著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。
人、人、人の渦が巻く。泣きじゃくる幼子が、居心地悪いのか乳母車から身を乗り出し、苛立ちの表情をあらわにする。菓子折りが入った紙袋をいくつも提げた人たちが、エスカレーターへと歩を早める。「雪のため、のぞみX号は遅れて到着します。」頭上でアナウンスが響く。ゴロ、ゴロ、ゴロ。夕暮れ時の新大阪駅。新幹線乗り場一体に溢れるキャスター付きスーツケースの車輪音。
ここには、もう何度来たことがあるかわからない。それだけ頻繁に新大阪~東京間の往復を繰り返してきた私だが、この喧騒にはさすがに驚愕した。お正月休みも終局を迎え、それぞれの思い出を抱えた帰省客が帰途につこうとしている。私自身もスーツケースを引きずり歩く。ゴロ、ゴロ、ゴロ。車輪音の洪水の中、胸の奥で呟く。「子育て、とかけて、スーツケース、ととく。」その心は・・・
X 月 X 日
どっちつかず。ま、それも悪くはないよね。一枚のカードを取り出しながら思う。掌にあるのは、グリーンカード。日本にいると、自分が他の人たちの間で、どこか「浮いている」と感じる瞬間がある。どんな風に?自分でも上手く説明できない。反面、アメリカにいればいたで、異なった違和感におそわれる。もう、日本人ではない。だが、アメリカ人になりきったわけでも、むろんない。どこにも属しない根無し草。グリーンカードは、そんな不安定な存在を持つ自分の姿を映し出すような気がしてならない。一体、私って何者?この質問にとっさに答えられない。母親の私がそうなのだから、息子と娘にいたってはなおさらだ。片手に John Grisham の法廷小説のペーパーバック、もう片方の手に剣道の竹刀を持ち、詰襟の学生服で登校する息子。アメリカの小学校で教わったパワーポイントの技術を駆使し、凝ったビジュアル効果のプレゼン資料をいとも簡単に作成する傍ら、漢字ドリルの宿題に四苦八苦する娘。”Hey, knock it off!” 英語で兄妹喧嘩が勃発したと思いきや、次の瞬間には、「やめてよ!」「あっち行って!」、日本語での対戦が展開する。だが、こんな声も自分の中にある。「どっちつかずの根無し草? それも悪くないよ」。それも愉快な生き方だ、と思えるのだ。シアトルで、こんな風にさらりと言ってのけた友人がいた。「どっちつかずって、得な立場なのよね。『いいとこどり』 できるんだから。」そうそう、そうなのだ。アメリカ人、日本人、ハーフ。そのような枠にきちんと収まる必要などないし、収まり切らない方がいい。枠組みを超えて自由に遊泳を楽しめる方がいい。「どっちつかず」であることは、「どっちにもつける」ことを暗示する。そんな可能性を持つ息子と娘は幸せだと、我が子ながら羨望さえ感じる。
日本での子育てに試行錯誤はついて回り、親も肩で息をした日があった。それでも、こちらでの生活が3年目に入る今、思う。やがて成人した息子と娘が東京の空の下で過ごした日々を振り返る時、そこに何かのきらめきを見出してくれるだろう。二つの世界で刻んだ思い出をそれぞれに愛しく感じるだろう。それは願望というよりも、確信に近い。そんな思いにとらわれながら、師走の千代田の空を仰ぎ見る。旅に発つ日も近い。日本で迎える年末年始は、これが最後になるかもしれない。ずっとずっと思い出に残る旅にしよう。遠い歳月の彼方から振り向いた時、心がほっこりと温まるような、そんな旅に。
X 月 X 日
私は、旅が好きだ。若くして海外に出た私にとって、日本には未知の地が多い。だからこそ、東京に居を移して以来、積極的に国内旅行を楽しんできた。小樽の運河。鳴門の渦潮。軽井沢のイングリッシュガーデン。ただし、お金も時間も限られるから、週末や三連休を利用して、身近な場所へ1、2泊のささやかな旅をすることも多い。いや、日帰りであっても、東京都内または郊外には、存分に楽しめる場所がひしめく。寅さんの舞台となった柴又。力士とすれ違う、国技館のお膝元・両国。小江戸の街並みや風情を堪能できる川越。「仕事を持ちながら、それだけ出歩いていて、よく疲れないよね。」母親仲間にあきれられる程、あちこちで街歩きをしてきた。出歩くのは苦にならない。シアトルでも、直前の思いつきでフェリーに飛び乗っては、ブレマートンやベインブリッジへ出かけたものだ。東京だろうが、シアトルだろうが、お金をかけなくても、ささやかな非日常の空間を創り出すことはできる。
