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第58回 ガラスの街にて:シアトルっ子が見つけた青春(1)

著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

ベインブリッジを想う季節

2008年夏、ベインブリッジのマリーナで大はしゃぎ

ガラスの向こうに、ベインブリッジが見える。
いや、見えた気がした。

高層ビルがひしめく赤坂見附のカフェで陣取った窓際の席。アイスカフェラテをすすりながら、ふっと遠い目をする。

蝉しぐれ、冷やし中華、プール教室。夏の風物詩は、どこか少女時代を彷彿とさせる懐かしさに溢れる。気がつけば、ラジオ体操の始まりを告げるポスターが、小学校の正門脇に貼られていた。6月から夏休みが皮切りとなるアメリカとは比べようもないが、日本でもようやく1学期の終業式を迎えた。

この眩しい季節が到来するたびに、ベインブリッジ島へと想いを馳せる。

白い飛沫でエリオット湾に優美な線を描き出し、シアトルから遠ざかるフェリー。街並みに彩りを添えるお洒落な店の数々。帰路の船上から見つめる、宝石を散りばめたかのようなエメラルドシティの夜景。東京へと越して来るまで、私たちの夏は、いつも、ベインブリッジへの小さな旅で幕を開けた。

2006年夏、シアトルからベインブリッジへと向かうフェリーで

あの島で過ごした昼下がりを振り返る時、そこには息子と娘のあどけない笑顔が浮かび上がる。サンドイッチの包みを後生大事に抱え、マリーナに横たわるヨットの一つひとつを興味深げに覗き込んで闊歩する二人。

ふっと目をつぶれば、そんな情景が脳裏に浮かぶような気さえするのに、顔を上げると、そこには、スーツ姿のサラリーマンや、「就活ルック」の大学生。緑滴るパシフィック・ノースウエストとは別世界の東京で、子供たちのあどけない笑顔には、もう出会えない。

2008年夏、再びベインブリッジへ向かうフェリーで

前回のコラムで、私は息子の高校受験の体験を綴った。2月の寒空の下で母子が手を取り合い小躍りした合格発表から、早くも5か月。降り注ぐ春の光に薄桃色の花びらが舞う季節、3歳違いの息子と娘はそれぞれに卒業式と入学式を迎えた。「仰げば尊し」に、「旅立ちの歌」。厳粛な式典が幕を閉じ、拍手と歓声の渦の中、意気揚々と花道を通り抜け、新たな世界へと踏み出した二人。

高校生として初めての夏休み、息子は終業式が終わるやいなや、学校のサマーキャンプで群馬へと旅立った。「キャンプファイヤーを囲んで踊るってさ。バッカバカしい」と顔をしかめていたが、実はまんざらでもないのだろう。彼の携帯に何度電話をかけても音沙汰がないので、母は内心うんざりもしている。(何をしてるんだか。一言、連絡してくれてもいいのに。)

一方で、娘はポニーテールを揺らし、今日もいそいそとジョバレ(女子バレー部)の練習に向かう。8月に入れば、平和使節団の一員として祈念式典に参加するため長崎に飛ぶ。

「今のうちに宿題をやっておいてよ」と口を酸っぱくする母親に愛想をつかし、時には苛立ちの声を上げる。

「わかってるよ!」「うるさいなあ、もう!」

「!」がいくつもつくような言葉が返ってくる。東京の文字通り「ど真ん中」、マンションのベランダからは隣の会社の様子が垣間見えるコンクリートジャングルで、シアトルっ子の二人はティーンエージャーとなった。

さらさらと流れゆく季節の中、子育ても既に後半にさしかかりつつあるという現実にたじろがずにいられない。ベインブリッジの水際の公園を駆けずり回っていた我が子らが、今は海を越えたこのビル街で、青春という眩しいステージの上に立つ。練習試合に合宿、文化祭。それぞれに弾けんばかりの若さを(本人たちはそれと気づきもせずに)発揮する。舞台袖に立ち、その姿を見つめる私は、誇らしさや嬉しさといった感情よりも寂しさや焦りの方ばかりが先立つ愚かな母親でしかない。

今回そして次回のコラムでは、それぞれ日本の高校と中学に入学し、新たな世界を築き始めたシアトルっ子たちの足跡を辿ってみたい。今回は、「ことば」に焦点を当てた上で、15歳の息子が歩む道を振り返る。

