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第60回 「AからE」への挑戦:14歳プロジェクト

私は、土に埋められたくありません。もっともっと生きたい。
私が死んだら、遺体を冷凍保存して、目を覚ます可能性を与えてください。

模擬裁判「無限小 Infinitesimal -14歳 生への希求-」シナリオより

今回のコラムでは、私が弁護士として第二の故郷・シアトルで積んだ経験を土台に日本で実現したい夢を描きたい。

ある再会

「AからE」への挑戦:14歳プロジェクト

我が家の14歳。夏休みに滞在した長野県菅平高原のレタス畑で。

14歳の自分に再会した。どこで? 青春の思い出が眠る地・神戸ではない。東京のど真ん中、永田町である。

心にふっと灯りが灯った。国会議事堂から道を隔てた所にある国立国会図書館で、そんな温もりを慈しんだ。長時間パソコンとの奮闘を続けた挙句、ようやくスクリーン越しに対面を果たした朝日新聞のバックナンバー。活字をまじまじと眺めるうちに、口元がほころぶ。「ロックも教科書」という記事。そのタイトルの向こう側には、テニスラケットを脇に抱え元町駅に降り立つ少女が見え隠れする。

神戸の女子校時代、私はブリティッシュロックに熱中していた。試験最終日には、テニス部の仲間と繰り出す三宮の繁華街で、なけなしのお小遣いをはたいては好きなグループのカセットテープを買うのを心待ちにしていた。(そう、CDともYou Tubeとも縁のなかった時代だ。)将来は音楽専門誌の記者になるのだと信じて疑わなかった。その情熱がほとばしる記事が朝日新聞に掲載されたのだ。

何十年振りの再会だろう。

「これさあ、ママが書いたんだよお。」

まさに14歳の誕生日を目前に控えた娘、そして17歳になったばかりの息子に見せてやろうと、後生大事にコピーをバッグにしまい永田町を後にした。

どこか郷愁を誘う放課後の中学校の教室。

復活への賭け

わざわざ国会図書館まで足を運び再会を果たしたのは、何も娘と息子に自慢をしようともくろんだからではない。私は今、仕事で14歳プロジェクトなるものに取り組んでいる。だからこそ、遠い日に綴った文を通して、その年齢の自分に向き合いたい願いが膨らんだのだ。

大学で教鞭をとるようになった私は、担当する授業の一環として模擬裁判の指導をしている。それは、14歳なる年齢の放つ神秘性を反映した模擬裁判でもある。大人とも呼べず子供とも言い切れない、いわば境界線上に存在する曖昧な年齢の少女に、どこまで自己決定権が認められるべきか? それをめぐる裁判である。

このテーマを選択する引き金となった実例がある。2016年、イギリスの14歳の少女が末期ガンと闘い死に直面する中で、自分の遺体を冷凍保存して欲しいと裁判官に申し出た。

「人体冷凍保存(cryonics)」は、現代医学では蘇生が不可能とされた人体を死後に冷凍保存し、医療が進歩した未来に解凍・治療しようとするものだ。アメリカとロシアに施設があり、全世界からの総計200体以上の遺体が冷凍保存されていると推定されている。「未来なら私のガンを治して、目覚めさせてくれるかもしれない。私はそのチャンスに賭けたいのです。それが私の願いです。」彼女は、切々と訴えた。「たとえ、蘇りが数百年後のことであるとしても。」そう付け加えて。

父親は反対を唱えたが、裁判官は彼女の申し出を認めた。その知らせを病床で聞き裁判官を英雄と称した少女は、まもなく息をひきとった。冷凍された彼女の体は、アメリカ・ミシガン州の施設に保存されている。

模擬裁判を行う上で、現実の法廷論争を土台にしようと考えていた私は、この話に胸をつかれた。人体冷凍保存なる選択肢は、生と死という最も深遠なテーマに真正面から向きあう機会も与えてくれる。

