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鈴木 泰子さん  Tai Design アーティスト

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パイオニア・スクエアで “Tai Designs” というギャラリーを経営されているペーパー・アーティスト/プリント・メーカーの鈴木泰子さんにお話を伺いました。
※この記事は2005年5月に掲載されたものです。

鈴木 泰子(すずき・たいこ)

茨城県日立市に生まれる

武蔵野美術大学通信制を中退後、衣料店に4年間勤務

1968年 渡米・ニューヨークへ

1972年 第1回目の個展を開催

1973年 Pennsylvania Academy of Fine Arts に入学

1976年 Pennsylvania Academy of Fine Arts を卒業

1977年 バンクーバーのEmily Carr Instituteに入学

1981年 Emily Carr Instituteを卒業、シアトルへ
現在に至る

渡米

アートの方面に進むことになったきっかけを教えてください。

高校時代に上野で開催されたピカソ展にとても強い印象を受け、絵の方面に入っていったのだと思います。私がどんどん絵に入っていくのに、私の家族は絵には興味がなかったので、高校を卒業して武蔵野美術大学の通信制に合格した時、高校の先生が国際基督教大学(ICU)初代学長の湯浅八郎博士のご自宅で住み込みのハウスキーパーとして働く口を見つけてくださいました。国際的に有名な湯浅博士は人間的にもすばらしい方。武蔵野美術大学での勉強が始まり、同博士が退職されるまでの5年間、そして博士が退職されて京都に引っ越されてからも3年間にわたってハウスキーパーとして働きました。ご家族のみなさんもとてもすばらしい方々だったので、もう離れられなくて(笑)。勤務条件には私の嫁ぎ先を紹介してくださるという条件も含まれていたのですが、博士には逆に独立精神を教わりました。

武蔵野美術大学を卒業された後は就職されたのですか。

武蔵野美術大学を中退後、故郷の茨城県日立市にある衣料店の宣伝部に入社しました。商品写真を撮影したり、モデルをアレンジしたり、毎月セールがあるのでそのちらしを作成したりといったことが主な仕事です。1960年代当時の日本の状態と、今よりも田舎だった茨城県では女性がそんな仕事をしているのは珍しいというわけで、茨城県の新聞に掲載されたりしましたよ。

なぜアメリカだったのですか。

でも4年もするうちに、「これ以上どこにも行けない」という壁が見えてきたのです。その頃、同じ衣料店のチェーン店で働いていた同僚に「アーティストとしてアメリカで独立したい」という夢を話していました。彼女は女子美大卒で、今でも親友としてお付き合いしています。当時の日本の女性にとっては、いろいろなことがとても難しかったのです。日本ではとても女性アーティストとして独立はできませんでしたし、個展もできませんでした。男の世界ではとても太刀打ちできませんでしたし、農家を営んでいた家族は裕福ではなかったため、私の夢に理解を示してくれる人もいなかったのです。また、アメリカで油絵をしたいという希望もありました。

渡米が実現した経緯を教えてください。

そんなある日、前述の同僚が結婚を機に東京に移ってから、「ニューヨーク在住の日本人医師で研究者のご夫婦が、子供さんの面倒を見てくれる保母を探しているらしい」と知らせてくれました。そして、湯浅博士が書いてくださった紹介状の効果があったのでしょう、たくさんの応募者の中から私が選ばれたのです。2歳半の男の子の日本語教育と世話ということで、2年間の約束で渡米しました。1968年のことです。

