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第53回 Freude! 『第九』 日記

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X 月 X 日

東京メトロ半蔵門線で九段下まで行き、そこから都営新宿線に乗り換える。テキストとノートが入った鞄を抱えて。土曜日の昼下がり、私は4月から受講している社会人クラスへと向かう。(何を勉強しているかについては、後日のコラムに譲りたい。)入学を決めるまでは、葛藤があった。平日は勤め人としてバタバタしているだけに、週末だけは、家族と過ごす時間を大切にしたい。自分のために高額な授業料を支払うぐらいなら、子供の習い事に投資してやりたい。そんな所帯じみた願望が尾を引く反面、「どんなに小さくてもいい、自分だけの世界を持ちたい」、「昨日と同じ今日に、新しい風を吹かせたい」という願望もふつふつと沸き上がった。自問自答を繰り返した挙句、「えいやっ」と飛び込んだ世界は、予想以上に奥深く新鮮だった。クラス終了後は、喫茶店で仲間たちとお喋りに興じる。何気ない会話を契機として、仕事への活力を与えられた。利益関係が絡む職場での人間関係でもなければ、子育ての話が中心となる「ママ友」でもない。青春時代に逆戻りしたかのような友人関係を築くことができた。

「高尾山に登ろう。」清々しい秋空が拡がる日曜日、10数人のクラスメートと一緒に登山に挑むことになった。山歩きをする中で、こんな声をかけられた。「あなた、ダイクに興味ある?」英語では、Beethoven’s Ninth Symphony、ベートーヴェン交響曲第9番、通称『第九』 である。「音楽都市づくり」を推進する墨田区主催のイベントで、公募メンバー5000人による合唱団が、1985年以来、毎年2月の第3または第4日曜日に、国技館でオーケストラやソロイストと共に第九を披露するという。団員は、沖縄などを含め全国津々浦々から集い、ひいては約10カ国におよぶ外国からの参加者もいるらしい。指揮者は、国際的に活躍する松尾葉子さん。何とも魅力的なイベントではないか。オーディションはなく、誰でも一定の金額さえ払えば参加できるという気楽さにも惹かれた。「よし、やってみるか」。深い考えもなく、ただ好奇心のおもむくままに合唱団入団を決意した。ドイツ語、しかも暗譜で歌わねばならないことなど意にも介さずに。

X 月 X 日

浅草駅から地上に出ると、私と娘を迎えてくれるスカイツリー。

浅草駅から地上に出ると、私と娘を迎えてくれるスカイツリー。

「こんばんは。また、来たね」メトロ銀座線の浅草駅から地上に出ると、闇を背にしたスカイツリーが鮮やかな色を放ち、私たちを出迎えてくれる。港区での勤務が終わる夕刻、いったんは自宅に戻り、疲れた体を引き摺るように、隅田川のほとりにあるリバーサイドホールでの練習へと足を運ぶ。横を歩くのは、11歳の誕生日を迎えたばかりの娘だ。「一緒に第九を歌う?」そう尋ねた私に、彼女は目を輝かせ、大きく頷いた。団員のほぼ全員が大人。しかし、小学生でも参加可能とのことで、娘も入団を決めた。平日夜間の練習、しかも寒風が吹きすさぶ中、都心から浅草くんだりまで通うのはつらい。同じように仕事を持ちながら練習に通う社会人クラスの仲間数人に加え、我が子がメンバーに加わったことで、私は怠けがちな自分を奮い立たせ浅草へ通った。橋の袂で迎えてくれるスカイツリーの優美な姿が励みにもなった。

娘は、私にすこぶる優しい。「ママ、だいすき」。日に何度も囁いてくれる。出張から帰宅した私を、マンションのエレベーターまで迎えに走り出る。”Welcome Home!” 家に入ると、彼女のお手製のポスターが飾られている。時にはお弁当まで作り、不二家のペコちゃんのバッグに入れて、出勤する私に持たせてくれる。こんな風に書き連ねると、私は理想的な娘に恵まれ、蜜月の母娘生活を送ることを豪語するようだ。だが、私たちは砂糖菓子のごとく甘い関係を維持する訳ではない。衝突もあり、時には私が徹底して叱り飛ばす。「ガミガミ母さん」に辟易した娘が涙を流しつつ寝床につき、翌朝は目を泣き腫らしたまま、口をきこうともしない。そんな情景は日常茶飯事である。思春期を迎えようとしているのか、あるいは既に迎えたのか、自分なりの世界を構築し始めた娘の何気ない仕草や表情に「女」を感じ、切ない思いが胸に溢れる瞬間もある。母と娘が、女と女になっていく。そんなフレーズがあったっけ。「女と女になる」、その日は私が思うより早く到来するのだろう。娘の成長にたじろぐばかりの自分は、愚かな母親だ。そんな想いをめぐらせながら、娘と第九を歌う。親の贔屓目もあるのだろうが、彼女はドイツ語の発音が上手い。英語が母国語なのだから、利点もあるには違いない。それと同時に、子供特有の暗記力だろうか。瞬く間に歌詞を覚えてしまった。「ダメだねえ、ママは」。四苦八苦した挙句、カタカナ書きにした歌詞を頭に詰め込もうとあがく母親に、冷ややかな視線を送る我が子。今夜も、そんな「同士」と手を繋ぎ、隅田川に映し出される下町のネオンを眺めながら歩く。

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