薄明りの中のメッセージ

「本当はおまえがみんな見てたのね。小さき丸き粒にささやく」

俵万智の短歌を思い出す。それは、一日の終わりに外したコンタクトレンズに語りかける様子を詠んだ歌だった。

私も同じように心で呟く。

「みんな、みんな、見てたよね。入学したあの日から、ずっと。」

相手はコンタクトではなく、制服だ。「3年間、お疲れ様。」中学の卒業式の前夜、くたびれ果てた詰襟の制服にスチーマーをあてながら、蒸気の中で私は言葉にし難い思いを噛み締めていた。「いやだよねえ、今どき学ランなんてさあ。」3年前の春、私は口を尖らせていた。アメリカから日本に越して間もないせいもあったのだろう。公立中学の制服が嫌いだったのだ。それなのに、いつからだろう。詰襟姿に身を包んだ息子の写真を、シアトルの知人に送りながら、心の中で、「ねえ、見てよ。日本男児の息子ってカッコいいと思わない?」と、少しばかり鼻が高くなるような気持が頭をもたげているのに気づいた。

その学ランと、彼は別れを告げようとしている。入学する高校はブレザーにネクタイの制服で、詰襟よりも洗練して見える。それなのに、今度はそれを残念に思う自分がいた。それ程までに、15歳の息子は詰襟が似合う少年になったのだ。

"Ihate Japan!"

そう怒鳴られた朝が脳裏を過ぎる。

「日本の学校なんて大嫌い!シアトルに帰りたい!」

布団から出ようともせず叫ぶ息子を無理やり引きずり出し、有無を言わせず登校させた朝がひとつ、またひとつと重なった時期もあった。

「ママはさ、日本人だから、わからないんだよ。どんなに日本語が僕に難しいかってこと」

清少納言に太宰治。第二国語での格闘を続ける息子の嘆きに、口をつぐむしかなかった瞬間もあった。だが、親の気づかないところで、息子は彼なりの努力を重ねていたのだろう。特に高校受験という予想外の試練と直面した彼は、まさに背水の陣の思いで、国語の問題集との格闘を日々続けたに違いない。

「ママのせいで、受験することになったんだよ。アメリカに帰るつもりでいたのに」

当初、そんな愚痴がポロリと出ることはあったが、これ以上何を言っても無駄だと腹をくくったのか。今にして思えば、受験のプレッシャーがあったからこそ、それに背を押されるかのように読解力も伸びたのかもしれない。

2006年夏、ベインブリッジの行きつけのキッズ・ミュージアムで、手製の帽子をかぶって

「『僕』と『俺』って、どう違うの?」
(友人宅に電話をかける前に、オロオロとしながら)「誰かが出たら、何て言えばいいの?」

真顔で尋ねた彼はどこへやら、芥川龍之介の「舞踏会」を読みこなし感想文を書けるまでに日本語の読み書きが上達した。さらに驚いたのは、いつしか芥川の愛読者となり、彼の作品の批評もどきを、私の母宛にメールで書き送ったことである。

「芥川の『鼻』という文庫本、おばあちゃんにも薦めます」

そんな風に締めくくった長文を読み、老母は仰天していた。

「日本語、上手になったね」「おばあちゃんには、そんな本、難しくて読めないけどね。今度会ったら、感想を聞かせてちょうだいね」

そんな返信が送られてきた。
そして何よりも私を驚愕させたのが、体調を崩し入院を強いられた私の元に届いた一通のメールである。

ベッドに横たわった私が掌の中で操っていたアイフォンのスクリーンに映し出されたメッセージ。それは、人生で初めて彼から受け取った日本語のメッセージである。しかも、長文だ。

「クラシックのおススメ」というテーマで、「フィンランドの作曲家による三大バイオリン協奏曲」だの、「愛国精神の表れは、19世紀のクラシック音楽の特徴の一つ」だの、音楽評論家もどきの少々気取った文章が並ぶ。

クラシックよりもロックの方に詳しい(そう、彼と同年齢の頃は、ロック専門誌の記者になる夢さえ抱いていた)母親には、どうも敷居が高い。半面、よく書けるようになったものだと舌を巻く。だが、私の心をより大きく揺さぶったのは、文末の四つの文章だった。

