多数の著名なガラス・アーティストのアシスタントを務め、自身もガラス・アーティストとして活躍されている常澤拓也さんにお話を伺いました。
※この記事は2005年2月に掲載されたものです。
常澤拓也(ときざわ たくや)
1973年 群馬県桐生市に生まれる
1991年 東京ガラス工芸研究所入学
1993年 同研究所卒業
1994年 富山ガラス造形研究所 入学・卒業
1998年夏 ワシントン大学 ESL 入学・卒業
1998年秋 就職、現在に至る
ガラスとの出会い
ガラスとはいつごろどのようにして出会ったのですか。
高校時代は美術大学への進学を希望してデッサンなどを学ぶ予備校にも通学していました。しかし、大学に落ちてしまい、浪人するか、別の道を歩むか迷っていた時、その予備校の先生にガラス作品のカタログを見せていただいたのです。そのカタログは後に僕が富山ガラス造形研究所で学ぶことになる先生の個展に出品された作品を掲載したものだったのですが、それを見てガラスに興味がわきました。そしてその先生の経歴にあった東京ガラス工芸研究所に入学したいと思って問い合わせたところ、その年の入学にぎりぎり間に合ったのです。それまではインダストリアル・デザインの方面へ進もうと思っていたのですが、まったく違う方面へ進み始めました。
東京ガラス工芸研究所で学ばれたことを教えてください。
1年目は、粘土で作った型を石膏でかたどり、そこにガラスを流し込み、固まったガラスを取り出して磨いて作品を作っていくキルン・キャスティングを学びました。しかし、これはとても時間と手間がかかるもので、作り始めてから作品ができあがるまで最低1週間はかかるわけですが、僕には向いていないことがすぐにわかりました。僕は作品ができあがるまで1週間も待っていられない性格で、工程の最中に飽きてしまうのです。しかし、同じ校内で友人が学んでいた吹きガラスの工房へ行ってその作業を見たところ、何もないところから作品が仕上がるまで基本的には丸1日だけで、翌日には作品が手元にあるというスピードが気に入りました。そして2年目から丸1年間は吹きガラスを勉強し、ますます気に入ったのです。当時、吹きガラスの先生は10代の頃から工場に入ってたたきあげでやってきたという親方風の方で、もう1人はここシアトルでも1年に1度は個展を開いて海外経験も豊富な山野宏(やまの ひろし)さんという方でした。それぞれ経歴はまったく異なり、言い方ややり方は違っても、素材を無理にコントロールしようとせず対等に向き合う姿勢は共通していたと思います。
その後、どういうきっかけで富山ガラス造形研究所に入学されたのでしょう。
東京ガラス工芸研究所を卒業する前からガラス関係で就職を考えてあちこちあたってみました。友人のつてを頼って北海道の小樽にまで行ったこともあります。運良く内定をいただいたのですが、自分の中では「まだ早いんじゃないか」「就職する前にもっと学びたい」という気持ちがあり、まだ設立してから3年程しかたっていなかった富山ガラス造形研究所の研究科生に応募し、合格して入学しました。当時は競争率は高くなかったとは言え、合格することができたのは運が良かったと思っています。富山ではさらに吹きガラスを勉強しました。
卒業後から渡米までは日本で作家活動をされたことが、海外で活動することに興味がわいたきっかけになりましたか。
富山を卒業してからは、大村俊二さん、山野宏さん、生島賢さんといった日本でも著名なガラス作家のアシスタントを合計で3年程こなしました。ガラス・アートはチームワークですから、アシスタントとして他の作家の作品制作に参加することで、自分も学ぶことが非常に多いのです。そして、偶然にもこの3人に共通していたのが、海外在住経験の豊富さと英語が話せるということ。大村さんはイギリス、山野さんと生島さんはアメリカでそれぞれガラスを学ばれています。また、そこで働いていた他のアーティストも英語を話すことができる方が多く、私の中でも自然と海外で活動してみたいという気持ちが高まりました。当時の私は英語がまったくできませんでしたから、その人たちにも「それでは海外は難しい」と言われていましたが、なぜか「なんとかなるだろう」と勝手に考えていました(笑)。
渡米
初めて渡米されたのはいつのことですか。
