著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。
相撲力士の肖像画に彩られる高い高い天井。ここは、両国国技館。その2階席で、私は歓喜の声をあげる。百万の人々よ、わが抱擁を受けよ! この接吻を全世界に!ヴィーデル (wieder)。ツァオベル(Zauber)。カタカナ発音のドイツ語にも臆することなく、満面の笑みをたたえ、体を揺すりながら。
X 月 X 日
シアトル。その言葉を耳にする時、脳裏を過ぎる街角の風景。魚が空中を舞うパイク・プレース・マーケットの店。桃色の花びらたちが主役となる春のワシントン大学のキャンパス。そして、ユニバーシティ・ストリート。土曜日の朝、ネクタイが窮屈そうな息子や、ロングドレスが自慢気な娘と手を繋ぎ闊歩した通り。目指すは、ベナロヤ・ホール。シアトル・シンフォニーの子供向けコンサートのシーズンチケットを購入し、定期的に通っていた。5歳児だった息子にタキシードもどきの一張羅を着せ、ウィーン少年合唱団のコンサートへと繰り出した夜の華やぎも懐かしい。やがて成長した息子と娘が揃って青少年オーケストラに入団、彼ら自身がベナロヤ・ホールの舞台に立ちバイオリンを奏でたのも、忘れられない思い出だ。音楽は、いつだって、私の横にあった。だが、気取ったクラッシック・コンサートだけではない。サンドイッチやフルーツを詰め込んだバスケットを片手に出向いた湖畔の公園で、バンドが奏でるロックやフォークソングを背景にピクニックを楽しむ。そんな夕暮れ時が、いくつもあった。思い浮かべるだけで、シアトルの夏を彩る緑や木漏れ日が目前に拡がり、涼風が心を吹き抜けるかのようだ。
「ロックが教科書」。「バッハが恋人」。どちらも、私が書いた記事のタイトルである。前者は、高校生の時、朝日新聞に投稿。後者は二児の母となった矢先、当時連載中のコラムに寄稿した。それらのタイトルが示すとおり、音楽は私の人生に深遠な影響をもたらした。「英語で司法試験に合格するだけの英語力を、どうやって身につけたの?」そんな風に聞かれることがある。なんのことはない。ロックが好きだったから、辞書と首っ引きで歌詞カードを訳しつつ、曲を口ずさんでいただけだ。ロック専門誌の編集者になるのだと決めて疑わなかった十代の日々が蘇る。今もロック好きは変わらないが、同じぐらい、いや、それ以上にクラシックにも目がない。紅茶を飲む店で、思いがけずバッハの曲が流れたりすると、それこそ少女のように頬を紅潮させ、うっとりとその世界に心を浸す。まさに、バッハは私の心の「恋人」なのかもしれない。
ああ、ユニバーシティ・ストリート。今も、土曜日の朝の光を浴びて、お洒落をした小さな紳士や淑女たちが、ママやパパと一緒にベナロヤ・ホールへと吸い込まれていくのだろうか。
X 月 X 日
東京メトロ半蔵門線で九段下まで行き、そこから都営新宿線に乗り換える。テキストとノートが入った鞄を抱えて。土曜日の昼下がり、私は4月から受講している社会人クラスへと向かう。(何を勉強しているかについては、後日のコラムに譲りたい。)入学を決めるまでは、葛藤があった。平日は勤め人としてバタバタしているだけに、週末だけは、家族と過ごす時間を大切にしたい。自分のために高額な授業料を支払うぐらいなら、子供の習い事に投資してやりたい。そんな所帯じみた願望が尾を引く反面、「どんなに小さくてもいい、自分だけの世界を持ちたい」、「昨日と同じ今日に、新しい風を吹かせたい」という願望もふつふつと沸き上がった。自問自答を繰り返した挙句、「えいやっ」と飛び込んだ世界は、予想以上に奥深く新鮮だった。クラス終了後は、喫茶店で仲間たちとお喋りに興じる。何気ない会話を契機として、仕事への活力を与えられた。利益関係が絡む職場での人間関係でもなければ、子育ての話が中心となる「ママ友」でもない。青春時代に逆戻りしたかのような友人関係を築くことができた。
