サイトアイコン junglecity.com

楠瀬太郎さん (弁護士)

アメリカ育ちながらバイリンガルかつバイカルチュラルという珍しい存在の弁護士、楠瀬太郎さんにお話を伺いました。
※この記事は2003年11月に掲載されたものです。

楠瀬太郎(くすのせ たろう)

1973年 東京・立川に生まれる

1975年 アメリカ・ロサンゼルスに滞在

1981年 父親の転勤でシアトルへ

1991年 カリフォルニア大学サン・ディエゴ校入学

1996年 同大学卒業。同大学デービス校 ロー・スクール入学。

1999年夏 同大学卒業

2000年3月 ワシントン州司法試験を受験

2000年6月 同試験に合格。弁護士として勤務を開始し、現在に至る

渡米

楠瀬さんが渡米されたきっかけを教えてください。

僕が生まれた当時、防衛庁で飛行機関係の仕事をしていた父が、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に留学したことが渡米のきっかけとなりました。初めてアメリカに来たのは1歳の時で、当初は父がカリフォルニアに住んで勉強を続け、僕と母は日本とアメリカを行き来していたそうです。留学後は日本に帰国する予定だったので、「アメリカで見るべきものはみんな見ておこう」と、ヨセミテやグランドキャニオンなどへ旅行したのを、なんとなく覚えています。しばらくして母も僕も一緒にロサンゼルスに住むようになり、父が留学を終える頃には、そのままアメリカに住むことが決まりました。

カリフォルニアからシアトルに来られたのはなぜですか?

父がロサンゼルスの小さなエンジニアリング企業に就職し、グリーンカードを取得した後、ボーイング社に転職が決定。父はカリフォルニア大学で流体力学を専門に勉強したので、ちょうどその分野での研究者を必要としていたボーイング社に仕事が見つかったのです。当時は好景気で、飛行機の新しいデザインや研究がどんどん進められ、昔から飛行機が大好きだった父はとても楽しんでいました。

アメリカにずっと住むんだと言われたとき、どう思われましたか?

両親に「僕たちはもうアメリカにいるんだよ」と言われた時は、ただ「そうなんだ」と思いました。それよりも、幼い時は「なぜ僕はみんなと違うんだろう」とかなり悩みましたね。今ではベルビューも日本人を含めアジア人がたくさん住んでいますが、僕が来た頃は日系アメリカ人や企業の駐在員の大半がシアトルに住んでいたので、日本語補習校も現在のベルビューではなく、シアトルのビーコン・ヒルにあるマーサー中学校を借りていました。ですから、ベルビューの小学校のクラスでアジア人は僕1人。「どうしてお前は鼻がぺちゃんこなんだ?」と聞かれて、「これはスキーでやったんだ」と答えていました(笑)。

日本語と英語のバイリンガルとして

これまでの人生をほとんどアメリカで過ごされたようですが、日本語をどのように習得されたのですか?

自宅での会話は日本語のみ、文法や漢字は補習校で学ぶという環境でした。自宅で英語を少しでも話そうものなら、「英語は外でいくらでも学べるんだから」と怒られました。特に母は厳しかったですね。でも、今から考えると、学校の夏休みを日本で過ごしたことが大きかったと思います。小学校の教師だった父方の祖母と叔母のおかげで、父が通った小学校・中学校・高校に2~3年に1度は体験入学をしたのですが、友達を作って一緒に遊んだり、同じ漫画を読んだりすることを通して、日本語を学びました。そのおかげで、高校を卒業するまで自分の中では日本語と英語が半々だったと思います。大学に入学してからは英語を使う方が断然多くなりましたね。日系三世の妻は学校で日本語を勉強し日本語を話しますので、なるべく2人の間では日本語を話そうと決めましたが、つい会話が英語になってしまいます。去年生まれた長男も将来はバイリンガルになればいいなと思いますが、難しいでしょう。

バイリンガルでよかったと実感されているから、そう思われるのですね。

日本語が話せるおかげで、いろいろな世界を見ることができると思います。また、英語しか話せない場合ではできないような、すばらしい出会いがあります。

弁護士になるまで

小さい頃から弁護士になりたいと思われていたのですか?

