著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。
水無月の風の薫りは思い出を連れてくる。木々の緑に、白い光の矢に、生まれたての夏が匂い立つような昼下がり、誰かに肩を叩かれたような錯覚から振り返る。そこには例えば、母の故郷で従兄弟たちと蝉取りに駆けずり回る姿や、友達とプール帰りの黄昏時、水滴が滴り落ちそうな髪を光らせ、かき氷屋の暖簾をくぐる姿が浮かんでは消える。自分の前に拡がる未来という名の空白のキャンバスに気づきもせずに、時間を持て余しさえしていた贅沢な日々。二度と視界に入らない車窓の風景のように遠のいた日への郷愁が、ふつふつと沸き立つ。
「おおきくなったら、おだんごやさんになるの。 」6月の空の下、声高らかに娘が宣言する。彼女はみたらし団子が大好物なのだ。時おり買い物をするモールでの閉業した店の空間を思い出し、「ママ、あそこをかりて、おみせをしてもいい?」と神妙な顔つきで問う。 5歳の彼女に比べ、8歳の息子の方はもう少し現実的だ。飛行という私と共通の趣味を持つ彼は長年、「リンドバーグのようなパイロット」として碧空を遊泳する夢を育ててきた。「ベンゴシにはならない、絶対にならない」と豪語していた彼が、特許侵害訴訟に関わった母親が語る体験談に耳を傾けるうちに、特許専門の弁護士になりたいと言い出した。そうかと思えば、医学研究者として新薬の開発を手がけると宣言したり、事業を興す目標を掲げ、級友に起業案を話しては共同経営者になるよう呼びかけたりといった具合だ(こんな風に書くと随分と勉強家のようで気がひけるのだが、現実にはいつまでたっても宿題に着手しない彼を叱り飛ばす日々にうんざりしている)。
「大きくなったら何になるの?」 この瞬間、世界中でどれだけの少年や少女がこの質問を受け、目を輝かせながら答えていることだろう。野球帽の下ではにかむように微笑みながら。陽だまりの中でポニーテールを揺らしながら。そんな日々が私にもあった。後生大事に小銭を握り締めては「ミヨシ書店」へと駆け、少女漫画誌を手に意気揚々と家路を急ぐ土曜日の放課後は、漫画家になり連載を持つのだと決めて疑わなかった。3年生の時には、「デザイナーになるためにパリで勉強する」と作文に綴った。デザインに関心があった訳でも美術が得意だった訳でもないくせに、「デザイナー」なる片仮名職業の響きに惹かれ、またパリという地名にも陶酔していたのだろう。「大きくなったら何になるの?」もう誰も私にこんな質問はしない。最後にこの質問を受けたのは何歳の時だろう。子供達の前に悠然と拡がる空白のキャンバス。それにひきかえ、私の絵は既に完成したというのか。いや、そんな筈はない。冴え渡った空にすっぽりと包み込まれそうな午後、散歩道で娘に向かって呟いた。「そう、アリちゃんはおだんごやさんになるんだね。じゃあ、ママはおおきくなったらなにになろうかな?」間髪を入れず皮肉な笑い声が響いた。「ママはもうおおきいじゃないの!」「ママははもうベンゴシじゃないの!」予想をしていた答えとはいえ、「大きくなってしまった」現実への一抹の寂しさが胸を横切る。吹き過ぎた蒼い風を想い、遠い目をしながら、娘の手を引いて歩いた。
子供の成長を目のあたりにすることは、哀しいかな、朽ちつつある自分の若さを知らされることでもある。一方で子供達の存在そのものが人生にみずみずしい息吹を吹き込んでくれる。夢に向かって駆けて行く彼らの背を見守ることにより、親自身もいつしか喪失していた熱い想いを胸に甦らせることができる。今、私は息子のプロジェクトの手助けをしてやることにより、まさにその気持ちを味わっている。「キャリアとは。夢を育くむとは。」 息子は、そんなテーマをもとに本を作成する作業を始めた。