子供たちが日本での日々を振り返る時、ほのかに温かい思い出のかけらが次々に姿を現してくれたらいい。記憶の中の景色は時とともに色褪せ、いずれは消えてしまうかもしれない。それでも、家族で共有した時間の断片は静かに呼吸を続け、生き続けるのだと信じたい。そんな思いが根底にあるので、冬休みは私の母の故郷・広島県呉市を経て大阪・神戸を訪れることにした。関西へは出張も含め頻繁に出かけているが、呉に行くのは、およそ20年振りになるだろうか。子供たちにとっては初訪問となる。スーツケースを詰めながら、何年、いや何十年か振りに会う親戚を想い、胸を熱くした。
X 月 X 日
「海色の歴史回廊」。そんな言葉で形容される呉は、かつて東洋一の海軍工場の町として繁栄した。過去の栄光は陰を潜めたとはいえ、潮風の中、今もその歴史が薫る呉で、真っ先に訪れたのが、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)だ。旅行先で、絵葉書のような景色を見て廻るだけでは、どこか空しい。「楽しかった」「おもしろかった」だけの旅行にはしたくない。子供が成長するにつれて、その思いが深まってきた。広島を選んだのも、実はそんな理由がある。親戚との懐かしい再会が第一の理由には違いないが、それと同時に、広島が辿った軌跡が、日米双方を祖国とする子供たちに諭すものがあると私なりに考えたからだ。(広島市内でも、平和記念公園に行ったが、原爆資料館の閉館日にあたったのが残念だった。)
ミュージアムには、呉で建設された史上最強の戦艦「大和」を忠実に再現した10分の1のモデルがある。さらに、造船・製鋼を始めとした各種の科学技術や呉の歴史を紹介する展示もある。最終的なねらいは、この海軍の街が辿った歴史を学ぶと同時に、平和について考えるところにある。当時の最高技術の結晶として、巨艦・大和は、緻密な計画と徹底した機密保持のもとに築かれた。アメリカ側の “量” 的優位に対し、日本が “質” で対抗を試みた戦艦だったという。お国を守り、お国のために戦い抜く人々の決意の表れだったのだろう。展示品には、沖縄特攻へ出撃した乗組員の遺書や遺品もある。「死に場所を得て、男子の本懐(ほんかい)これに勝るものはなし(注:原文のまま)」。艦長が長男に宛てた書には、そう記されている。アメリカ海軍空母機との応戦の末、多数の魚雷、爆弾の命中により、大和は沈没した。「ぼくの国が、ぼくの国と戦ったんだよね。」何気なく呟いた息子の言葉が胸に染みた。
X 月 X 日
呉駅を出たバスが停まった。寒空の下、白髪の老人が立っている。「よう来んさったなあ。」70代後半の叔父が出迎えてくれた。広島弁の温もりに、笑みがもれる。
「くれへいく。」それは、少女時代の私にとり、胸が高鳴る出来事だった。夏休みが間近になると、旅立つ日を文字通り指折り数え待つ。今は亡き祖母の家で過ごす日々が待ち遠しくてならなかったのだ。「あしたは、くれへいきます。だから、へやのそうじをしました。」1年生だか、2年生だか、当時の絵日記帳を母に見せてもらうと、心なしか文字までが躍っているように見える。「きょうは、くれにつきました。でんしゃで、なんじかんもかかりました。」いとこ達と蝉取りに興じた原っぱ。後生大事に小銭を握り締め、駄菓子屋を目がけ駆け下りた坂道。映画でよくあるシーンのように、セピア色の写真の中で静止していた人や景色が息を吹き返し動き出すかのようだ。母の手縫いのワンピースを着て、つばの広い帽子の下から、日に焼けた顔を覗かせる少女。その少女が、いっぱしの大人になり、あの時の母よりも年をとった。そして今、夫や子供と一緒に、この懐かしい坂道を上っている。もう一度、戻れたら。一瞬、そんな気持ちが胸を過ぎる。あのキラキラした夏の日々に戻れたら。お皿に盛られた黄色いスイカ。蝉の抜け殻。線香花火。そんな思い出のかけらたちが矢継ぎ早に脳裏を過ぎり、私を切なくさせる。師走の冷気を肌に感じながらも、みずみずしい夏草の匂いが蘇り鼻先をくすぐるかのようだ。あの日々に戻りたい。再び、麦藁帽子をかぶり、この坂道を風のように駆け下りたい。英語など話せなかった。シアトルなる地名も、弁護士という職業も知らなかった。坂の下の駄菓子屋で、どのアイスキャンディを買おうか。それだけを考え走っていた。あの頃に戻りたい。妻として母として満ち足りた生活を送っている筈の人間が、そんな願望を抱くのは、傲慢なのだろうか。
