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第7回:シアトル日本町の歴史とパナマ・ホテル その二

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パナマ・ホテル

パナマ・ホテル

日本人建築家・小笹三郎氏が設計を手掛けたホテル。1910年8月、日本から出稼ぎのため単身渡米した男性向け長期宿泊施設としてオープン。第二次世界大戦時に強制収容された日系アメリカ人の家財道具などを地下で保管し、ホテル1階に開店したカフェ『パナマ・ホテル・ティー&コーヒー』の床のガラス越しに、戦後になっても引き取り手が現れなかった荷物を見ることができる。パナマ・ホテルと日系人の強制収容を描いたジェイミー・フォードの小説『Hotel on the Corner of Bitter and Sweet(邦題:あの日パナマ・ホテルで)』(2009年出版)が、2010年にニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト入りし、その存在が米国で広く知られるようになった。2006年、米国史跡認定。2015年、米国国宝認定。2020年、日本政府より「令和二年度外務大臣表彰」受賞。

前回に引き続き、今回もシアトル日本町の歴史などをご紹介します。

シアトル日本町と日本人の人口

シアトル日本町の人口は順調に増え、1930年代にはロサンゼルスに次いで西海岸で2番目に大きな日本人コミュニティに成長しました。

男性だけでなく、日本人女性も多く渡米しました。当時、日本人をはじめアジア人などの外国人がアメリカ人と結婚することを法律で禁止する「異人種間結婚禁止法」(1967年撤廃)があったため、日本人男性は祖国の日本から花嫁を迎えるしか術がなかったのです。

花嫁として渡米した彼女たちは日本で結婚相手になる男性の写真を見て結婚を決めて渡米したため、「写真花嫁」と呼ばれました。男性の中には容姿の良い友人の写真をお見合い写真に使ったり、自分の若い頃の写真を使ったり、写真と現実が異なることもありました。中には、別の若い男性と駆け落ちしたり、家庭内暴力から逃れるように、売春をする女性も少なくなかったようです。

こうして単身で渡った日本人男性が伴侶を得て、シアトルの日系人コミュニティの人口は増加します。1886-1911年の間に日本からアメリカやその属州に渡った男女は40万人以上にも上りました。シアトルに日本町を形成して間もなく、シアトルの日本人の人口は白人に次いで多くなりました。シアトルの日本人の数は、移住が始まって間もない1890年には125名、1900年代には3900人になりました。しかし1924年に増加する外国人移民を制限する(排日)移民法が可決したことで、増加する割合は減少しましたが、1920年代には約7800人、1930年は約8400人にまで達しました。

シアトル日本町での生活

シアトル日本町での生活は、英語を話す必要はなく、日本語で成り立っていました。人種差別や言葉の壁があり、日本人が就職先を見つけるのは困難だったため、自分たちでコミュニティを築く必要があったからです。

アメリカで生まれた日系2世たちは、地元の学校でアメリカ人とともに英語で教育を受け、放課後には日本語学校に通い、そこで日本語や礼儀作法などを学んでいました。その日本語学校の一つは、今はワシントン州文化会館(JCCCW)となっています。

シアトル日本町には、学校、ホテル、銭湯以外にも、病院、助産師さん、歯医者さん、レストラン、洋服屋、洗濯屋、食堂、食料品店、ビリヤード場、劇場など生活に必要な全てが揃っていました。

パナマ・ホテルの近くには中華料理屋もありました。日本町から中国人コミュニティが近いにもかかわらず中華料理屋があった理由は、当時の中国人コミュニティの治安が良くなく、足を運ぶことがはばかられたため、たとえば日本町にあった玉壷軒(ギョッコケン)というレストランでは本格的な中華料理を提供するために中国人シェフを雇っていました。

ジャンによると、1900年代初頭には52軒ものホテルがあったそうですが、Densho.org によると1925年には127軒に増えていたそうです。パナマ・ホテルの地下には銭湯もありましたが、1920~30年代のシアトル日本町には銭湯は10~20軒あったそうです。

パナマ・ホテル

左から:パナマ・カフェの店内に飾られている玉壷軒のメニューと玉壷軒オーナーの藤井夫妻の写真

パナマ・ホテルのオーナーたちと周辺店舗について

日本町の中心地に建っていたパナマ・ホテルは、前オーナーの父・堀三次郎氏が購入するまでは、多くの人々によって管理され、1931年までは同時に2人以上の日本人オーナーがパナマ・ホテルを管理していました。残っている記録から2~3年に1回はオーナーが変わっていた時期もありました。

当時は外国人土地法によって米国籍を保有していない人が土地を所有することはできなかったので、地元の会社が所有する形で、日本人がオーナーとしてホテルを経営していたのです。

現在、パナマ・ホテルの1階にあるカフェのトイレがあるフロアは(605 South Main Street)は、1928年はヤマキ・グローサリーという食料雑貨店、入口とカウンターのあるフロア(607 South Main Street)は、1916年にアサヒ・ニュース・カンパニーという新聞社と、大正堂書店(609 South Main Street も大正堂書店でした。現在は Zocalo Studios というアートギャラリーです。大正堂書店の写真はカフェ店内で見ることができます)が共有していました。

前オーナーの堀隆氏の父・三次郎氏は、1938年にパナマ・ホテルを米国籍を持つ息子名義で購入するまでは、定食屋さんの経営、その後アパートの管理をしていました。アパートの管理と比べ、より収益性の高いホテルに目を付け、当時売り出し中だったパナマ・ホテルを購入したのです。堀氏が購入してわずか4年後、太平洋戦争が勃発し、堀氏の家族も含め日系人たちは強制収容所へと送られてしまいました。

参考文献:

(第8回へ続く)

文:疋田 弓莉(ひきた・ゆり)

東京出身。幼い頃から北米で生活してみたいという夢を抱く。日本で鉄道会社に勤務後、2018年から2020年の約2年間にわたり留学生としてシアトルに滞在。パナマ・ホテルと運命的な出逢いを果たし、1年にわたりOPTでパナマ・ホテル・ティー&コーヒーで働く。日本帰国後、東京のPR会社に就職。

掲載:2021年5月



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