そして今、「東京からシアトルへと移住した14歳の少女・さやか」を主人公とし、不治の病に苦しむ彼女自身の生への希求に焦点を当てた模擬裁判「無限小 Infinitesimal」のシナリオに取り組んでいる。

亡き父と同じ道を歩むべく、さやかは物理学者を志す。一方、生物学者の母親は、ワシントン大学に客員教授として招聘を受ける。人体冷凍保存をめぐり、娘と母の間で図らずも生じた論争。晩秋の色が日ごと濃くなりつつある都心のビル街で、シアトルへの想いを馳せつつ、物語を紡いでいる。

模擬裁判に登場するワシントン大学の生協。シアトル在住時は、よくここで買い物をしていた。

「AからE」への挑戦

「私は、平面的な授業が苦手なんです。」

9月末に始まった大学後期の授業で、私は教え子を前に言った。

「だから、フラットではなくて、立方的な授業にします。」

責任重大な宣言をしたものだ、と思う。だが、これは私の本心でもある。私の授業では、ノートをとる必要などない。いや、律儀にノートをとるという行為自体が時間とエネルギーの消費じゃないか、とさえ思っている。 先生が一方通行の講義をしながら板書をし、生徒がそれを黙々とノートに写す。そのパターンが性懲りもなく繰り返される授業は大嫌いだったし(ああ、だからよく寝ていた!)、教師としてそれはしたくなかった。

第一、私の授業には試験なるものが存在しない。「カッコに適した記号を入れよ」といった類の質問を並べ立てた試験なんぞ作る気には到底なれない。(10人の教師がいれば10通りの教え方があるのはもっともだから、私のやり方が最適などと言う気も、さらさらない。)

あの手この手を駆使して、たった一つの隠された「正解」を探り当てる。そのようなスキルが要求されてきたのが、日本の伝統的な学校教育だ。保守的な進学校で私が受けてきたのもまた、そのような授業にほかならない。

10年程前、アメリカの新聞に掲載された私の記事が、日本の某国立大学入試の英語読解問題の一部に採用されたことがあった。その問題用紙がシアトルの自宅に送られてきた時、私は驚愕した。「この段落で、作者はどのような意図を持っていたか?」その手の質問が幾つか並び、受験生はAからEの五つの選択肢より回答を選ぶことになっている。

「えーっと、なんだろう?」

まさに作者本人である私が頭を傾げながら問題を解く。どこか、ヘンだ。AからEまで。その限定された枠の中では、「A、B、C、D、Eのどれも全部、おかしいんじゃないですか?僕なら、こう考えますよ」と自分の意見を表明することはできない。「アタシは、BとCの両方が正しいんじゃないかと思うの」と双方を選ぶこともできない。

「なんか間違ってるんとちゃう?」(と、ここだけはなぜか神戸弁で)私は口を尖らせる。異端児なのか、反逆児なのか。「正解」を探り当てることができないままに、「正解」を求めないアメリカへと飛び出した。私はそんな人間である。

私の授業は、あくまでも能動的なプロジェクトを中心に進行する。ノートをとることも暗記をすることも一切無い代わりに、「考える」そして「伝える」ことを重視し、討論やプレゼンテーションの時間を積極的に取り入れる。女性優遇枠を設けた大学理学部に対する逆差別訴訟にしろ、義務教育を拒絶する宗教的少数派が信教の自由を盾に闘う訴訟にしろ、授業で扱うのは正解が存在しない課題ばかりだ。だからこそ、「間違えることを気にしないで、いろんな意見を聞かせてよ」と学生にハッパをかけている。

教室だけが学びの場とも考えない。「スターバックスでラテ片手に授業ができないものかな?」私はそんな風に大真面目に学生に聞くような教師である。学外フィールドワークと銘打ち、いろいろな場所へ出かけていく。今学期は、東京地方裁判所で裁判傍聴ツアーをした。また、有志学生を引き連れて区立中学校2年社会科授業を訪問し、文字通りの現役14歳(または、ほぼ14歳)の生徒たちと対話授業を行った。

