駐在員の方に、シアトル地域でのご経験と、駐在員の目から見たシアトルやアメリカ、日本について伺うシリーズ。第2回は、Tama Technical Core Co. Ltd. 社長の浅野智弘さんに、ワシントン州での拠点の立ち上げ、コロナ禍の体験、日本企業の抱える課題などについて、お話を聞きました。
― もともと機械や設計がお好きだったのですか。
そうですね、機械をいじったりするのは好きでした。例えば、小学校の時に親に買ってもらった自転車を勝手に分解してしまって怒られて、自転車屋に持っていって直してもらったことを覚えています。大学生の頃から車に興味を持ち、ガスエンジンを燃料にした車の排気ガスの成分の研究をやったりして、設計の仕事ができたらと思うようになりました。
大学卒業後、最初に入社した会社では設計の仕事がなく、また職場の環境も整っていなかったため、「設計をちゃんとやらせてくれて、社員をちゃんと守ってくれる組織がある企業に転職しよう」と思い立ち、タマディックにエンジニアとして入社しました。
本当に設計業務をやることができ、日本の自動車メーカーと強い繋がりがあることが、タマディックを選んだ理由です。第一希望は自動車関連でしたが、当時は自動車業界の景気が良いわけではなかったので、景気が良かった半導体関連の設備設計業務から始まりました。「とりあえず設計がやりたい」という思いだけでしたが、スムーズにスタートしました。
― ご経歴を拝見すると、さまざまな企業に派遣されていますが、これは一般的なパターンなのですか。
いえ、タマディックの場合、派遣は比率としては少ない方ですね。現状、派遣業務は15%ほどです。品質も効率も当社が責任を持ち、お客さまの社内で行う請負業務が50%近く占めており、その他の契約形態としては、自社に持ち帰って行う受託業務が約20%、生産設備の設計・製作が約16%となっています。当時は派遣の比率が今よりも少しだけ多かったのですが、上司から打診されれば、「行きます」という流れでした。
その理由は、社外で仕事をすることが私には合っていて、その顧客と将来的に長いお付き合いをしていくなら、中に入って人脈を作ることで、ゆくゆく自分の会社に戻って仕事をいただく立場になった時、いろいろな意味でプラスになるという考えがあったからです。それで、積極的に外に出るようにしていました。
もともと、上司に指示されて動くより、自分で考えて動きたいタイプなのです。積極的に自分で何でもやりたい。持って生まれた性格もありますが、幼い頃からやっていた野球を通してその性格が磨かれたという感じでしょうか。
― 子どもを見ていると「スポーツを通してすごくいろいろなことを学んでいるな」と思うのですが、浅野さんが「野球で性格が磨かれた」というのは、どういうことでしょうか。
私の生まれ育った岐阜の真正町(現在の岐阜県本巣市)は野球がとても強く、街をあげて野球部を応援するようなところでした。小学校2年生の時に野球を始め、投手をやるようになると、自分で考えて自分で動くのが必要でした。指示されてから動くような選手は使ってもらえませんでしたから。
今の時代で考えたら練習環境は過酷でした。小学校では珍しく毎日練習があり、楽しく野球をやるというよりは、勝利への使命と責任感で毎日がギリギリの状態でした。でも、体力と精神面は十分磨かれましたし、非常に厳しいところに自分から飛び込むという性格も磨かれたのかなと思っています。
そして、甲子園に行くために、岐阜県では強豪校の一つである岐阜県立岐阜商業高等学校に進学したのですが、高校3年の時に決勝で負けて甲子園に行くことはできませんでした。その後、いろいろ考えた結果、自分が好きな設計が学べる大学に進学し、現在に至ります。
―現在の会社に入社後、さまざまな企業への派遣などを通して、チームプレーヤー、チームリーダーとしての経験を積まれたわけですね。
取引先では、自身でマネジメントするプロジェクトリーダーとして業務を行っていました。2008年のリーマンショックの折に自社へ戻り、そしてまた航空機関連のメーカーに派遣され、製造のマネジメントに関わりました。役職も係長となり、部下ができました。
自分が一般職だった頃の事を思い、後輩・部下たちのためになりそうなことからすぐ始めました。定期的に面談をするとか、社内外で困りごとがあれば一緒に動いて改善するとか、営業活動のサポートなどです。それまでにさまざまな企業に派遣され人脈を作ってきたことが、効果を発揮してくれました。