高校生の頃には、「できれば弁護士になって、アメリカに来ている日本企業や日本人を助けたいな」と思っていたのですが、そうなったのは、親の策略だったと思います(笑)。と言うのも、法学部を卒業し、司法試験の勉強をしながら渡米を機にその夢を捨てた母に、「もし何も決まってないんだったら、世の中の役に立って、日本人を助けることができる、日本語を話す弁護士になるのはどう?」と、幼い頃から言われていたからです。親としてはしてはいけない「自分の夢を子供にたくす」という気持ちが少しはあったのでしょう(笑)。今になってみると、僕は弁護士の仕事が大好きなので、最後は自分の選択だったのですが。

カリフォルニア大学時代のことを教えてください。

父の母校であるカリフォルニア大学ロサンゼルス校に行きたかったのですが、結局その近くのサン・ディエゴ校に入学し、政治学(ポリティカル・サイエンス)を専攻しました。大学生活は楽しかったです。

“cum laude” (優等)で卒業されたとありますが、熱心に勉強されたのですね。

最初からロー・スクールに行くことを計画していたので、「成績はよくないといけない」と思っていました。クラスの内容は米国議会や大統領の機能や法律制定までの流れなど法律関係が多いことから、政治家・政治家の顧問・政治学教授になる人がいますが、政治学を専攻してから弁護士になる人も多いようです。

順調に卒業されてすぐロー・スクールに入学されたのですか?

いえ、大学の途中で、大手術を受けることになり、休学してしまったのです。

それはいったいどういう手術だったのですか?

(頭の後ろの生え際のあたりから頭頂部まで伸びる傷跡を見せながら)脳腫瘍です。記憶がなくなったりすることがあって怖くなり、大学を休んでシアトルの病院でMRIなどの検査を受けたら、なんと卵大の脳腫瘍ができていることがわかったのです。手術が成功するかどうかは五分五分と言われましたが、受ける決心をしました。当日は、麻酔をかけられる前に、両親と、日本からわざわざ来てくれた祖父母と「さようなら」とお別れして・・・。父が泣いていました。でも、手術は成功。それで少し頭がよくなったんじゃないかな(笑)。手術後、体が弱っていたので勉強するか寝るしかなかったのは事実ですが、死ぬかもしれないという状況に直面したことで、「なるべく早く目的地にたどり着きたい。あまり遊んでばかりではだめだ」と、フォーカスが少し変わりました。おかげで、大学の後半は真剣に勉強していましたよ。

僕は父方の祖父母ととても近い関係にあるのですが、「死ぬのかな」と思った時に周りにいてくれた両親や祖父母と、なんと言うか、とてもコネクトしてしまったんです。先日、その祖父母が僕の長男に会うためにシアトルに来てくれたのですが、2人共かなり年をとっているので、今回がいろいろな意味で最後になるのではないかと。これまでみんな揃った状態で生きてきたので、誰かが欠けてしまうという状況に、自分がどう対応するのかまったくわかりません。

そして、手術から回復され、ロー・スクールにも入学されて・・・

大学での最後の1年は、ロー・スクールにフォーカスし、LSATの勉強をしたり、入学願書を出したりしていました。そして、卒業する頃には合格通知をいくつか受け取り、カリフォルニア大学デービス校のロー・スクールへの入学を決定。その年の夏は、当時の婚約者で今の妻がJETプログラムで日本に行っていたこともあり、日本で過ごしました。妻とは大学1年の11月に出会った時から一緒にいるので、もう10年以上になります。

ロー・スクールについて教えてください。

今度は別の意味で「死ぬかも」と思いました(笑)。ロー・スクールというところは、10しかできないのに15のことをやらせて、反応を見るところなんです。パニックになる人や、10しかできないから10しかやらない人、めちゃくちゃがんばって15やろうとする人など、さまざまです。「明日までに300ページ読んでこい」と毎日宿題が出て、読むだけならいいのですが、”Socratic method”(ソクラテス式問答法: 問答を繰り返すことによって真理を見出す方法)といって、次の日の授業で1人の生徒を立たせ、「このケースがどういうケースか、みんなに教えてください」と問答をさせられました。今になってみると、それは裁判官に「これについて話してください」と言われる時の練習だったのですが、生徒はみんな「あてられませんように」と教科書で顔を隠していましたよ(笑)。

