著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。
5年目の夏
こんなに清々しいんだ、生まれたての夏って。
空を仰ぎ見ながら想う。黄昏という言葉がふさわしい時間。7月初めの夕暮れ時、息子と並んで千鳥ヶ淵を歩く。夕食前のささやかな空き時間を散歩にあてようと提案したのは私だった。だが、夕闇が舞い降りつつある皇居の美しさなど、息子の視界には入らない。お濠を渡る風の涼やかさにも、少しずつ存在感を示し始めた蝉たちのコーラスにも、彼は気づいてはいない。息子の手にはノートが握り締められている。物理に保健。定期考査の真っ最中とあって、暗記にいそしんでいるのだ。
お堀を背景にベンチに腰を下ろす。何やらブツブツと呟く息子の傍らで、私は今朝の光景を思い返す。「ウチぐらいだよ、親が見送りに来るなんて。」いつもの制服姿とはうって変わりTシャツにジーンズという恰好で登校した娘は、つっけんどんに言ってのけた。学校から山梨へと2泊3日の宿泊行事に出かけた彼女。バスに乗り込んだ娘に向かって、夫と二人、懸命に手を振った。だが、最初は窓際に腰を下ろした彼女は、ご丁寧にも隣席の友人と席を交換し、私たちから顔を隠す始末である。いっぱしのティーンへと成長し、今や背も私と変わらなくなった娘。初めて日本の土を踏んだ時はまだ幼稚園児だったのに。遠い目をする自分がいる。
東京の空の下、さらさらと流れゆく日々の中で、子供たちはまた一歩、いや二歩も三歩も大人の世界へと近づきつつある。剣道の竹刀を抱え、自宅近くの中学へ歩いて登校していた学ラン姿の中学生は、もういない。(心の奥で、私はひそかにその少年を探している。)その代わり、髭を剃り(!)、ネクタイを締めて、渋谷経由で満員電車に揺られる高校生がいる。「だからさあ」、一方でこんな風に口を尖らせる子がいる。「他の親は誰も見に来ないんだよ。カッコ悪いよ、ウチだけ来たら。」予防線をさんざん張りめぐらせてから、ポニーテールを揺らせバレーボール部の試合へと急ぐ彼女。シアトルから東京へと家族総出の大移動をした日から、この夏でちょうど5年目の節目を迎えた。
前回のコラムでは息子を中心に書いたので、今回は娘の方に焦点を当てたい。
道しるべ
まずは、読者の方々にひと言。「ご無沙汰していました。」この一年間を振り返るべく、心のアルバムをひも解いてみる。色褪せつつあった白黒写真の一枚一枚を取り出して思い出という名の光にかざす瞬間、モノクロームの世界が鮮やかな色彩を帯びるようだ。私たち家族にとっては、旅の多い一年となった。息子と娘は、平和使節の任務を全うすべく、それぞれに長崎、そしてドイツ、ポーランドへと飛んだ。夏休みには家族でアメリカへの里帰り。そして師走には、グリーンカード関連の手続きをするために、私が単独でシアトルへと舞い戻った。年明けには、再び家族で、極寒の地、北海道・旭川へ。(旭川訪問についてはぜひ書きたいエピソードがあるのだが、後日のコラムに譲りたい。)
だが、私自身にとっては、どんな旅よりも「心の旅」が深い意味をもたらした。一年前の初夏の昼下がり、病室を舞台にその旅は始まった。ヘルニアの手術中に発見された腫瘍が悪性かもしれないと告げられたのだ。専門病院で検査が重ねられた挙句、最終的に下された判断は、「良性」。「よかったですね。」医師が呟いた言葉を万感の思いで噛み締めた。
安堵すると同時に、改めて思い知らされた命の重みと日常生活の愛おしさ。雑事に埋もれる日々の中、そこここに散らばる小さな幸せを丹念に拾い集めることなど忘れていた。家族と共有する時間も永遠に続くかのような錯覚にとらわれていた。どうしてだろう。父が若くしてガンで他界したことが私の人生観、ひいては世界観にさえも深い影響を及ぼしていた筈なのに。70歳、80歳まで生きることが当然と受け止める人たちを目の当たりにすると、どこか傲慢ではないかとさえ感じていたはずなのに。そんな私が、実は大切なものを置き去りにしていたのではないか。今回の体験を通して得た最も痛切な教訓は、生きているのではなく生かされているという事実だろう。
娘が誕生した晩秋の頃を思い出さずにいられない。生後3日の新生児を抱きながら暗闇で叫び声を上げた夜があった。授乳時に触れた娘の額が異様に熱い。と思えば、その直後に熱さが消え平熱に戻る。「すぐに医者へ!」真夜中に怒鳴りながら夫を揺り起こした。その早朝、小さな体のあちこちにチューブを繋がれた娘を見つめる自分がいた。彼女はバクテリアに感染していたのだ。
「お母さん、よく早期発見できましたね。」担当医が言った。発見が少し遅れていれば、脳障害もしくは死という結果を招いていたらしい。数人の医師がチームを組み治療にあたるという重々しいものになった。検査に次ぐ検査の毎日が続き、生まれたばかりの赤ん坊の踵に何十本かの注射の針が刺された。彼女の身体を事務的に抑えつける看護師の姿が、私には鬼のように見えた。「もう、やめて。」火がついたように泣き出す娘から視線をそらし、声にならない声を心で叫びながら、戦場と化した病室の片隅で私自身も泣いた。