「高尾山に登ろう。」清々しい秋空が拡がる日曜日、10数人のクラスメートと一緒に登山に挑むことになった。山歩きをする中で、こんな声をかけられた。「あなた、ダイクに興味ある?」英語では、Beethoven’s Ninth Symphony、ベートーヴェン交響曲第9番、通称『第九』 である。「音楽都市づくり」を推進する墨田区主催のイベントで、公募メンバー5000人による合唱団が、1985年以来、毎年2月の第3または第4日曜日に、国技館でオーケストラやソロイストと共に第九を披露するという。団員は、沖縄などを含め全国津々浦々から集い、ひいては約10カ国におよぶ外国からの参加者もいるらしい。指揮者は、国際的に活躍する松尾葉子さん。何とも魅力的なイベントではないか。オーディションはなく、誰でも一定の金額さえ払えば参加できるという気楽さにも惹かれた。「よし、やってみるか」。深い考えもなく、ただ好奇心のおもむくままに合唱団入団を決意した。ドイツ語、しかも暗譜で歌わねばならないことなど意にも介さずに。
X 月 X 日
「こんばんは。また、来たね」メトロ銀座線の浅草駅から地上に出ると、闇を背にしたスカイツリーが鮮やかな色を放ち、私たちを出迎えてくれる。港区での勤務が終わる夕刻、いったんは自宅に戻り、疲れた体を引き摺るように、隅田川のほとりにあるリバーサイドホールでの練習へと足を運ぶ。横を歩くのは、11歳の誕生日を迎えたばかりの娘だ。「一緒に第九を歌う?」そう尋ねた私に、彼女は目を輝かせ、大きく頷いた。団員のほぼ全員が大人。しかし、小学生でも参加可能とのことで、娘も入団を決めた。平日夜間の練習、しかも寒風が吹きすさぶ中、都心から浅草くんだりまで通うのはつらい。同じように仕事を持ちながら練習に通う社会人クラスの仲間数人に加え、我が子がメンバーに加わったことで、私は怠けがちな自分を奮い立たせ浅草へ通った。橋の袂で迎えてくれるスカイツリーの優美な姿が励みにもなった。
娘は、私にすこぶる優しい。「ママ、だいすき」。日に何度も囁いてくれる。出張から帰宅した私を、マンションのエレベーターまで迎えに走り出る。”Welcome Home!” 家に入ると、彼女のお手製のポスターが飾られている。時にはお弁当まで作り、不二家のペコちゃんのバッグに入れて、出勤する私に持たせてくれる。こんな風に書き連ねると、私は理想的な娘に恵まれ、蜜月の母娘生活を送ることを豪語するようだ。だが、私たちは砂糖菓子のごとく甘い関係を維持する訳ではない。衝突もあり、時には私が徹底して叱り飛ばす。「ガミガミ母さん」に辟易した娘が涙を流しつつ寝床につき、翌朝は目を泣き腫らしたまま、口をきこうともしない。そんな情景は日常茶飯事である。思春期を迎えようとしているのか、あるいは既に迎えたのか、自分なりの世界を構築し始めた娘の何気ない仕草や表情に「女」を感じ、切ない思いが胸に溢れる瞬間もある。母と娘が、女と女になっていく。そんなフレーズがあったっけ。「女と女になる」、その日は私が思うより早く到来するのだろう。娘の成長にたじろぐばかりの自分は、愚かな母親だ。そんな想いをめぐらせながら、娘と第九を歌う。親の贔屓目もあるのだろうが、彼女はドイツ語の発音が上手い。英語が母国語なのだから、利点もあるには違いない。それと同時に、子供特有の暗記力だろうか。瞬く間に歌詞を覚えてしまった。「ダメだねえ、ママは」。四苦八苦した挙句、カタカナ書きにした歌詞を頭に詰め込もうとあがく母親に、冷ややかな視線を送る我が子。今夜も、そんな「同士」と手を繋ぎ、隅田川に映し出される下町のネオンを眺めながら歩く。
