2002年9月には次女を出産。その2ヵ月後には再び職場に復帰し、現在もフルタイムの特許弁護士として活躍されている雅子・I・リークさんにお話を伺いました。
※この記事は2003年1月に掲載されたものです。
雅子・I・リーク(しょうこ・I・リーク)
1990年春 早稲田大学卒業
1991年春 渡米。コロラド州ボールダーへ。
1991年8月 カリフォルニア州レイク・タホへ。
1991年11月 オレゴン州へ。
1993年春 海軍に入隊した夫とワシントン州ウッドビー島へ。弁護士事務所の秘書として勤務開始。
1993年冬 TOEFLとLSATを受験。
1994年秋 ワシントン大学ロースクール入学。
1997年夏 ワシントン大学ロースクール卒業。現在の事務所でインターンを開始し、そのまま就職。
1998年夏 ワシントン大学物理学学士号取得。
2000年2月 バレンタインデーの日に長女のシドニーちゃんを出産。
2002年9月 次女エマちゃんを出産。約2ヵ月後には仕事に復帰し、現在に至る。
結婚して渡米
アメリカに来ることになったきっかけを教えてください。
きっかけは、今の夫との結婚です。大学4年生の時、就職の内定をいただいたJETROの職員の方に「英語ができたほうがいいよ」と言われて通い始めた英会話学校で講師をしていた今の夫に出会い、約1年後に退職結婚をしてアメリカに来ました。
その時からシアトルですか?
いえ、最初は「どこに住もうか?」と、約1ヶ月かけてアメリカ各地を車で旅行した後、お互いが気に入ったコロラド州のボールダーに落ち着くことに。オレゴン出身の夫と湘南出身の私は、海のない内陸での生活に対する憧れがあったのです。そして、当地でグリーティング・カードを作っていた大きな会社の箱詰め作業員として就職。まだ初夏でしたが、既に出荷が始まっていたクリスマス・カードの梱包で人手が足りなかったため、ほとんど英語ができなくても雇ってもらえたようです。大きな体育館のようなところで多数の老若男女が箱詰め作業をしていたのですが、手でカードを箱に詰めながら朝から晩までおしゃべりばかり。今から考えてみるとあれがもっとも英語を吸収した時期だったかもしれません。でもその約2ヶ月後、カリフォルニア州のレイク・タホでロッジを経営していた夫の友人から「住み込みの管理人にならないか」との連絡を受け、2日で引越しを決定。その1週間後にはレイク・タホの湖畔で宿泊客のお世話に追われていました。でも、観光地ですから秋が終わりに近づくと誰も来なくなり、寒くなるし、つまらないしで、11月頃には夫の故郷であるオレゴン州へ。約1年半そこに住んで、職業安定所の事務員として働きました。
弁護士という職業との出会い
ワシントン州へ来られたきっかけはなにですか?
1993年春に夫が海軍に入隊し、ウッドビー島に駐屯したことです。祖父が海軍出身者だったこともあり、年齢も考えて入隊を決意。私はそこでまた新しい就職先を探し、今度は女性弁護士が1人でやっている事務所の秘書として就職しました。特に海軍の場合は6ヶ月程の長期航行、そしてその航行の練習航行などで夫が長期にわたって不在になるため、仕事をすることは私には大切なことだったのです。引っ越すたびに再就職しなければなりませんでしたので、この頃には就職活動も面接もとても上手になっていたかもしれません(笑)。
その弁護士の方にいろいろ教えてもらったのですか?
その弁護士事務所が扱っていたケースは海軍関係者の離婚が大半を占め、その他は人身傷害や飲酒運転などでしたので、今の私の仕事とはまったく異なる分野です。でも、弁護士としての説得の仕方や論理の積み立て方などは、彼女の書類をタイプしながら、「そうか、こう言うともっと説得力があるのか」「こういう論理で進めるとうまく行くのか」と、学ぶことができました。そして、弁護士という仕事はとてもおもしろそうだと思い、1993年の冬にTOEFLとLSATを受験。外国人ですからTOEFLは必須条件でしたが、アメリカに住んでもう3年近くたっていまし、またLSATは筋道をたてて考えていけば答えがわかるもので、図書館にあった2年分の過去問題集を復習しましたから、問題なくワシントン大学のロースクールに入学することができました。
ロースクール時代
ロースクール時代のことを教えてください。
あんなに一生懸命に楽しく勉強したのは初めてでした。朝起きて、学校へ行くのが嬉しかったです。子供みたいですね(笑)。入学当初はまだウッドビー島に住んでいましたので、ウッドビー島とシアトルを結ぶ片道1時間半のフェリーで通学しながら、テープに録音した授業内容を繰り返しリスニングしました。1年生の時は聞き逃すことも多く、ほとんどの授業をテープに録音し、友達からノートを借りることも。でも、振り返ってみると、大変な時にはいつも必ず助けてくれる人がいたのです。今でも親友の同級生は「お互いに助け合った」と言ってくれますが、実は私が助けてもらっていました。ロースクール後半はチューリップで有名なラコナーというところに住んでいたのですが、この親友とは車の中で予習復習をしながら一緒に通学することができ、本当に助かりました。また、教授も嫌な顔一つせず親身になって教えてくれる人たちばかりで、今でもロースクールの教授と友人たちにはとても感謝しています。
なぜ特許関係の専門を選ばれたのですか?