初めての渡米は2週間にわたって Haystack Mountain School of Crafts でティーチング・アシスタントをするというもの。しかし、英語ができなかった私はティーチング・アシスタントとは名ばかりで、制作を行うアーティストと別のティーチング・アシスタントの横でうんうんとうなづくことしかできませんでした。そこで英語力の無さが自分の限界を作っていることが身にしみたのです。でも、この学校で教えていたルース・キング氏の作品が以前から好きだったので、この学校に来ることができ、日本とアメリカではガラス作品の制作に対する意識がまったく異なることを知ることができたのは非常にいい経験になりました。前述の通り、日本では素材を無理にコントロールしないという姿勢があるように思いましたが、こちらでは「何を作りたいか」が最初から明確化され、それを実現するまでの手順が見えているのです。そういったやり方にとても刺激を受けました。
そして翌年はピルチャック・ガラス・スクールへ。
ピルチャック・ガラス・スクールへは、生島賢さんのティーチング・アシスタントとして同行しました。生島さんは英語が堪能ですのでコミュニケーションに不自由されていませんでしたが、前述のようにガラスはチームで作るものですから、普段から一緒に働き慣れているスタッフがいるに越したことはないのです。タコマ出身の著名なガラス作家デール・チフーリがこのピルチャック・ガラス・スクールを作ったことでたくさんのガラス・アーティストがシアトルに集まり、シアトルはアメリカにおけるガラス・アートの中心になったわけですから、そのピルチャックに行くことができたのは、いろいろな意味でいい経験になりました。そしてさらにアメリカ、その中でもこのシアトルでガラスをやりたいという希望が強くなりましたが、まだまだ英語も不自由でしたから、そう簡単に海外での就職先が見つかるわけはありません。しかし、ピルチャック・ガラス・スクールでの仕事が終わってから約2ヶ月間はシアトルに滞在し、各地のガラス工房などを周りました。そして日本へ帰国する直前に、シアトルでガラス作家として活躍しているデビッド・レヴィ氏に出会ったのです。当時はただ話をしただけでしたが、とてもいい方で、後々にとてもお世話になることになります。
その後、ワシントン大学の英語学校に入学されて。
2度にわたる渡米の経験を通して、英語ができないことが自分に限界を作り、自分がやりたいこと - この場合はシアトルでガラスをやるということですが - と自分を隔てていることを実感しました。そこで、友人のすすめでワシントン大学の英語学校に入学し、半年間にわたって英語を勉強することにしたのです。実際に入学してみるとクラスは他の外国人よりも日本人が圧倒的に多かったのですが、前回の渡米で知り会ったデビッド・レヴィに再び連絡を取り、在学中から彼の工房に出入りするようになりました。そしてその夏、デビッドの下で働いていたノルウェー人がビザの問題で帰国することになったため、私は「自分を代わりに採用してくれ」とかなり積極的にプッシュしたのです。後で聞いたところによると、彼はとても丁寧に断っていたそうなのですが、いかんせん私の英語力に問題があり、私は彼の遠まわしな言い方を理解できずにプッシュし続けていたそうなのです(笑)。彼はいい人なので、はっきり “No” と言えなかったのですね。そして根負けしたデビッドは僕を採用し、専門職ビザのスポンサーになってくれました。
就職
就職後、どのような仕事をされたのですか。
デビッドはヨーロッパの吹きガラスの中心とされるスウェーデンでガラスを学び、今は自身の作品も作りながら、注文を受けて同じ物をを大量に作る、いわゆるプロダクションも行っています。実際に働き始めてみると、日本で学んだものとは技術や色使いが違いましたので、自分がこれまで学んできたことを最初から学びなおすという一面もありました。もちろん、日本の学校ではきちんと基礎を学んだことは、とても良かったと思います。基礎がなくては後が成り立ちませんし、良い作品はできません。さらに、就職と同時に、日本人がまったくいない、英語だけの生活となりました。これは英語力を伸ばす面で非常に良い効果があったと思います。でも、たまに無性に日本語が話したくなる時があり、そんな時は日本人の友達のありがたみを実感しました。
現在の仕事について教えてください。