お大事に。
無理せずに過ごしてください。
退院するのを楽しみに待っています。
ゆっくり休んでください。

日本人にとっては何のこともない、極めてシンプルでありふれた文かもしれない。「日本の中学を卒業した以上、それぐらい書けなくて、どうするの?」そう言われるかもしれない。それでも、消灯時間を過ぎた病室の暗闇を照らす仄かな灯りの中、私は飽きることなく同じ文字を読み返した。これまで繰り返してきた自問自答に対して、ようやく一つの答えが顔を覗かせたような気がするのは、錯覚だろうか。アイフォンを枕元に置いたまま、眠りについた。

道具としての言語

2007年、シアトル日本語補習学校の運動会で、徒競走1等賞をとり大得意

私はこれまでにも二つの文化と言語の狭間で生きる子供たちについて数多くの記事を書いてきた。そのせいだろう、バイリンガル教育の熱心な支持者だと思われているフシがあるし、実際そのようなコメントを受け取ったこともある。だが、実を明かせば、私はこのテーマについて少々複雑な思いを抱えてきた。「バイリンガル教育とやらに、力を入れ過ぎない方がいい」という考えにも賛同するからだ。

シアトル在住時、日本人コミュニティにおいても、バイリンガル教育については意見が分かれていた。日本語幼稚園や補習校に我が子を送り込もうと躍起になる(そう周囲には映るらしい)親が批判されることもあった。「土曜日にサッカーやピアノの時間を削ってまで補習校に通わせるのはどうか」という意見もあったし、それは私自身が頷ける指摘でもあった。我が子に、もうひとつの祖国・日本の言語や文化を身につけて欲しいと願う半面、それにこだわりたくないという気持ちがあったからである。

日本とアメリカ(または第三、第四の国)、二つ(以上)の国を背景に生まれた子だからといって、双方の言語や文化を体得したバイリンガル(マルチリンガル)ひいてはバイカルチャル(マルチカルチャル)としての生き方にこだわるのは不自然だ。我が子を、「日本とアメリカ、どっちつかずの人間にしたくないから」と、家庭内でも英語一本に絞り、「アメリカ人として」育てたという日本人夫婦と出会った時は、彼らの潔さに感嘆したこともある。

実際、「もう日本語の世界には終止符を打とう」と決断し、バイオリンを弾く息子を青少年オーケストラに参加させるために補習校を退学させた。我が家では、日本語と音楽を天秤にかけた結果、後者の方が重要だという結論に達したのである。当然、補習校を続けながら音楽やスポーツとの両立を見事に成し遂げている子供もいるだろう。残念ながら、我が子はそれ程の器用さを持ち合わせてはいない。

多くの在米日本人が日本語教育への熱意を抱くのと同様、いや、それをはるかに上回る勢いで、日本では英会話ブームが続いている。

「いいわねえ、お宅のお子さん、英語ができるから」

保護者会で顔を合わせる母親仲間が飽きもせず同じ称賛を浴びせてくる。

「やっぱり、これからの時代は英語ぐらいできなくちゃねえ」

異口同音で言っては、英会話学校とやらに大金を支払う親が絶えない。(皮肉なことに、そういう親たちの間では、「ネイティブ」のセンセイ信仰が強い。娘の中学でも業者委託とかで英会話学校の講師を呼んでいるが、説明会で、それがオールマイティでもあるかのごとく「ネイティブ」講師と連発していたのには苦笑させられた。

ネイティブの国に長年暮らし、ネイティブの夫や子供と寝食を共にする私にしてみれば、「それが、ナンボのもん?」とでも横槍を入れたくもなるのが正直なところだ。結局、言語学習そのものよりも、青い目の外国人センセイと向き合い、欧米の雰囲気らしきものを味わうのが英会話のレッスンになってしまっているのだろうか? このあたりは、日本人が未だ引きずる欧米コンプレックスが反映されているような気がしてならない。英語にしろ、日本語にしろ、所詮、言葉は道具に過ぎない。道具自体がゴールにすり替えられ、挙句の果てには日本の英会話ブームのようにファッション化までされてしまう風潮には、どこか抵抗を感じる。もっと肩の力を抜こうよ。そうも言いたくなる。