でも、日本の法律事務所から派遣されて “LL.M” (Master of Law: 法律修士)を取得しに来られている日本人弁護士の方々に会えたのは勉強になりました。また、将来ビッグになるのではと思われる人とコネクションを作ったことや、世界各地から勉強しに来ていた人に出会えたことも、とても楽しかったです。

卒業後はシアトルで働くことを計画されていたのですか?

僕はシアトルに戻ってきたかったので、カリフォルニア州の司法試験(Bar Exam)は受けませんでした。

司法試験に合格するまではどのように勉強をされていましたか?

1999年6月にロー・スクールの卒業式に出席し、それから9月までは残りの単位をワシントン大学で取り、学位を取得しました。その後、9月から12月の間はレントンのテクニカル・カレッジで溶接を勉強しました。

どうして溶接のクラスを?

かつて三菱で飛行機のエンジン等の設計をしていた父方の祖父が、戦後はトヨタ車専門の自動車修理工場を開いていたので、僕も幼いころからバイクや車をいじったりするのが大好きなんです。溶接は絶対に学びたいと思っていたので、「ロー・スクールが終わり、翌年の3月に仕事を始める前が最後のチャンスだ」と。手術をしてから性格が変わったんだと思います。「今できることは全部やっておきたい」と考えるようになりました。でもそれで無理をするから、疲れてしまうのかもしれません。

司法試験の勉強はそれからですか?

1999年の12月から2000年の3月まで、”BarBri Bar Review”(米国司法試験予備校の最大手)の司法試験の傾向と対策クラスのようなものを毎日受講。僕には住むところもあり、仕事は翌年の3月からとなっていましたが、クラスの半分ぐらいは働きながら勉強していたようで、大変そうでした。そして、3月に司法試験を受け、翌週に仕事を開始。まだ弁護士という資格はなかったので、弁護士の手伝いとして調査などを担当しました。6月になり、試験の結果が出る日はあまりにもドキドキして、妻の車を駐車場のポールにぶつけてしまいましたが、帰宅すると合格通知が届いていて、本当によかったです。でも、妻は車の件を許してくれませんでした(笑)。

現在の仕事

毎日同じ日はないと思いますが、典型的な1日を教えてください。

出勤前に時間があれば、ステア・マスターで30分運動します。時間がない日は、子供をデイケアに連れて行き、8時までにはオフィスに着いて、約30分は前の晩に入ってきた電話やメールをチェックします。その後は毎日違いますね。ビジネス弁護士には、トランザクション担当(取引)とリティゲーション担当(訴訟)とありますが、僕の場合その割合が半々ぐらい。トランザクションは、リース契約や新会社・方針の設立が中心で、リティゲーションは会社が問題にあった場合、弁護・起訴などをします。現在のクライアントの70%はアメリカ企業で、30%は日本人です。

最初の頃はちゃんと1時間かけて昼食を食べていましたが、今はそんなことはしません。なぜなら、仕事の時間が足らなくなるからです。今の労働時間は1日あたり11時間。こうなると自分との闘いですね。「金のためにやっている」という人は長続きしません。金では済まないような立場になる時が多いですから、好きでこそできる仕事だと思います。

今後の抱負を教えてください。

「話を聞いて欲しい」と、僕のところへ来られる日本人のクライアントは、英語ができればそれほど悩まないはずです。「弁護士にうまく伝えられず、前に進まない」という話はよく聞きます。そこで僕がそのバリアを超えることによって、世の中をチェンジできているという気持ちが少しあります。日本人のコミュニティを手伝うのは子供の頃からの夢だったので、日本人のクライアントのお手伝いができると、特に幸せを感じます。それがあるからこそ、これからもやっていけると思います。

【関連サイト】
Lasher Holzapfel Sperry & Ebberson, PLLC

University of California, San Diego

University of California, School of Law

掲載:2003年11月

モバイルバージョンを終了