現在は週の半分はヤヌウシュ・ポズニアックというイギリス人作家がもう1人別のアメリカ人作家のダンテ・マリオニという人とシェアをしているスタジオで働いています。イギリスでは吹きガラスは盛んではなく、前述の通り世界のガラスの中心はシアトルかスウェーデンかイタリアのムラノ島と言われており、ヤニスはシアトルを活動の拠点にしています。そして残りの日は別の工房でガラスのコップだけを生産するプロダクションをしています。自分の作品も常に作り続けており、この2月中旬にはフィラデルフィアで初めてのトレード・ショーに出展します。こういったトレード・ショーは東海岸で開催されることが多いため、「シアトルがガラスの中心なのに」と不思議に思われるでしょうが、東海岸には大手の主催者が多いというのがその理由だそうです。西海岸にいる私たちにはとても出費のかさむものなのですが、今回は新しいアーティストとしてブースを無償で提供してもらえることになり、出展する決心がつきました。このショーは一般には公開されていませんが、全米各地のギャラリー経営者が来場し、気に入ったアーティストに注文をする場となります。そのようなわけで、最近は新しい作品を作ることに集中しています。
常澤さんの作品は色がとてもきれいですね。デビッド・レヴィさんの作品も同様に色が鮮やかですが。
渡米してから4年間にわたりデビッドと一緒に仕事をし、今でもたまに一緒に仕事をすることがあります、やはり僕自身は彼の影響を大きく受けていると思います。日本ではあまり色を使わず透明なものばかりを作っていましたが、アメリカでは透明なものよりも鮮やかな色を使ったものが好まれます。したがって自分の作品を売るということを考えると、鮮やかな色を作った作品になります。デビッドや他の作家もカラフルな作品が多いので、こちらに来るまで色に感心がなかった僕も、こちらに来て他の作家と一緒に仕事をしながら、どれが自分の色なのかを少しずつ気に入った色を探して使っていくようにはしています。
こういう時にアイデアが生まれる・・・という特別な状況はありますか。
常にいろいろな作品を見ていますので、真似にならないようにしようとは心がけていますが、特にアイデアが生まれる特別な状況というものはありません。ガラスの歴史は長いので、何か考えても既に誰かがやっていた、ということが多いです。それでも色や形など、何でも自分なりのものを作ろうと常に努力しています。例えば最近は日本の趣きを出した色が自然と自分の作品に出てきています。例えば母がよく使っていた漆器の赤と黒など、記憶に残っている色ですね。そして、自分の好きな白。そのように最近は色に対する執着心が出てきています。
今後の抱負をお願いします。
最近、周囲の作家に「いい感じだ」と言われます。多分、それは自分らしさが作品に出てきているからだと思います。特に、学校を卒業し、お金をもらって物を作るプロになった時に、真剣みが増してきました。プロ意識が芽生えたというのでしょう。周りにすごい作家たちがいるので、良くも悪くも自分の目が肥えてきています。もちろん、何度も作り直し、毎回いいものができるわけではないという試行錯誤を繰り返すこともしょっちゅうですが、それなりに満足できる作品を作ることができています。最近は失敗した時にどこがいけないのか(例えば実用性・デザイン・技術的な制約など)すぐにわかるようになってきたので、調整は時間の問題で、落ち込む時間も非常に短く、すぐに前へ進むことができます。今後は個展やトレード・ショーにどんどん出展し、全米からオーダーが来るように努力したいですね。そして、自分の作品を作り、他の人のアシスタントもしながらいい刺激を受けたいと思います。吹きガラスはチームワークです。シアトルは特にたくさんのアーティストが集まっているので、作品作りでお互いに協力しあい、刺激しあう態勢ができているのがいいですね。これは日本にいた時と比べ物になりません。でも、チームワークと言っても、言葉ができるだけでは十分ではありません。いちいち話して説明しなくてもスムーズに作品を一緒に仕上げることができるチームがいいのです。そのためにもガラス工芸の中心であるシアトルにしっかり腰を落ち着けて、活動していきたいと思います。
【関連サイト】
東京ガラス工芸研究所
富山ガラス造形研究所
Haystack Mountain School of Crafts
Pilchuck Glass School
掲載:2005年2月