そういった活動を見てくれていた上司に評価され、2年後には課長に昇進することができました。結果を出したことが正当に評価される社風をありがたく思っています。
とはいえ、4年にわたり課長を務めながらもこのままでいいのかと自問自答するようになっていました。管理業務は苦手ではありませんが、特段好きでもありませんし、どちらかというと自分がアクティブに動いて切り開いていきたい。そして、45歳になった時、「60歳で定年として残り15年、もう一つチャレンジした方がいい」と強く思うようになりました。
そして、2016年4月、上司から「アメリカ進出のプロジェクトを立ち上げるから、参加してみないか」と打診されました。すでに中国では「多摩機電設計(上海)有限公司」という現地法人を設立し、日本の顧客の海外進出をサポートし、日本品質で顧客にサービスを提供しておりました(現在は上海・蘇州の2拠点)。アメリカにも多くの顧客が進出しており、Tama Technical Core(以下TamaTC)を立ち上げ、事業を展開することになりました。
― ワシントン州エベレットに拠点を作るまでのことを教えてください。
2017年7月TamaTC設立から数年間は、出張ベースでした。まず、就労ビザの取り方から調べて、弁護士さんと相談しながらのスタートでした。事務所スペースの探し方を学ぶことに始まり、当然、最初は繋がりも仕事もなく、半年ぐらいして少し生活に慣れてから、飛び込みでお客様のところに営業に行きました。
2020年に就労ビザを取得し本格的に米国を拠点に仕事が出来ると思った矢先にコロナ発生。営業活動もままならない状態になった事を覚えています。
現在は、コロナ規制も無くなり、以前のような生活に戻りました。
― 現在のお仕事や働き方について教えてください。
コロナ禍が少し落ち着いた2021年頃から本格的な営業を再開できるようになりました。タマディックは、自動車、航空・宇宙、FA・ロボティクス分野の総合エンジニアリング企業ですので、日本でお付き合いのある企業からアメリカ現地法人を紹介していただくなどして、TamaTCでも自動車関連企業、産業機械系の企業など、多分野の領域で開発・設計・製作の仕事をいただいています。
私自身は、日本にいた時と大きくは変わらないですね。基本的に合理的な性格ですので、アメリカでの生活にも特に不便さを感じることなく、フレキシブルに時間を使い、業務をこなしております。
― 浅野さんのように、ワシントン州でスモールビジネスをスタートする人もいらっしゃると思います。どのようなアドバイスがありますか。
かねてから海外進出を果たしている企業は、それまで現地で積み重ねてきた歴史や経験がありますので、新しい駐在員にも生活面も含めて引き継ぎをしてくれたり、会社としてマニュアルがあったりします。でも、私のように初めての進出で渡米した人には、そういうものがありませんし、現地に何もコネクションがありません。
やはり、シアトル日本商工会を紹介していただいたのは大きかったですね。役所での手続きの場所や方法のアドバイスから、弊社に関連する企業の紹介などもしてくださり、大変助かりましたし、視野が広がりました。それこそ生活するにも生活必需品や食材を購入するのもどこに行くのがいいのかわからない状態でのスタートでしたが、今こうやって米国で楽しく仕事や生活ができているのは、いろいろな方を紹介していただき、たくさん助けていただいたからです。たくさんの方と出会えたことは、私の米国生活での指針となり、財産となっています。今でも感謝しかありません。
― ありがとうございました。
浅野智弘さん(あさの・ともひろ)略歴
岐阜県出身。少年時代は野球に打ち込む。大学卒業後、株式会社タマディックに入社。大手メーカーにて半導体関連の設備設計、自動車関連の設計、航空宇宙関連の民間機のエンジン部品製造のマネジメントなどに携わり経験を積み、2017年にワシントン州エベレット市での現地法人 Tama Technical Core Co., Ltd. 設立に伴い、副社長として赴任。2021年から現職。現地ではシアトル日本商工会では交流部会部会長を務める。日本在住時は20年にわたり岐阜県の中学校の野球部監督を務めた経歴もある。