アーティストの道

渡米されてからはどのような生活だったのですか。

ご夫婦の子供さんに日本語で本を読んだり、テニスを楽しんだりして、ニューヨークには8ヶ月間、そしてご夫婦の転勤先のフィラデルフィアには1年4ヶ月間おりました。そして2年後には湯浅博士の働きかけもあって、永住権を取得。とても感謝しています。でも、もともと子供さんのお世話は2年の約束だったため、それからの人生を考え、アメリカで最も歴史の古いPennsylvania Academy of Fine Arts (ペンシルバニア美術アカデミー)に願書を出したところ、うまく合格したのです。日本からは学資の送金などはなかったのでアルバイトをするしかありませんでしたが、今度は昔取った杵柄で、夕食を作ることと家のメンテナンスをするという、新聞で見つけたホーム・ケアのアルバイトをすることに。心理学博士のご自宅でしたが、住み込みとして働きながら学校に行くことを許してくださるという広い心の持ち主で、学校が始まる前から雇ってくださったのです。また、幸いにも4年間外国人向けの奨学金も支給されて助かりました。でも、学校が始まる前にそのご家族がお仕事で1年間だけロンドンに行くことになり、「こっちでいい学校を見つけてあげたから」と、私までロンドンに呼んでくださったのです。そのようなわけで、今度はロンドンの美術学校へ行くことになりました。

ロンドンでの生活を教えてください。

その美術学校は大学ではありませんでしたが、志を持ったアーティストたちが学ぶところで、デッサンから版画、ペインティング、彫刻などまでいろいろありました。在学中に京都のお友達がすばらしい和紙を送ってくれたのですが、そのあまりのすばらしさにしばらく眺めていたものの、「このまま持っていても意味がない」と、千切って抽象画を制作したのです。そこで出会った版画の先生はロンドンの大学を卒業しアーティストとして売り出し中の方でしたが、その作品を見せたところ「あなたはもう若くないね」なんて言われてしまいました(笑)。作品の内容がかなり進んでいたようで、感覚的にも良かったんでしょう。それでロンドンの画廊を紹介していただき、初めての個展が実現したのです。個展ではすばらしい方々に紹介され、なんとデッサン画まで購入してもらえました。長い歴史のあるヨーロッパはアートをサポートしてくれる層があるんですね。その個展がきっかけとなり、屋外で絵を出展するエア・ショーにも応募者の中から選ばれて出展できました。ですから、ロンドンにはもう一度戻りたい、個展をしたい、と思っています。

再びアメリカへ戻られ、ついにペンシルバニア美術アカデミーに入学されて。

前述のとおり、ペンシルバニア美術アカデミーはアメリカで最も歴史の長い美術学校で、今年が200年祭。有名な印象派の画家メリー・カサットも在籍したことのあるところで、真夜中でも作品を制作して、自由な雰囲気でした。卒業前には自分の個室を与えられていましたから、専門的な勉強を好きなだけする毎日。クラスで技術を磨き、そして自分の作品の制作にも専念することができるんです。その意味ではとても “ワイルド” に過ごしましたよ(笑)。そして1975年に友人と一緒に作品を託していた画廊が招待状を送ってくださり、オープニング・パーティーで後に私の夫となる男性に出会ったのです。彼はテキスタイルが専門で、その時でもう14年ほど学校でも教えていたのですが、私の友人のお友達が彼の学校の学生だったこともあって偶然にも親しくなり、1年後に交際を始めました。その頃には彼は独立してインテリア・デザインを始めており、フィラデルフィアではわりと知られていましたが、そのうちに「ああこの人だったら一生おつきあいできるな」と思いました。でも、彼は私の油絵の作品を見て「おまえには才能がない」と言ったんですよ(笑)。結局はそれがきっかけとなって私は版画を専門にすることとなったので良かったのですが・・・。そして卒業の1年前に紙すきを教えられ、私はその紙を使って新しい作品を制作し、卒業式で賞を受賞し、2500ドルの賞金もいただきました。嬉しかったですね。