起業への関心が尽きない彼は、『Book Bridge』 と名づけた「出版社」(いうまでもなくフィクションである)を設立した。 その「会社」の第一作品となる本を書くために、多彩な分野で活躍するプロフェッショナルを訪問してインタビューを行い、その結果をまとめるという作業を続けている。もっとも、たかだか8歳児の手による「本」だから、立派なものに程遠いことは覚悟している。彼は一昨年の夏も、著名なパイロットにインタビューをしたり図書館でのリサーチをしたりといった経過を経て、『リンドバーグのぼうけん』 なる題名の、平仮名の羅列で書かれた本を仕上げた。日本語の読み書きが遅々として進まない幼稚園児にとっては苦労も大いにあり、指導をする私自身も往々にして苛立ちの声をあげた。幾度も匙を投げそうになりながらも、7月末の夜、やっとの思いで仕上げた原稿をKinko’sでコピーし、空色のカバーを付けた完成作品を手にした時は、さすがに息子も達成感に満たされたようだ。隣接したカフェで母子2人、ささやかなお祝いをした夜を懐かしく思い出す。あれから2年分の成長を遂げた息子に、日本語・英語の双方で新たな本を書くことを薦めた。「ようし、その本を 『Book Bridge』 の最初の本として売り出そうよ。」彼の言葉に熱がこもった。
私が知人・友人を中心にコンタクトをとり、息子はインタビューを開始した。特許弁護士、ビジネス法弁護士、会社経営者、医師、バイオリン教師。いろいろな人達が快くインタビューに応じてくれた。アメリカ人、日本人、そして日系人。バックグラウンドもさまざまである。「お仕事のどんなところが一番楽しいですか?」「この仕事に僕が就くとしたら、どんな勉強をしたらいいですか?」「子供の時は、どんなものに興味がありましたか?」「ヒーローは誰でしたか?」「もう一度、子供に戻れるとしたら、何がしたいですか?」あらかじめリストにしてきた質問を息子が読み上げる形でインタビューは進行するが、時には予想外の脱線があり、話が意外な方向へと向かうのも楽しみのひとつだ。学校中心の限られた世界しか経験してこなかった2年生には貴重な社会勉強である。そして、親の私の収穫も大きい。
大人の誰もが、かつては子供だった。当たり前のことが、これまでのインタビューを通して妙に新鮮に感じられる。バイオリンの先生は、信州の雄大な自然を堪能しながら成長した少女時代を懐かしい面持ちで語ってくれた。戦争が落とした影、その一方で「混沌とした時代だからこそ情操教育が大事」とバイオリンのレッスンを薦めた父親や、世界的に著名な鈴木メソッドを生み出した教育者、鈴木慎一先生など、人生に深遠な影響をもたらした人達の話を聞く光栄にも恵まれた。東京の法律事務所に5年間勤務していた国際ビジネス法専門の日系人弁護士からは、日米文化比較論とも呼べそうな体験談を聞いた。40代の彼はベルビュー出身だが、小学校および中学校時代、クラスでアジア人は彼一人のみだったというから驚く(現在のベルビューは人種、国籍などあらゆる面において多様性に富み、特にアジア人の占める割合は大きい)。白人文化に溶け込むことが優先されていた当時の風潮も重なり、彼は「土曜日本語学校に通って欲しい」という祖父母の希望を拒絶した。現在はそれを後悔しているようだ。まさに土曜学校に通学し、時には「漢字なんて大嫌い」と駄々をこね宿題を拒否しては私を困惑させる息子に、彼は「どんな職業に就くにしろ、外国語が喋れるということは大きなプラスになるんだよ。大人になってからでは外国語の習得は難しくなるよ。今のうちにがんばっておこうね」と励ましの言葉を贈ってくれた。