2月22日
「このコンサートで歌うために、韓国から来たんですよ」。にこやかに自己紹介をする隣席の婦人。「私の国では、こんなチャンスがなくて」。流暢な日本語だ。聞けば、79歳だという。前列に陣取るのは、ドイツ人らしい女性たち数人のグループ。手渡された資料によると、アルバニア共和国や、コソボ共和国からの参加者もいるらしい。そういえば、私自身も、このような形でコンサートに出場する機会には、来日するまで恵まれなかった。シアトルのベナロヤ・ホールを素人合唱団で一杯にし、歓喜の歌声を一斉に上げることができたら、どんなに素晴らしいだろう。
本番直前リハーサルが始まろうとする中、国技館の2階席から舞台を見下ろす。つい先日、入団を決めたような気がするのに、早くも本番の日が到来した。どれだけ準備に時間とエネルギーを費やそうとも、たった一度の本番は、一瞬とも思えるスピードで足早に駆け抜ける。人生とは、往々にしてそんなものだ。オリンピックの選手から受験生まで、そして学芸会の劇の練習をする幼稚園児まで、その「瞬間」をめがけて力を尽くす。浅草に通った夜を振り返りながら、感慨深くなった。第九にかけては、私は優等生とは言い難い。悲しいかな、ドイツ語の歌詞を覚えるには前夜まで手こずり、遂には匙を投げそうにもなった。しかし、泣いても笑っても、今日が本番だ。やがてシアトルに戻るかもしれない私たちが国技館で歌うのは、これが最初で最後だろう。多分、いや、きっと。「来年も一緒に歌おうね」。楽しそうに談笑する仲間の声を聞きながら、無意識のうちに視線をそらす自分がいた。新日本フィルハーモニー交響楽団のメンバーが次々に舞台に現れ始め、調弦の音色が響く。会場に到着し、1階のマス席に腰を下ろした夫と息子が、懸命に手を振るのが見えた。やがて、ソロイストや指揮者も登場し、緊張感みなぎる中、「第31回 国技館 5000人の第九コンサート」が幕を開けた。第一部は、歌劇フィデリオ序曲。第二部が、合唱団の登場となる「交響曲第九番ニ単調作品125 歓喜によせて」。ライトに照らし出され、合唱団の全メンバーが立ち上がる。5,000人の心がひとつになる瞬間だ。
「時空を超えて、荘厳な夢を見ているような迫力でした」。応援に駆けつけてくれた友人が、メールにそう書き送ってくれた。「すごいパワーだったよね。オーケストラもソロイストも、(合唱団に比べて)弱々しく聞こえたぐらいだよ」。息子も同じように言った。「ママ、目立ってたよ。歌いながら、いかにも楽しそうに体を揺り動かして。他の人は皆、真面目に直立不動なのにさ。」ハッハッハ。大したもんじゃない、あんたの母さんは。5000人の中で目立つなんてさ。私は照れ笑いをしながら、心で呟いた。そう、それはとてもとても楽しい「一瞬」だったのだ。シアトルで思い出のアルバムをひもとく時、両国でのシーンは歳月を経ても色褪せず、キラキラとその光を放ち続けることだろう。Freude!(ドイツ語で、「喜び」を意味する。)歓喜の歌声が、今も私の胸に響く。素敵な思い出作りのきっかけを作ってくれた仲間たちに、そして不肖の母の背を押し続けてくれた娘に、精一杯の感謝をこめて、「ありがとう」。
「5000人の第九コンサート」公式サイト
www.5000dai9.jp
掲載:2015年1月
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