それからどのようにしてシアトルへ来られたのですか。

当時まだボーイフレンドだった夫と4ヶ月近くにわたって日本に滞在し、その後で45日間のヨーロッパ旅行をしました。ドイツのシュトゥットガルトの友人を訪ねたり、ミュンヘンに行ったり、彼の母親の故郷ルーマニアを訪ねたりと、すばらしい経験でした。ルーマニアは1977年の大地震が発生した後でしたからとても悲劇的な状況でした。そしてモントリオールまで戻り、そこからはナショナル横断汽車で西海岸のバンクーバーへ。残念ながらこの汽車はもう運行していませんが、長い時間をかけてカナダを横断する旅は楽しかった。すばらしい思い出です。そして、私たちはバンクーバーがとても気に入ってしまい、夫は病院のボランティア、私は Emily Carr Institute で学び、4年間滞在しました。この学校は設備がすばらしく、楽しんで作品を制作し、個展やグループ展をしました。夫の両親はヨーロッパ出身ですから、当時のバンクーバーのヨーロッパ的なところが気に入っていたのですが、私は卒業するとアメリカに戻りたくなり、夫と共にシアトルへ引っ越してきました。

現在とこれからの制作活動

このスタジオに入居されてもう何年になりますか。

ここは3番目のスタジオで、もう9年になります。最初のスタジオはヒーターのないところで、3年間がんばったのですが寒波で水道管が破裂してしまい、2番目のスタジオは70人ほどのアーティストが入居していたビルにありましたが、家主がビルに放火して立ち退くことになってしまいました。

今でも「1週間は7日じゃなくて、9日だ」などと張り切って、月~土の午前10時から午後5時半まで、日曜の午後2時ごろから午後5時半の営業時間中は、ここで作品を制作しています。営業中でもドアに鍵をかけていますが、ご興味のある方はいつでもノックしてくださいね。

かなり長い時間にわたって制作されるのですね。

時間のかからない作品も生まれています。楽しく制作できた時ですが・・・。今は木版画にとても熱が入っています。木版が私の性格に合うからだと思いますが、作品のテーマや出会いなどは、偶然のように自分の中に入ってくるもの。でも、そこに感化と刺激と出会いと意味がなければ、作品は生まれません。そして、今後は文化交流のための作品を造っていきたいですね。

国際紙会議にも出席されているそうですね。

国際紙会議には1992年から出席していますが、今年はバンフのアート・センターで開催される国際紙会議に初めて出席します。この会議はアーティストが中心になって運営されているのですが、アーティストが紙を作り、その紙で作品を制作して出展するというもので、教育面でも高く評価されています。絵画アーティストや彫刻家もいれば、ファイバー・アーティスト、ブック・アーティスト、そして紙研究家など幅広い層が参加します。そういったところでもやはり自分の持っているものと自分の文化に興味を持っていただくために、日本の本当の物をこちらの方に紹介することが大事。日本の文化を軽く見ている方もおられるかもしれませんが、日本の文化は深く、とてもすばらしいものがたくさんあります。陶器にしても漆塗りにしても、また、紙を糸にした紙布織などにしてもすばらしい方々が良いお仕事を続けておられます。日本人の若者もそういうものにもっと目を向けて欲しいと思いますね。私とこういったお話をしたい方は、いつでも歓迎です。

今後の抱負

今後の抱負を教えてください。

アメリカというところは、夢と目的を持って来て、始めから一歩一歩進んでいけばその夢を叶えて目的を達することが可能なところだと思います。また、自分の情熱を人に伝えるということは、道を開く方法の1つです。でもアーティストとして生きていくのは大変なこと。最初からエージェントを雇ってとんとん拍子に成功する人もいるかもしれませんが、たいていの人たちは一歩ずつ自分を磨いて進んでいかなくてはなりません。若かったころは人を見る目がなかったために、足を引っ張られたこともありました。ですから、自分のために、人を見る目を養うのも人生の修行の1つかと思います。私はもう今はしたいことができるようになっており、それをサポートしてくれる夫にも感謝し、何も言うことはありません。自分の好きなことができるということは、本当にすばらしいことです。今月からリンウッドの新しいコンベンション・センターに、私を含む8人のアーティストの作品が展示されます。機会があれば、ぜひご覧になってみてください。

【関連サイト】
Pennsylvania Academy of Fine Arts
Emily Carr Institute

掲載:2005年5月

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