最も意外な展開を見せたのが、バイオベンチャー企業アキュセラ社長の窪田良氏(写真右)のインタビューである。アキュセラは加齢黄斑変性症という目の難病の治療薬開発に取り組んでいる。慶應義塾大学医学部卒業。医学博士。会社経営者。窪田氏のプロフィールにはいかにもエリート然としたタイトルが並ぶだけに、幼少時代から優等生人生をわき目も振らずに直進してきたのだろうと、お行儀の良いお坊ちゃんタイプを自分勝手に思い描いていた。以前、一流のロースクールを優等で卒業した特許弁護士を高層ビルの瀟洒なオフィスに訪ねインタビューを行った際、少年時代を回想した彼はいともあっさりと言ってのけたものだ。「僕は幼い頃から勉強が好きでね。どの科目も得意だったし、学校でも家でも問題はなかった。」 まさに順風満帆のエリート人生を彷彿とさせる発言が続いた。実は、「窪田さんからも、その手の発言が出るかな」と僭越ながら予想しつつ会社を訪ねた。ところが、どうだ。インタビューが始まった途端、「えっ、本当ですか」とつい身を乗り出さずにいられなかった。「小学生の頃は劣等生で成績は2か3でした。」「中学を卒業したら就職しようと思っていました。」「自立心が強かったので、お小遣いは自分で稼ごうと、新聞配達をしていました。」
こちらの予想は見事に裏切られ、波乱万丈な人生を反映する意外なエピソードがあれもこれもと飛び出す(ちなみに、役者志望で撮影所でのアルバイトをしたこともあるそうだ)。両親は、「自分の人生は自分で築くもの」というスタンスを保ち干渉は一切せず、一人息子が中卒で働くと言った時でさえ、「そういう人生もあるだろう」と反対を唱えなかった。あえて我が子を遠くから無言で見守るという、それも一つの選択肢だったのだろう。話が進むうちに、2児の母として考えさせられることも多かった。父のアメリカ赴任により、窪田氏は小学校から中学校にかけて3年間、ニュージャージー州の学校に通った。「多様性を反映する環境が我が子にとってプラスになる」と信じた父は、日本人駐在員の家庭が多い地域を避け、さまざまなバックグラウンドを持つ生徒が集まる学校を息子の為に選択した。その学校での経験が、アメリカで事業の運営をする氏の人生に深い影響をもたらした事実と照らし合わせれば、やはり父親の選択は賢明だったのだ。「尊敬する人は」という質問に、いわゆる有名人ではなく、「父です。とても頭の良い人だから」という答えがすんなりと返ってきたのも頷ける。中学生になるまで成績は芳しくなかったとのことだが、それでも、「なぜ雨が降るの」「なぜカブトムシはこんなに力が強いの」とあらゆることに疑問を抱き、それを疑問に終わらせるにとどまらず、自ら調べ上げたり人に聞いたりしては真摯に答えを追求した、というところが普通の子供とは違う。さらに感心させられるのは、「どうしたら世界の人の役に立てるか」を念頭におき、無目的のまま時間に流されるのでは生きている意味がないと常に明確な目標に向かい努力を重ねていたことだ。新薬開発により難病に苦しむ世界中の人達に貢献するという現在の使命感を彷彿とさせるような幼少時代そして青春時代を垣間見る思いだった。
アメリカに来て間もない頃、私はコミュニティ新聞の記者として、詩人や、我が子を殺人により奪われた母親など多くの人達にインタビューをしてきた。どの人の人生にもそれぞれの物語があり、インタビューアーの役目は巧みな質問により限られた時間内にその物語を最大限に引き出すことである。こうして息子と共に物語を探求することになろうとは当時は夢にも思わなかった。8歳児が彼なりに「キャリア、そして人生」を考える契機を持ってくれたら、と願いつつ始めたプロジェクト。これからもインタビューは続く。新たな物語との出逢いを心待ちにしている。「さあ、どんな絵を描こうかな」と絵筆を手に、空白のキャンバスの前に立つ我が子、そして他の多くの子供達に無言の声援を送りながら。
掲載:2009年6月
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