の家で何日かを過ごすうち、このシャーマンが私をとても信頼するようになり、孫娘の後見人になってくれないかと依頼してきました。南米のジャングルでは、親が死ぬと、残された子供は奴隷や乞食になったり、殺されて臓器密売に利用されたりすることがよくあります。そんな危険から子を守るのが後見人の責任です。とても名誉あることです。そんなわけで、後見人になるための大式典に出席するべく、私は今月初旬にキチュア族を再訪問します。実は、昨年3月の体験が本になる予定だったのですが、出版不況の上に同時テロによる不況が重なり、その企画はキャンセルとなってしまいました。しかし、いつか必ず実現させたいと思っています。
人生と積極的に向き合われているのが感じられます。
私が開発した商品を見て、「こういうアイデアなら私も考えることが多い」と言う人がたくさんいます。台所仕事をしながらの主婦によるアイデアなどを日本では 『王様のアイデア』 が商品化していますが、そこまでに至らないアイデアが星の数ほどあるそうです。行動がない為にアイデアが生かされない。思考は進行していても、行動が皆無に近い人ばかりが目立ちます。先に語った社会学者のジョージ・ドレイク博士の言葉があります。「本を読んだだけで知ったつもりになっている人は、知的マスターベーターでしかない」。行動が必要なのです。行動に駆り立てるエネルギーは情熱ですが、情熱を生み出すのも好奇心に引かれた行動です。考えているだけではだめ。それに気がついた時には足腰も立たなくなって、階段の上り下りさえ苦労するようになっていますよ(笑)。
掲載:2002年2月