自分で体温調節もできない娘は、保育器に入れられていた。彼女を抱くことさえままならず、透明の箱の外からじっと見つめるだけだ。それでも授乳の時間だけは保育器から出すことが許された。待ちに待った瞬間、淡いピンクのキャップをかぶった天使を、そっと外に出す。彼女の体に繋がっている何本ものチューブが外れないように細心の注意を払いながら。薄暗い病室の片隅で、そこだけは一筋の月光が射したかのように温かいと感じたひとときだった。退院後も、しばらくは家庭での投薬治療が続いた。薬による聴覚への影響も危惧されたが、幸運にも何一つ問題はなく、娘は順調に回復した。
同じ時期に同じ病気で入院していた新生児は天国に旅立ったと後で知った。私たち家族が回復を喜び沸き立っていた頃、もうひとつの家族は冷たくなった体を抱き、慟哭したのだろうか。何が二人の新生児の運命を分けたのか、わかりようもない。はかなく消えた命を思う時、我が子が生き延びたという事実を厳粛に受け止め頭を下げることしかできない。
そんな娘ももう13歳、誰に似たのやら徒競走が得意で運動会を指折り数えて待つ子へと成長した。(「雨が降りますように」と祈っていた私の中高生時代とは全く逆であることがおかしい。) バレーボール部の練習も楽しくて仕方がないらしい。でも、私は自分に言い聞かせる。心に刻みつけておこう、と。暗い病室の片隅で保育器から出した赤子をうやうやしく抱いた日々を、記憶の底に沈めずにいよう。平穏な日常に身をゆだねる一方で、あの日々を風化させてはならないのだ。私も、娘も、「生かされている」。奇跡と奇跡の重なり合いの先に人生がある。昨年の「心の旅」で得たものが、これからも続く旅に道しるべを築いてくれる、と確信している。
そして、エメラルド・シティ
8月初め、平和使節団の一員として祈念式典に参列するため長崎へと発つ娘を見送った。数日後、帰京した娘を家族で出迎えに行き、そのまま空港で待機すること数時間。その夜に4人でシアトル行きの飛行機に乗った。旅行が続いたとはいえ、アメリカ滞在中の娘は疲れを微塵も見せないばかりか、スーツケースにしのばせていたバレーボールを取り出し、部活を欠席した部分を補おうと単独の練習に精を出していた。彼女のエネルギーと律義さには脱帽した。
"Welcome back!"
移民局の職員がさりげなく投げかけた言葉を、心の奥で幾度も反芻する。宙を舞う魚に歓声をあげるパイク・プレース・マーケットの魚屋。目前に展開するシアトルの夜景に息をのむベインブリッジ・アイランドからのフェリー。幼な子に絵本を読み聞かせた日々を思い出し胸が熱くなるベルビュー図書館。義父が待ち構えていたモンタナの農場。「これぞ、アメリカンサイズ!」大皿にこんもりと盛られたナチョスのチップスや、トルティーヤが具沢山ではち切れんばかりのブリトーに舌鼓を打ったメキシコ料理店。
東京の喧騒が、瞬時にして私たちの記憶から消え去った。流行のファッションに身を包む若者で埋め尽くされる渋谷のスクランブル交差点も、夜ごとネオンに照らし出される赤坂の街並みも、そして自宅マンションのベランダから仰ぎ見る高層ビルの連なりも。「ずっと、ここにいたいなあ。」満面に笑みをたたえた娘が、翼を取り戻した鳥のごとく、いきいきとした表情を見せ飛び跳ねる。「日本には、行きたい高校がない」。「私は、アメリカ人」。彼女は頑強に主張してきた。過去に日本の学校教育を拒絶したこともある息子よりは数倍も異文化への適応能力を発揮していると見えた娘なのに、皮肉なものである。もっとも、私の目の前にいるのは、すっかり達者(達者過ぎ)になった「東京弁」(と、関西人の母は少々皮肉を込めてそう呼ぶ)でバレー部員たちとのお喋りに花を咲かせながら下校する日本の女子中学生だ。
新しい夏
「おいしいよぉ、これ!」 晴れ上がった日曜日の夕方、台所から声が響く。彼女の傍らで、夫も顔をほころばせている。父と娘の心がふれあうひと時。夫が出張土産にシアトルで買って来たアイスクリームメーカーを試したくて、娘はウズウズしていたのだ。二人の共同作品であるパンプキンスパイスのフレーバーの手作りアイスクリームは、本当に「ほっぺたが落ちる」程においしい。夕食前だというのに、家族全員がスプーンを口に運び続ける。アイスクリームメーカーの影に、実は父親の切ない願いがあったことを娘は知らない。アイスクリーム作りを通して、足早に成長するティーンの娘とささやかな時間を共有したかったのだ、と夫がこっそり教えてくれた。
蝉しぐれの季節が再び到来した。洗濯物を干す手を休めベランダから眺めるビルの世界も、7月の風の中で、心なしか輝いて見える。アメリカよりは1か月半も遅い夏休みが、ようやく来週から始まろうとしている。終業式の翌日は、バレー部の練習が休みなので、娘を私の職場へ連れて行く予定だ。その後、久し振りの遠出で江の島に海を見に行こうかなと考えている。私は、娘が新品のアイスクリームメーカーを使うことよりも、おそらくは3倍ぐらいの期待感で母と娘の遠足を心待ちにしている。これにもまた、娘は気づいていない。
刹那の人生の旅人である私たちの前を、時は指の隙間からポロポロと零れ落ちる砂のごとく、容赦なく駆け抜けていく。家族全員が揃う夏休みが、実はもう数多く残されてはいないことを、夫も私も悟っている。だからこそ、この眩い季節の一瞬一瞬を慈しみ、思い出創りに励もうと意気込んでいる。タッパーウェアに丁寧に詰められ冷凍庫で出番を待っていたパンプキンスパイスのアイスクリームをお皿に取り分けながら、「さあ、終業式まであと何日かな」と数えている自分がいた。
掲載:2017年7月
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