1994年の入学当初は、法律の中で何を専門にするか決めていませんでしたが、大学での講演などを通して、知的財産の特許を専門にすることに決めました。特許は発明に対するものがほとんどで、発明を理解できる能力を持つ理系の人が特許弁護士をする場合が多く、数学や物理などの理数系が得意だった私にはぴったりだったのです。そこで、早稲田大学で取得した単位をできる限りトランスファーし、ロースクール2年目から物理学での学士号コースもスタート。ロースクールは1997年春に終了し、1997年7月にインターンとして勤務を始めたこの弁護士事務所に、そのまま就職。物理学の学士号を取得したのは、翌年の春でした。
特許弁護士として
現在のお仕事について教えてください。
私の主な仕事は、特許と商標の出願です。特許出願のプロセスについて簡単に説明すると、私たち特許弁護人は、クライアントの発明に対して特許商標庁(United States Patent and Trademark Office)から特許をもらう代理人の役目を果たします。クライアントの大半は企業ですが、まずそのクライアントと会議をし、発明の内容を理解します。形があるものであれば、見に行くことも。「こういうふうに動くんですよ」と説明してもらう方が、言葉で説明されるよりもわかりやすいですしね。特にソフトウェア関係は、図を描いて説明してもらった方がはるかに簡単です。そして、類似品がないか調査し、特許がおりる可能性が高い場合は、発明の詳細を図解と文章で説明する願書を作成。1つの願書は普通20ページから30ページほどですが、長い物では50ページから60ページにもなり、願書の作成にあたってクライアントとやり取りしているだけで、1ヶ月などすぐに過ぎてしまいます。そして、この願書を特許庁に提出。特許庁はたいてい「似ているものがある」「同じものがある」と願書を却下してきますので、特許担当官と書面または電話で違いをさらに詳しく説明し、判断を仰ぎます。実際に特許が出るまで、出願から通常2年から3年かかりますよ。出願数は月に1~2本。商標の手続きも、特許とほとんど同じです。
ワーキングマザーとして
リークさんは2人のお子さんを出産された後もフルタイムで働いておられますが、アメリカ社会でのワーキングマザーという立場はどうですか?
私は日本でワーキングマザーとして生活したことはありませんので、自分の体験から2つの国を比較することはできません。でも、アメリカの場合は「子供がいるのだから、働いて当然」と、みんなが考えているので、子供がいることで引け目を感じることなどまったくありませんね。既に子供を持って働いてきた先輩たちがいますので、その恩恵を受けているとも言えます。
仕事はとても楽しいので、辞めたいと思ったことも、まったくありません。でも、アメリカに来た当初はまず言葉で苦労し、また、学校でも仕事でも、アメリカで育った人たちとの違いを絶えず感じていました。例えば私は他の人よりは控えめで、何か発言する時でも相手のことをまず考えて慎重に言葉を選びますが、アメリカ人であれば、もっとはっきりと物を言い、また、言われた方も個人的にとらないようにするやり方が身についているでしょう。アメリカの一般社会は、強い人はどんどん強くなり、弱い人は自分で自分を守るしかないという、弱肉強食の要素が日本よりも強い社会。ですから、「強くないとアメリカでやっていけないのだ」と思いこみ、アメリカにいる人はみんな強い人で、アメリカで働く日本人女性も、アメリカ人的に強いというイメージを持っていました。本当はいろいろな人がいるのに、です。ですから、最初は「こんな私がアメリカでやっていけるのか。アメリカ人のように強くならないとやっていけないのではないか」と考え、自分の中にある日本人という部分を変えて、アメリカ人のようになろうとしました。でも、渡米当時で既に24歳でしたから、基本的に私は日本人ですし、それは変えようがなかったのです。ところが、最近になって、強くないとやっていけないのは事実ですが、自分は自分のやり方で強くあればいいということに気づきました。でも、そう考えてみると、アメリカって懐が深いですよね。アメリカで生まれ育っていない人間でも、やりたいことをして、1人の人間として生活していけるわけですから。
将来の抱負を教えてください。
現在の仕事はとても奥が深いので、これからもずっと勉強を続けていきたいと思っています。また、昨年9月には次女を出産しましたが、もう少し大きくなったら、夏は上の子と一緒に日本へ行かせるなどして、バイリンガルにさせてあげたいですね。バイリンガルであることは非常に得なことですから、後で苦労しないですむでしょう。でも、それは自分が苦労したからそう考えているだけかもしれませんね(笑)。やはり、子供がそうしたかったら、してあげたいと思います。
【関連サイト】
Christensen O’Connor Johnson & Kindness PLLC
掲載:2003年1月