「日本人になった」息子

こんな風に書き連ねていくと、どうも私はイメージとは裏腹に(?)バイリンガル教育に熱心な親とは言えない気がする。それどころか、時として後ずさりしたくもなる。

それなのに私は、日本語は嫌いだと抵抗した息子を公立校に入れ、普通の日本人の子供たちと同じように、国語の授業で 『走れメロス』 なんぞを読ませるような苦行を強いたのである。それ自体はバイリンガル教育を意図してのものではなかったが、結果としてそうなっているのは否定できない。

「早く、アメリカの学校に戻らせてあげた方がいいね」

そう忠告をしてくれたアメリカ人やイギリス人の友人が何人もいた。私自身も自問自答を繰り返し、模索を続けていた。それでも、剣道部の部長という大役を担った息子が、竹刀を振り、大会に出場し、段位試験に挑むうちに、少しずつ自分の居場所を見出しつつある姿に励まされもした。

そして、高校受験。シアトルっ子が、都心の寒空の下、重いリュックを背に塾通いをしたり、模試の判定に一喜一憂したりしている。その姿をパシフィック・ノースウエストの雄大な自然と照らし合わせて考えると、痛ましくもあったが、一方で頼もしくもあった。日本語での受験勉強は、彼にとって人生初の大きな試練であったかもしれない。その試練を、彼は乗り越えてくれた。

ガラスの街で、紆余曲折を経て迎えた15歳の夏。病室の枕元の薄暗い灯りをつけ、幾度も読み返したメッセージは温かい。

「お大事に。」
「ゆっくり休んでください。」

なんと心に染み入る言葉なのだろう。"Please take good care of yourself." とは、ニュアンスが異なる。

幼い娘がシアトル郊外の日本語幼稚園に通っていた頃、行きつけのスターバックスのナプキンに、「だいすきよ、まま」と書き、手渡してくれたラブレターに相好を崩した日々があった。

「だいすきよ、まま。」それと、"I love you, Mommy" との間には隔たりがある。どんなに腕利きの翻訳家であっても、その隔たりを埋めることはできないだろう。「だいすき」の方が私の胸を温めるのは、なぜだろう。単に、私が日本人だからだろうか。よくわからないけれど、私は息子と娘が日本語を英語同様、母国語と呼べるまでになったことを素直に嬉しいと思う。

シアトルっ子の息子は、日本語の力が伸びるのとほぼ並行して、日本人らしさを増してきた。今や、級友からファーストネームで呼ばれるのを嫌がり(「チャラチャラした感じ」なのだそうだ)、アメリカの某大学の講義の動画で、野球帽を被ったまま教授に質問をする学生が「失礼だ」と批判する。グラグラと地震が起こるたびに震え上がる恐がり屋の私が、「日本には長く住めないよね。震災が怖いから」とでも言おうものなら、「でも、アメリカでは銃の犯罪が怖いしさ」と、意識しているかどうか、日本を弁護する側に回る。金曜日の夜に参加する剣道会で、竹刀を振り、「先生方に礼!」との指示を受け深々と頭を垂れる胴着姿の彼の姿を見ると、もうすっかり日本人だ。

この原稿を書いている最中、サマーキャンプ最終日の息子とようやく電話が通じた。群馬の宿舎を発ち、解散となる新宿駅へと戻るバスの中らしい。カラオケにでも興じているのだろうか、背後から賑やか極まりない音が聞こえてきて、彼の声はかき消されてしまう。会話が尻切れトンボのままに終わったが、「楽しかった」様子は十分に伝わった。どんな土産話を聞かせてくれるのだろう。高校生として初めての夏休み、素敵な思い出で満たすことができますように。

追記
ベランダから見下ろす都心の街並み。ベインブリッジ島で過ごした昼下がりは、もう遠くなってしまった。

「ベランダから隣りの会社の様子がうかがえるなんて、一体、あなたたち、どんな所に住んでるの?」

シアトルの友人は怪訝そうに聞くかもしれない。「あれ、会議中だな」なんてベランダ越しに観察をしながら洗濯物を干す日常にも馴れた。

ビルの谷間に仰ぎ見る夏空は、それなりに美しい。日本の夏のよさが、ようやく感じられるようになった。それでも、いつかは、シアトルへ帰る。今や息子の何倍もシアトルへの恋心を募らせている娘が、一日千秋の思いでその日を待ちわびる。その時は、懐かしいフェリーに乗り、ベインブリッジへの遠足を楽しもうと約束している。次回は、中学生となり、少し大人びた娘の足跡について書いてみたい。

掲載:2016年8月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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