真冬とはいえ、晴れ上がった空が清々しい昼下がり。叔母の心づくしの手料理に舌鼓を打った後、叔父の案内で、音戸の瀬戸へ行く。平安時代に、平清盛が夕日を招き返し1日で切り拓いたという伝説が残る名勝地。ここもまた、幼少時代の思い出が眠る場所だ。3分で対岸の桟橋に着き、日本一短い海上定期航路を結ぶ音戸の渡し船は、「大人70円、子供40円」で今も健在なのが嬉しい。船上から仰ぎ見る空は、こんなにもやさしい。
X月 X日
行き交う船や、ポートタワーの優雅な曲線を見つめる。神戸を訪れるたびに、このハーバーランドに来る。神戸では「山側」・「海側」という表現をよく使うが、私は海側を好む傾向にある。だが、今日来たのはそのためだけではない。「あの近くにさあ、オールド・スパゲティ・ファクトリーがあるの。行こうよお。」娘が懇願したからだ。そういえば、シアトルでの週末、オールド・スパゲティ・ファクトリーは、気軽にランチを楽しめる家族向けレストランとして、時おり足を運んでいた。まだ子供たちが幼かった頃は、店内の汽車に陣取ったものだ。日本では、神戸と名古屋にしか店は出ていない。ポートタワーの展望台から一望できる港と市街地、六甲山のパノラマも、今日の娘にはさほど意味を持たない。彼女の頭の中は、オールド・スパゲティ・ファクトリーで一杯に違いない。
一方、息子は、梅田の紀伊国屋書店で買ったアメリカ小説のペーパーバックを読みふけっている。夫は夫で、手持ち無沙汰に土産物を眺めている。やれやれ。神戸の風景に心躍らせ感傷に浸るのは、私だけか。六甲山の連なりを背景に、テニスラケットを振り回していた中学生時代や、生意気な新聞記事を書いてはお目玉を食らっていた高校生時代を思い浮かべる私の横で、家族はそれぞれの世界に浸っている。無理もない。彼らの中にあるふるさとは、私のふるさととは違うのだから。
娘が嬉々として探しあてたオールド・スパゲティ・ファクトリーは、幾分こじんまりとしているものの、店内の雰囲気やインテリアはどこかシアトルの店を彷彿ともさせた。パスタを食べながら子供たちが繰り返し言う。「なつかしいねえ。」「シアトルに帰りたくなるねえ。」詰襟の学生服が板につこうとも、漢字テストで満点を取ろうとも、彼らの心の故郷はエメラルドシティにある。その反面、「ママ、シアトルでも剣道を続けられるかなあ?」と真顔で尋ねる剣道部キャプテンの息子や、「東京オリンピックの時には日本に戻って来て、通訳のアルバイトをやるんだ」と熱を込めて語る娘に、安堵の息もつく。二つの国の文化を背負った国際人に、などと気負うつもりはさらさらない。
「お宅はいいわよね、バイリンガルで。」その手のコメントをもう何度受け取ったか判らないが、子供たち自身は二ヶ国語を活かし文化の架け橋となる道を選ぼうとしている訳ではないし、親もそれを期待はしていない。「ハーフのバイリンガル」だからといって、皆が皆、外交官よろしく国際舞台で活躍する訳などない。肩に力を入れず、自然体でいいじゃないか。それでも、母親の国で積み重ねてきた日々が、彼らの中に何かを残し、何らかの形で生きていく上での原動力に繋がるのであれば、それはとても嬉しい。
子育てとかけて、スーツケース、ととく。いや、正確には、スーツケースを詰めることの手助け、かな? 東京都心のビルの狭間であっても、緑滴るシアトルであっても、または全く異なる地であっても、それぞれの場所でそれぞれの「いいとこどり」をして、彼らのスーツケースを一杯にし、いつの日か巣立つ彼らに渡してやりたい。その中から、何を選び取り、何を糧にするかは、彼ら自身の選択である。少々重くなるかもしれないけど、これがお母さんからのプレゼントだよ。心で呟く。雪が舞う大阪を発った新幹線「のぞみ」は、東京駅に向かって滑り出した。
掲載:2015年1月
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