「今度は何にしようかな?」と常に思案している。

中学の社会科授業で実施した対話授業の一シーン。

法廷論争に見る人間ドラマ

立方的な授業を展開したい。そんな思いが深まる中で、模擬裁判に挑むことにした。模擬裁判自体を目標にするのではなく、あくまでも論理的対話のツールとして使いこなす。証人尋問を通して聴衆に原告・被告双方の言い分を聞いてもらい、討論を重ねた後、裁判官として判決を下してもらう。そのような全員参加型の授業に挑戦したいという意欲が高まった。

アメリカで訴訟関連業務に携わった経験を活かして、日本でも大学生や高校生、そして社会人を対象に、模擬裁判(証人尋問)を一部に導入した法律講座を担当してきた。だが、今回のように正式な教員として長期的に指導をするのは初めてだ。そんな時、「東大に連絡をとってみよう」と思い立った。

五月祭の一環として安田講堂で披露される東京大学法律相談所の学生による模擬裁判。

東京大学公認の学生団体・東大法律相談所が「五月祭」で披露する模擬裁判を、子供たちと一緒に安田講堂に見に行ったことがある。人間ドラマとしての魅力を放つ東大の模擬裁判は、魂がこもった芸術作品だ。

法と司法制度を学ぶ一手段として模擬裁判が位置づけられることは珍しくない。それよりもさらに根本的なところで、「社会とは」「人生とは」「人間とは」と誰もが問わずにいられない普遍的なテーマについても考えさせる奥行きの深い模擬裁判を展開しているのが東大である。

五月祭の一環として安田講堂で披露される東京大学法律相談所の学生による模擬裁判。

映画を彷彿とさせる映像を冒頭と結末に導入したり、音響や照明に工夫を凝らしたりと、細部にわたり配慮がなされているのもいい。生身の人間の息づかいが感じられ、法律とは無縁の一般市民であっても、世代や背景を超えて楽しめるようになっている。当時、小学生だった娘でさえも、2時間近くもの長時間、身を乗り出すように集中して見続け、「あれは、面白かったよね」と今も手放しで称賛する。 

東大法律相談所は、「アイドルと恋愛禁止条項」や「SNSと内定取り消し」、「児童虐待」など、社会のさまざまな側面をテーマに選択している。私のように海外在住期間が長かった人間にとっては、現代日本の一面を垣間見るようで興味深い。例えば、「清く正しく美しい」イメージを保持するために「恋愛禁止」を課されたアイドルの話などは、いかにも日本といった感がつきまとう。また、内定取り消しをめぐる訴訟は、就活ルックの一団が闊歩する日本のオフィス街が背景に映し出されるようで考えさせられる。

模擬裁判の体験を語ってくれた東大法律相談所の皆さん。

その東大法律相談所を訪ね、5人の学生さんたちと話す機会を持った。法学生が主なメンバーの法律相談所は、1947年創立以来70年の歴史を誇る。

「気をつけた方がいいよ、あそこの学生はプライドが高いから。東大の中でもエリート揃いだよ。」

東大法学部で学んだ知人からそんなふうに聞いて身構えていたが、実際には気さくな人が多く、話していて楽しかった。模擬裁判にかけては彼らの方が先輩だけに、助言を受けながら14歳プロジェクトに挑みたいと意気込んでいる。

模擬裁判の体験を語ってくれた東大法律相談所の皆さん。

近い将来、英語の模擬裁判を指導する立場になり、法教育という手段を活用して、日本とアメリカ、正式には東京とシアトル、二つの都市の架け橋となることを目指したい。スカイプなどのテクノロジーを使うことで、シアトルの学生にも現地からの参加を可能にし、海を超えた対話が実現できる場を創り出すことを心に描いている。

来年1月、14歳の少女・さやかが、シアトルの法廷で蘇生への希求を訴える。我が子への愛情ゆえに冷凍保存に反対を唱える母親。どちらの言い分が認められるだろうか?その成果をコラムで紹介できる日を楽しみにしている。

掲載:2017年12月

神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で "on behalf of oneself" という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

お断り:筆者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。



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